第二十六訓 廊下で暴れるのはやめましょう
「……は?」
混雑したトイレからようやく帰って来た立花さんは、『ミクと藤岡は、ふたりで先に行った』という俺の言葉を聞くや、眉間にマリアナ海溝並みの皺を刻みながら、低い声で言った。
「……すんませんでした!」
本職のヤクザすら震えながら自ら小指を差し出してきそうな、彼女の凄まじい殺気に中てられた俺は、即座に腰を直角に曲げ、深々と頭を下げる。
そんな俺に、立花さんはドスの利いた低い声で尋ねた。
「……何考えてんのよ、アンタ? ホダカとあの女が、今以上に仲が良くなっちゃってもいいの?」
「そ……そういう訳じゃ……ないけど……」
「そういう訳じゃないんなら、どうして行かせちゃったのさ! ふたりきりので……デートにッ!」
「そ……それは……」
立花さんの詰問に、俺は思わず口ごもる。
……確かに、彼女の言う通りだ。
そもそも俺は、ミクと藤岡が別れて、自分があいつと付き合えるようになりたいと考えて、同じ目的を持った立花さんと手を組んだ。
そして、立花さんは、藤岡にべったりと張り付き、その目的を果たそうと躍起になっていたのに……俺がさっきした事は、まるで真逆の事だった。
立花さんが烈火のごとく怒るのはもっともだ。
でも――、
「み……ミクの寂しそうな顔を横で見てたら……何とかしてあげたい――笑顔になってもらいたいって思ったんだ。でも……それには俺じゃ力不足だったから……」
「――だから、ホダカとデートに行かせてあげた……って?」
「う……うん」
「バッカじゃないのッ?」
頷いた俺に、容赦なく立花さんのカミナリが落ちる。
俺は、正に“雷に打たれた”ように、ビクリと身体を震わせた。
そんな俺を睨みつけながら、立花さんは眦を吊り上げて、更に怒声を浴びせかける。
「どーすんのさ! ホダカたちをふたりっきりにしちゃって! このままふたりの関係が深まっちゃって、うっかりチュ……チューとかしちゃったら……! そんな事になっちゃったら、あたしの……ついでにアンタの計画は台無しになっちゃうじゃないの!」
「い……いや! そこは大丈夫だよッ!」
興奮して喚き散らす立花さんに向け、俺は慌てて首を横に振った。
そんな俺に、立花さんは懐疑に満ちた目を向ける。
「……大丈夫だって? 何で言い切れるのさ?」
「だ……だって俺、ふたりにちゃんと言ったからっ。『おさわりは禁止』だって! だから、チューはおろか、手を繋いだりもしないはず――」
「ただの口約束でしかないじゃんかぁっ!」
自信満々に言い切る俺の声を、立花さんの絶叫が遮った。
彼女は、仁王様のように目を剥きながら、上ずった声で一気に捲し立てる。
「小学生じゃあるまいし……。付き合いたての大学生が、アンタにそんな事を言われたからって、おとなしく従う訳無いでしょうが!」
「そ……そんな事ない……はず!」
「じゃあ、逆に訊くけどさ! アンタがあの女ぎつ……ミクさんの立場だったら、『相手に触るな』って言われて我慢できるの?」
「そ……それは……」
立花さんの言葉に、俺は思わず言葉に詰まり……それから、小さな声で答える。
「確かに……ちょ、ちょっと無理かも……」
「ほら見ろ!」
「――って、今の質問、ちょっとおかしくないかっ?」
「何がさッ?」
「そ……そういう仮定の話だったら、性別を合わせて、“藤岡の立場だったら”って訊くのが普通じゃないのか? なのに何で、ミクの方――?」
「そんなの、決まってるでしょ」
俺の言葉に、立花さんはフンと鼻を鳴らした。
「あのホダカに限って、そんな破廉恥な事をする事なんてありえないからだよ」
「いや、そのりくつはおかしい!」
自信満々で言い切った立花さんに、俺は思わず抗議の声を上げる。
「そ……それを言うなら、ミクだって同じだよ! アイツが、公衆の面前で男と手を繋いだり、そ、それ以上のコトをするなんてありえない! だって……俺でさえ、幼稚園の卒園式が、アイツと手を繋いだ最後なんだぜ!」
「えぇ……?」
俺の言葉を聞いた立花さんが、戸惑いの声を上げた。
「いや、それって……幼馴染としてどうなの? 普通、幼馴染だったら、手ぐらい日常的に繋ぐもんじゃないの……?」
「……いや、そこでカルチャーショック受けないでもらえます? 普通に傷つく……」
「ひょっとして……そんなに近い関係だと思ってるのは、アンタだけなんじゃ――」
「そ、そんな事無いッ! ……多分」
顔を引き攣らせながら、激しく首をブンブンと横に振る俺。
そんな俺の事を冷たい目で一瞥した立花さんは、フイっと踵を返すと、何も言わずに通路を歩き出そうとする。
それを見た俺は、慌てて身を翻し、両手を広げて彼女の行く手に立ち塞がった。
「――あ! ちょ、ちょっと待って!」
「……なに? 邪魔しないでよ」
立花さんは、不機嫌そうな顔で俺の事を睨みつける。
その鋭い目にたじろぎつつも、俺は虚勢を張って彼女に問い質す。
「ど……どこに行くつもりなんだ?」
「決まってるでしょ? あのふたりのところにだよ!」
その大きな瞳をギラギラと輝かせながら、声を荒げる立花さん。
そんな彼女に対し、俺は険しい顔でかぶりを振った。
「だ……ダメだよ! 行かせる訳にはいかないよ!」
「何でよ! ふたりきりにさせてたらマズいって言ってんじゃん!」
「で、でも! 今だけは!」
立花さんの迫力に圧されながらも、それでも俺は彼女に道を開けようとはしない。
俺の脳裏に、さっき、藤岡の横に並んで歩き出した時のミクの顔が思い浮かんだ。
嬉しくてたまらないといった様子の、幸せいっぱいの笑顔を……。
また、胸の奥がずきりと痛むのを感じながら、俺は断固とした口調で立花さんに言う。
「頼む! 今だけはふたりだけにしてやってくれ! お願いだか――」
「意味分かんない。いいからどいて!」
苛立った立花さんが、立ち塞がる俺の身体を無理やりどかそうと、俺のシャツの襟首を掴んで、思いっ切り引っ張った。
思ったよりも強い彼女の力に、俺は思わずバランスを崩す。
「ら、ああああああっ?」
俺はそのまま派手にコケた。そして、
「きゃあっ!」
「ぐえええっ!」
同時に甲高い悲鳴が聞こえたと思った次の瞬間、何かが身体の上にのしかかって来て、その圧力で俺は潰れたカエルのような呻き声を上げる。
咄嗟にのしかかってきた何かを、腕で払いのけようとした俺だったが――、
むに
という柔らかい感触が掌に伝わって来た事に戸惑った。
「……むに?」
俺は、掌に当たっているものが何なのか、もっと良く確認しようと指に力を込めてみる。
と、次の瞬間、
「ぎゃああああああっ! ナニしてんの、このクソド変態いいいいいいぃッ!」
「へぶしぃっ!」
衣を裂いたような悲鳴と共に、左頬に強烈な衝撃を受けた俺は、絨毯敷きの床の上をゴロゴロと転がった。
「痛たたたた……な、何が……?」
「なななな何がじゃないわよ、この破廉恥陰キャ色情魔があッ!」
ジンジンと痛む左頬を押さえながら、ヨロヨロと身を起こした俺に、容赦の無い罵声が浴びせられる。
声の方を見ると、膝立ちした立花さんが、目に涙を浮かべながら、すごい顔で俺の顔を睨みつけていた。
状況が理解できない俺は、目をパチクリさせながら、首を傾げる。
「あ……あれ? お、俺……なんかしちゃいました……?」
「なんかしちゃいましたじゃないわよ、このアホボケカスが!」
彼女は、顔を真っ赤に染め、両手で胸を隠すようにしながら叫んだ。
「お……女の子の胸を掴んで揉んでおきながら……!」
「ふぁ、ファ――ッ?」
立花さんの言葉に、俺は仰天して、思わず自分の掌を凝視した。
「む……むむ胸ぇ? じゃ、じゃあ……今の微かに柔らかな――」
「誰の胸が微かでささやかで慎ましやかだってェぇぇぇッ!」
「そ……そこまでは言ってなぐぼあぁッ!」
言葉の途中で、飛来してきたハンドバッグをまともに顔面に食らった俺は、再び仰け反り倒れる。
だが、すぐに起き上がると、慌てて首を左右に振りながら、必死で弁明する。
「ち、違う! い、今のは不可抗力! 冤罪だ! は、話せば分かるッ!」
「問答無用ぉぉぉぉぉっ!」
立花さんは、百年くらい前の青年将校みたいなセリフを吐きながら、今度は履いていたローファーを脱ぐと、それを手に持って大きく振りかぶった。
ヤバい! 殺られる――!
――その時、
「あ、あの~。お取込み中、スミマセン」
「「……ッ!」」
唐突に俺たちに向かってかけられた声に、俺と立花さんはピタリと動きを止めた。
そして、声のした方へ、顔を同時に向ける。
俺たちに声をかけてきたのは、明るい青色のスタッフジャンパーを着た若い男性スタッフだった。
「……あ、す、スミマセン! か、館内で騒いじゃって……! も、もう暴れたりしませんから……」
直感的に怒られると思った俺は、慌ててペコペコと頭を下げる。
だが、男性スタッフは苦笑しながら首を横に振った。
「ああ……確かにそれもそうなんですが、お声がけしたのはそっちの事じゃなくてですね……」
「スミマセンスミマ……へ?」
「……どういう事?」
男性スタッフの言葉を聞いた俺と立花さんは、訝しげに顔を見合わせる。
そんな俺たちに向かって、男性スタッフは小脇に抱えていたチラシの束から抜き出した一枚を差し出し、
「もし、お時間があるようでしたら……」
と、話を切り出したのだった。




