第百八十訓 辛い事があった時は寝て忘れましょう
それから――数時間後。
「ただいま……」
赤発条の自宅アパートに帰ってきた俺は、誰に向けた訳でもない帰宅の挨拶を呟きながら、ドアの鍵を開けた。
聞き慣れた甲高い軋み音を立てて開いたドアの隙間に、身体を捻じ込むようにして部屋に入った俺は、三和土でスニーカーを脱ぎ捨てる。
そして、明かりを点けるのも億劫に思って、真っ暗なままの部屋にフラフラと覚束ない足取りで入った。
幸い、勝手知ったる自分の家なので、何かに蹴躓く事も無くリビングのベッドまで辿り着いた俺は、そのまま背負っていたリュックを床に放り投げてから、斃れるように身を投げ出す。
「はぁ~……疲れた……」
そう零した俺は、枕に顔を押し付けたまま、深く長い溜息を吐いた。
――いや、マジで疲れた……。
あの後……公園でミクに想いを伝え直し、その結果見事に玉砕した俺は、「泊まっていかないの?」と訊ねる母さんの声を振り切って、この自宅アパートに帰って来た。
時間も遅かったから、母さんは俺が実家に泊まるものだと思っていたらしい。
……まあ、俺もはじめはそのつもりだった。
でも……家を隔てているとはいえ、すぐ隣にミクが居ると思うと、どうしても公園での事が頭の中でフラッシュバックしてしまって、一泊するなんてとても耐えられそうになかった。
言葉少なに帰ろうとする俺の事を、母さんが強く引き留めなかったのは、俺の顔を見て大方の事情を察したからだろう。
でも――あの人にしては珍しく、顔のどこも笑ってなかったから、内心では俺の事をメチャクチャ心配してそうだったな……。
「……『帰った』って連絡くらいするか」
枕に顔を埋めたまま、十分ほども過ごしていた俺は、ようやくそう思い立ち、ベッドの上でモゾモゾと身を蠢かして仰向けになると、ズボンのポケットからスマホを取り出した。
そして、母さんに電話をしようとするが……。
「……電池切れしてるし」
いくら電源ボタンを押しても明るくならないスマホを、俺は暗闇の中で恨めしげに睨む。
……そういえば、今朝うっかり充電し忘れて、夕方の段階でスマホの充電が無くなりかけてたんだっけ。
帰りの電車では、呆然自失としてスマホを触る気力も無かったから、電池切れしている事に気付かなかった……。
「はぁ……もういいや」
面倒くさくなった俺は、ため息交じりにそう呟き、役立たずのスマホを枕の横に放り投げる。
敷き布団の上で跳ねたスマホは、そのままベッドの下へと落っこちた。
「……くそっ」
スマホがフローリングの床に落ちる音を聞きながら、俺は忌々しげに毒づく。
「もう……何で、こう何もかもうまくいかねえんだよ、畜生が」
結構な勢いで床に落ちたスマホに傷が付いたり、画面が割れたりしてやしないかと心配するのも煩わしかった。
全てが億劫だった。
母さんに連絡するのも、床に落ちたスマホを拾うのも、部屋の明かりを点けるのも、手を洗うのも、服を着替えるのも、歯を磨くのも、……今日の事を思い返すのも、
――ミクの事を考えるのも。
「もう……どうにでもなれ……!」
そう、自棄気味に吐き捨てた俺は、ベッドの上で身を縮こませ、掛け布団代わりのタオルケットを頭から引っ被った。
こういう時は、もう寝ちまった方がいい。今日の出来事や、あの公園での事からずっと続いてるズキズキとした胸の痛みを寝ただけで忘れられるなんて出来るとは思わないけど――少なくとも、寝ている間は考えないで済むだろうから……。
そう思いながら、希いながら、俺はギュッと目を瞑る。
――だが、
「…………やっぱり、全然眠れねえ……」
そう呻きながら、俺は閉じていた目を開いた。
目を閉じた途端に、否が応にも今日のあれやこれやが脳内のスクリーンに自動投影されて、安らかな眠りの世界へ向かおうとする俺の意識を引き摺り上げるのだ。
――家の玄関で見た、浴衣姿のミク。
――ハフハフ言いながらタコ焼きを頬張るミクの顔。
――目をキラキラと輝かせながら、次々と上がる花火を見上げるミクの横顔。
――公園で美味しそうにいちごおしるこを啜るミク。
――俺の告白を聞いて、ブランコに乗ったまま俯くミクのうなじ。
そして――
『でも…………ごめんなさい。私は……そうちゃんの気持ちには応えられない……』
そう答えたミクの、微笑みながらも泣き出しそうな顔――。
「……くそっ」
俺は、再び毒づいて唇を噛むと、被っていたタオルケットを忌々しげに跳ね除けた。
そして、握り拳を作って、自分の頬を殴りつける。
頬に鈍い痛みを感じたが――今感じている胸の痛みに比べれば、蚊に刺されたにも等しい。
「あー、マジでクソが! 何やってんだよ、俺……。ミクに、好きだった娘にあんな顔をさせちまって……」
俺は、自分自身を責めながら、仰向けのままで頭を抱えた。
……本当に最悪な奴だ、俺。
俺は、自分自身の気持ちにケリを付けようとするあまりに、結局はミクがどういう気持ちになるのかを考えられなかったんだ。
――そりゃ、こんな自己中な奴、フラれるに決まってるよなぁ。
「ふふ……」
そう考えた俺は、何だか無性におかしくなって、天井を見上げたまま、渇いた声で笑――いや、嗤った。
「ははは……はは……」
――嘲笑ってやったのはもちろん、他ならぬ俺自身に対してだった。




