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第百六十九訓 異性に会う時は身なりを整えましょう

 「……ッ!」


 玄関から上がったミクの声を聞いた途端、俺の呼吸と鼓動が一瞬止まった。

 ルリちゃんが通話していた時にこっそり横で耳を欹てていた事はあったものの、ミクの生声を聞くのは実に半月ぶり――この家で俺の誕生日会が開かれて以来である。

 俺は、反射的に玄関に向かいたくなるところをグッと堪え、自分の格好がおかしくないか、急いでチェックした。

 と、その時、


「颯く~ん! ミクちゃん来たわよ~! 早くおいで! ミクちゃんの浴衣姿、とってもキレイだから!」

「……ちょ、ちょっと待って!」


 “ミクの浴衣姿”というパワーワードに期待値が天井突破しながら、俺は上ずった声で返事をする。

 そして、傍らの窓ガラスに自分の顔を映して、ヒゲの剃り残しが無いかを急いで確認しながら、跳ねた癖っ毛を必死で手櫛で撫でつけた。


「……よし、こんなもんか」


 相変わらず冴えないながらも、何とか見れるレベルに整えた自分の顔を窓ガラスの反射で見て、俺は小さく頷く。

 そして、深く深呼吸して跳ねる鼓動と気持ちを静めると、落ち着き払った態度を装って、あえてゆっくりと玄関へと向かった。


「お……お待たせ……」

「あぁ、ようやくお出ましね」


 キッチンのドアをくぐった俺に、まず母さんが声をかけてくる。


「女の子を待たせるなんて、デリカシーが無いわねぇ」

「う、うるさいなぁ……色々とあるんだよ、男の子にもよ」


 母さんの小言に、思わずムッとして言い返す俺。

 ――と、その時、


「あ……あの、そうちゃん……」

「ッ!」


 おずおずと玄関から上がった可愛らしい声を聞いた瞬間、さっき落ち着かせたばかりの心臓が再び激しく高鳴り始める。

 俺は、恐る恐る玄関の方に視線を向け、


「……ッ!」


 そこに立っているミクの姿を見て、思わず息を呑んだ。


(き……きれい……!)


 驚愕のあまり、語彙力が死んだ。

 だが、それは、偽らざるシンプルな気持ちからのものだった。

 さっき母さんが声に出した通り、ミクは浴衣姿だった。

 薄い水色の地に濃いピンク色や藍色の朝顔をあしらった柄に、あずき色の帯を合わせた意匠の浴衣は、とても似合っている。

 髪形は、いつも下ろしているセミロングの髪を緩くまとめていて、おくれ毛が垂れたうなじが薄っすらとあしらった化粧と相まって、何とも言えず色っぽかった……。


「……」


 どうやら俺は、ミクの艶やかな浴衣姿を目の当たりにして、思わず放心し、


「……あの、そうちゃん? どうした……の?」


 と、心配そうな顔をしたミクに問いかけられるまで、その場に立ち尽くしていたらしい……。


「……あっ!」


 ミクの問いかけに、ようやく我に返った俺は、目を飛び出さんばかりに見開きながら、千切れんばかりに首を左右に振った。


「い、いや、何でもないっ! ダイジョーブっ!」

「……そう? ならいいんだけど……」


 ミクは、素っ頓狂な声を上げながら平静を装う(装えてない)俺に怪訝な目を向けながらも、それ以上追及する事はしなかった。

 その代わりに、視線を下に落として躊躇いがちに言葉を紡ぐ。


「ええと……ひ、久しぶり……」

「あ……う、うん。久しぶり……」


 ミクの挨拶に、俺は目を泳がせながら、ぎこちなく返した。


「あの……元気だった……か?」

「う、うん……」


 語彙力と判断力が大幅に麻痺した俺が、取り敢えず場を持たせる為にかけた問いかけに、ミクはコクンと頷く。


「そう言うそうちゃんも……?」

「ま、まあ……ボチボチだね……ウン」


 ミクに質問を返された俺は、顔面が麻痺したかのように引き攣った笑みを浮かべた。


「……」

「……」


 だが……それ以上にどんな言葉を交わせばいいのか分からず、俺たちは俯いたまま沈黙してしまう。

 決して、かける言葉も訊きたい事も無い訳じゃない。むしろ逆だ。

 この半月の間、ミクに訊きたくてしょうがない事がどんどんと増えていった。

 それは、


 ミクの近況や、

 ――藤岡との仲についてや、

 ――――半月前、俺が酔った勢いで告げてしまった告白に対するミクの気持ち……。


 でも……いざミク本人を目の前にすると、口と舌が石化したかのように重くなった……。

 ……多分、それはミクの方も同じだったのだろう。

 ――と、


「……あー、はいはい!」


 そんな俺たちの間に流れる重い空気を察したらしい母さんが、わざとらしく大きな声を上げた。


「ふたりとも、花火大会の会場に行くんでしょ? 早くしないと、道が混んで大変よ?」

「あ……そっか」

「確かに……」


 母さんの言葉に、俺とミクはハッとして、顔を見合わせる。


「確かに、早めに行っとかないと、出店が出てる所まで行きつく前に終わっちゃうかも……!」

「そ、それはマズい……。せっかくの花火大会で、りんご飴ひとつ食わずに帰る訳にはいかないもんな……!」


 ミクの言葉に賛同した俺は、慌てて玄関の三和土(たたき)に転がっていた自分のスニーカーに足を通し、母さんの方に振り返る。


「じゃあ、行ってくる! 向こうで色々食ってくると思うから、夕飯は無くて大丈夫だから!」

「はーい、了解~」


 俺の言葉に、母さんはおどけた調子で敬礼してみせた。

 そして、今度はミクの方に視線を向け、ニッコリと笑いかける。


「じゃあ、ミクちゃん、花火大会楽しんできてね~」

「あ、ハイ!」

「颯くんの事、ヨロシクね。目を離したらすぐ迷子になっちゃうから~」

「あ、分かりました。はぐれないように気を付けます!」

「ちょ! 何だよ、迷子ってさぁ! 俺、もう二十歳だぜ?」


 俺は、母さんの言葉に思わず抗議の声を上げた。

 そして、ミクにも苦言を呈する。


「……っつうか、そこはミクもツッコんでくれよ。何で母さんの冗談に乗ってんだよ……」

「うふふ、ゴメンなさい」


 俺の言葉に、ミクは口元に手の甲を当ててクスクス笑いながら謝った。

 そんな彼女の愉しそうな顔を見るだけで、俺の憤懣はきれいさっぱりどっかに行ってしまう。

 と、思わず頬を緩ませている俺の耳元で、母さんがそっと囁きかけてきた。


「……ミクちゃんとの事、頑張んなさいよ」

「……」


 密やかな母さんの激励の言葉に、これから数時間後に破滅的結末(決定的失恋)が自分の身に降りかかるであろう事を思い出し、俺の笑みは憂鬱で凍りつくのだった……。

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