第十七訓 路上で浮かれすぎるのはやめましょう
「土曜日……出かける……い、一緒に?」
思わず俺は、ミクからの誘いの言葉を上ずった声でオウム返しした。
一瞬、ミクが何を言ったのか、情報を処理できず、脳味噌が機能停止を起こす。
「え……? 何で? だって、お前には、もう……」
混乱しながら、無意識に『彼氏がいるじゃないか』と口走りそうになった俺だが、すんでのところで数日前に交わした会話を思い出し、慌てて口を噤んだ。
――そう、日曜日の夜。前のスマホが壊れる直前にかかってきた、ミクの彼氏の幼馴染と交わしたLANE電話を――。
『あの……あたしさぁ、今度の土曜日に誘われちゃったんだ、ホダカに。――「一緒に出かけよう」ってさ!』
そういえば……あの日確かに、立花瑠璃はそんな事を言っていた。――であれば、今度の土曜日、ミクの彼氏である藤岡穂高には予定が入っている事になり、逆に言うとミクの予定は空いている事である。
ミクが俺を遊びに誘うという事の辻褄は合う……。
……でも。
じゃあ、藤岡は、彼女の予定が空いているのに、別の女と遊びに行く約束をしていたって事か?
って事は――、
「……まさか、本当にあの娘の推測通りな――」
『……え? 何?』
「あ! い、いや、何でもない! コッチの話……うん」
ミクに呟きを聞き留められてしまった俺は、慌てて大きな声を出して誤魔化した。
ぐっと信憑性が上がってしまったと言っても、まだまだ推測の域を出ない事をミクに伝えて、いたずらに不安を煽りたくはない……。
だが――ミクの事を案じると同時に、自分の胸の中に小さな希望の火が灯ったのも感じた。
これは、恋愛の神が、あまりに哀れな境遇の俺を憐れんで、気まぐれに与えてくれた最後中の最後のチャンスなのではないか?
このチャンスをものに出来れば、一度は諦めかけたミクの事を取り戻す事が出来るんじゃないだろうか――そんな事を考えながら、俺はミクに聞こえないように、少しスマホを離して小さく深呼吸する。
そして、トクトクとテンポの速い鼓動を刻む胸にそっと手を当て、落ち着くように心の中で言い聞かせてから、スマホに向かって口を開いた。
「う……うん。お、俺の予定は全然大丈夫だよ……だぜ」
『そっか、良かったぁ!』
俺の答えを聞いて、ミクは声を弾ませる。
嬉しそうな彼女の声に、俺も思わず顔を綻ばせながら、ふと尋ねた。
「で……どこに出かけるか、決まってるの?」
『あ、うん!』
俺の問いかけに電話の向こうで大きく頷いたらしいミクは、元気な声で答える。
『サンライズ水族館!』
「サンライズ……水族館?」
ミクの口から出た意外な固有名詞に、虚を衝かれた俺は思わず訊き返した。
「あれ……? お前、水族館好きだったっけ?」
『え……? ううん、私はそんなに……』
「え?」
俺は、ミクの答えに当惑して首を傾げる。
「ええと……じゃあ、何で水族館……?」
『あ……ええと、それはね……』
ミクは、俺の質問に一瞬言い淀んだ様子だったが、すぐに普段の元気な声が返ってきた。
『――あそこはさ、水族館以外にもいろいろあるじゃない。地下にたくさんお店が入ってたり、美味しい食べ物屋さんもあるし……そうそう、プラネタリウムも入ってるでしょ! 水族館を見終わった後も、色々と楽しめるかなぁって』
「まあ……そう言われれば、確かに……」
ミクの説明に、俺も納得がいった。
『サンライズ水族館』が入っている60階建ての複合ビル・サンライズ60は、水族館以外のレジャー施設や有名なブランドチェーン店なども多数営業していて、東京の観光スポットのひとつとして有名だ。ぶっちゃけ、あのビルの中を色々と巡るだけで、余裕で一日潰れる。
腹が減っても、地下のレストラン街に行けば、どんな料理でも食える。……確か、ミクの大好きな『古野屋』もあったはず。――うん、問題ない。
そ……そして、もしビルの中を歩き回って疲れてしまったり、ついうっかり終電を逃してしまったりしても、ビルの周辺や駅前のあちこちにあるオトナの――。
「――って! な、何を考えてるんだよ俺はッ! ま……まだ早いだろ、ソレはッ!」
『へ……早い? 何が……?』
「あ! い、いや……な、何でもないっす、断じて!」
突然俺が上げた奇声に驚いたミクからの問いかけを、慌ててはぐらかした。
そして、誤魔化すように言葉を畳みかける。
「わ、分かった! サンライズ水族館ね! う、うん、いいと思うよ、マジで!」
『……そう? 良かったぁ、気に入ってもらえて』
俺の言葉に、ミクも声を弾ませた。
『じゃあ、詳しい集合時間とかは、後でLANEで連絡するねー』
「ら、了解っす」
ミクの声を天にも昇るような心持ちで聞きながら、俺はまるで10倍速の鹿威しのように激しく何度も頷く。
――と、
『……って、ゴメン! そういえば、そうちゃんは外なんだよね? 『長引くと悪い』って言ってたのに、結局長くなっちゃった……』
「あ……い、いや、全然大丈夫だよ」
『むしろ、このままずっと話していたい』という声が喉まで出かかったが、明日は一限目から講義が入っている事を思い出した俺は、なけなしの理性で堪え、なるべく平静を装いながら違う言葉を音声にした。
「でもまあ……今日はもう遅いから、この辺で……」
『あ、うん! 分かった』
「……じゃあ、また……今度の土曜日……」
『うん! ――楽しみだね、土曜日』
「……ああ! そうだな!」
ミクの言葉に、俺は頬をだらしなく緩ませながら、千切れんばかりに首を縦に振って同意する。
『じゃあ……おやすみ、そうちゃん』
「おやすみ……ミク」
最後に挨拶を交わして、俺はスマホを耳から離した。
そして、『通話が終了しました』というメッセージが表示されるのを見届けてから、名残惜しさを感じながらスマホをスリープさせる。
そして、スマホを握っていない左手を固く握りしめ、
「……やったあああああああああっ!」
その場から勢いよく立ち上がり、喜びを爆発させた。
「キタキタキターッ! これは完全にフラグが立ったでしょ!」
これで、土曜日のデートで、ミクを一昨日の藤岡穂高以上の完璧なエスコートでリードする事が出来れば……一度はあいつの方に傾いてしまった彼女の気持ちを、俺の方に引き寄せられるはずだ。
これを千載一遇のチャンスと言わずして何とする!
「う……上手くすれば……その日のうちにはじめてのチュウとか、は、初めてのアレ的なアレとかも……!」
……と、夜道の片隅で熱情と劣情を燃え上がらせる俺だったが、
その時――、
「……もしもーし。お兄さん、こんばんは。ちょっといいですか~」
不意に背後から声をかけられ、思わず身体を硬直させた。
その声のかけ方……聞き覚えがある。
前に聞いた時は確か――。
「……」
沸騰していた心に液体窒素をぶっかけられたような気分で、俺は恐る恐る後ろを振り返る。
そこに立っていたのは――水色のシャツの上に濃紺色の防刃ベストを着て、頭には黄金に輝く桜の大紋をあしらった制帽を被るふたりの男。
ふたりの警察官は、顔ににこやかな笑みを浮かべながら、油断の欠片も無い鋭い光を放つ目で俺の事をさりげなく観察しながら、表面上は穏やかな声で言った。
「いや~、こんな夜遅くに随分と楽しそうだから、何だか気になっちゃってね。お兄さんにふたつみっつ訊きたい事があるんだけど、ちょっとだけ時間をもらっていいですかぁ?」
……どうやら、ミクとの電話で浮かれる俺の様子が、このふたりの警察官の目には怪しい奴だと映ってしまったらしい。
俺は、行き交う通行人の好奇に満ちた視線に晒され、やにわに恥ずかしさで顔が火照るのを感じながら、小さくコクンと頷く。
「……アッハイ」
――かくして俺は、人生二度目の職務質問を受ける羽目になったのだった……。




