第三十訓 勝負事で油断するのはやめましょう
「いや……す、すごいね」
俺は、少し息を切らせながら、頬を赤らめながら観客席に向かって愛想笑いを振りまいている立花さんに声をかけた。
「マジでペンギンに詳しかったんだね、君……」
「ふ、ふふん……」
俺の賛辞に、立花さんは目をぱちぱちと瞬かせながら、俺の事を一瞥する。
「こ……これくらい、ペンギン好きなら当然だよ」
そう言った彼女の顔は、一見いつも俺に向けるのと同じ仏頂面に見えたが、その頬がぴくぴく痙攣していて、口角が上がるのを必死で抑えているのが分かった。
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、結構嬉しいらしい。
「……素直じゃないなぁ」
「は? 何か言った?」
「アッイエ。何でも無いっす!」
思わず漏らした呟きを聞き咎め、険しい目で睨みつけてきた立花さんに辟易としながら、俺は慌ててはぐらかした。
そして、声を顰めて言葉を継ぐ。
「……でも、このクイズの難易度なら、優勝は確実じゃね? 他の人たちは、ボタンを押す事も出来なかったみたいだし」
「……うふふ」
俺の言葉に、立花さんは何も答えなかったが、その口元は緩み、変な笑い声が漏れていた。彼女も、勝利を確信しているようだ。
――と、その時、
「――さあ! 続きまして、第二問で~す!」
「お、おっと!」
司会のお姉さんの声が上がり、俺は慌ててルームランナーの上で走る体勢を整えた。
隣のカップルたちも、次こそは解答権を得ようと、意気込んだ様子で耳を澄ましている。
俺たちの体勢が整った事を見た視界のお姉さんは、小さく頷くと、手元の紙に目を落とし、次の問題を読み上げようと息を吸った。
……さて、次の問題は、どんな難問だろうか――?
「第二問! コウテイペンギンとオウサマペンギン、身体が大きいのはどっちでしょうか?」
「……へっ?」
出題の内容を聴いた俺は、
(い……いや、カンタン過ぎだろ! 第一問との難易度の差、激し過ぎないッ?)
と愕然とする。
と、次の瞬間、
“““ピピピンポ―――ンンンッッッ!”””
まったく同じタイミングで、三つのチャイム音が重なった。
それと同時に、並んだ三台のルームランナーが一斉に動き出す。
「う、うおっ?」
虚を衝かれた俺は、動き出したベルトの上で、さっきと同じようにバランスを崩してしまった。
一方、他のふたりは俺とは違い、動き始めるルームランナーのベルトの上で猛然とダッシュし始める。
俺も何とか体勢を立て直し、慌てて走り始めた。
――だが、
「……ハイッ! SAY☆YAさんが一瞬早い! 美沙姫さん、解答をどうぞ~っ!」
「えと……コウテイペンギンッしょ!」
「……はいッ! 正解で~す!」
第二問のポイントは、SAY☆YAさんと美沙姫さんのカップルが獲得した。
ほぼ同時にスタートした弦田さんの旦那さんも負けじと走っていたものの、僅かにSAY☆YAさんの足の速さに及ばなかったらしい。
一方、俺のルームランナーの液晶表示は、一瞬出遅れたとはいえ、まだ130までしかカウントされていなかった……。
ちなみに、今俺たちが乗っているルームランナーは、一定の速さでベルトが動くタイプではなく、走っている人の歩幅や足をつくタイミングを内部コンピュータが瞬時に計算して、自動でベルトの流れる速度を変えるタイプのものだった。
つまり、実際の地面で走るのと変わらないという事だ。
(……あれ? もしかして、他のふたり、めっちゃ足が速い?)
と、俺が肩で息を吐きながら嫌な予感に苛まれていると、他のふたりの会話が耳に入って来た。
「速いですね。これでも僕は、高校の時に短距離走でインターハイに出場した事もあるんですが、最近太っちゃって、すっかり衰えてしまったみたいです」
「いや~、おニイさんも充分に速いっすよぉ! まあ……俺っちも、逃げ足の速さには自信があるっすけどね!」
「逃げ足……ですか?」
「そーそー! 俺っちって、この通りの仕事なんで、しょっちゅう追っかけられるんすよ! ……で、ついたアダ名が“ヤリ逃げのSAY☆YA”――ってね!」
「や……ヤリ逃げ……ですか?」
「そっすそっす! シッポリいっちゃった娘のカレシさんとか、勘違いしちゃった女の子とかに、結構しょっちゅう」
「……SAY☆YAっち?」
「あ……違うよ美沙姫っち! も、もちろん昔の話! 今はすっかり、美沙姫っち一筋だからっ!」
弦田さんの旦那さんを相手に自慢げに話をしていたSAY☆YAさんだったが、美沙姫さんの低い声を聞いた瞬間、サーっと顔を青ざめさせて、慌てて言い繕う。
「……」
そんな隣のやり取りを見ながら、俺は秘かに、SAY☆YAさんとは違う理由で青ざめていた。
……どうやら、弦田さんとSAY☆YAさんは、脚力に自信があるようだ。
そして、今の一走の結果を見る限り、ふたりの自信は、きちんとした実力に裏打ちされたものだ。
一方、俺の方といえば、大学に入ってからはロクに運動もしておらず、全力疾走するのは、寝坊して電車に乗り遅れそうになった時くらい。
まともな脚力勝負になったら、他のふたりにはとても敵わないだろう……。
「……おい」
「ッ! ひゃ、ヒャイッ!」
俺は、傍らから上がった、低く押し殺した声にビクリと身を震わせ、上ずった声で返事をした。
恐る恐る横を見ると、眉間に深い深い皺を刻んだ立花さんが、殺気の籠もった目で、俺の事を睨んでいる。
彼女は、震え上がる俺に、ドスの利いた声で静かに言った。
「……何やってんのさ?」
「す……スミマセン……」
「せっかくのイージー問題だったのに、アンタのせいでポイント取れなかったじゃん」
「め……面目ない……デス」
立花さんの言葉に言い返せようはずもなく、俺はコメツキバッタのようにペコペコと何度も頭を下げる。
そんな俺の顔をもう一度ギロリと睨みつけた立花さんは、噛んで含めるように、殊更にゆっくりと言葉を継いだ。
「もし、あんたのポカで優勝できなかったら……マジで分かってるよね?」
「……どんだけ優勝したいねん。そんなに、あのぬいぐるみが欲しいのかよ……」
「なんか言ったッ?」
「い、イエッ! 何でもないであります、ハイッ!」
「……優勝するよ! 分かったッ?」
「い、イエス! ユアハイネスッ!」
立花さんの鋭い声に、俺は慌てて背筋を伸ばし、某帝国の白き死神のように恭しく最敬礼をするのであった。
――生まれて以来最大の命の危険が、すぐここに迫っている事を確信しながら……。




