第百六十訓 上司の指摘にはおとなしく従っときましょう
四十万さんを自分の部屋に泊め(断じて疚しい事はしていない)、料理の特訓をしに来た立花さ――もとい、ルリちゃんと鉢合わせして誤解され、何とか誤解を解いたら彼女の料理作りの手伝いをさせられる羽目になり、様々な不幸な偶然が重なった結果、日曜日の誕生日会の際に酔った勢いでしてしまった告白に対するミクの気持ちを知ってしまった魔の休日から一日経った今日――、俺は早番シフトでバイトに入っていた。
開店前の九時半から売り場に下り、そこから遅番シフトの葛城さんが出勤するまでひとりで売り場を切り盛りする。
同じ駅前にある本店に比べれば小規模な支店だが、それでも午後一時までワンフロアをアルバイトひとり (レジのパートさんはいるけど)に切り盛りさせるウチの店の方針に、バイトを始めた当初は、正直「正気じゃない」とガクブルしていた俺だったが、慣れとは恐ろしいもので、今ではひとりでも全然平気になっていた。――むしろ、平日の午前中は客数も少なく、本来の仕事である品出し作業に没頭できるので、接客が一気に増える夕方からのシフトよりも好きまである。
今日も、いつもの平日の午前と同じで、閑散としたフロア内で存分に作業が出来た。
昨日一昨日と連休だったせいで少し抜けが出来ていた棚を入荷していた商品で埋め、ピチッと揃えて前陳する。
荒れた棚がみるみる整っていくのは気持ちがいい。多分、田んぼに植えた稲がぐんぐん育っていくのを見守る農家さんと似たような気持ちなのかもしれない。
そんな事を考えながら品出しを一通り終えた俺は、今度は売り場を巡回しつつ、コーナー内に展開するPOPのデザインを考え、手に持ったバインダーに挟んだPOP申請用紙に書き込んでいく。
そうこうしている内に、時刻は午後一時を回った。
「ご苦労様です、本郷さん」
「あ、葛城さん、ご苦労様っす」
背中越しに挨拶をかけられた俺は、バインダーから目を上げて振り返り、穏やかな笑みを浮かべている葛城さんにぺこりと会釈する。
そして、遅番で出勤した彼に、午前中の事を報告した。
「ええと……午前中は、特に何もなく、いたって平和でした。一回、ハゲ……仁良副店長が巡回に来ましたけど、特に何の難ク……指摘もされなかったっす」
「あ……」
俺の報告を聞いた葛城さんは、何故か気まずそうな表情を浮かべる。
そして、少し気まずそうな顔をしながら、おずおずと言った。
「実は……私が売り場に下りようとしたら、仁良副店長に呼び止められまして……インクのプライスが折れてるから付け替えろという指示を……」
「えっ、マジっすかっ?」
葛城さんの言葉に、俺は思わず声を上げた。
そんな俺に申し訳なさげな顔をしながら「ええ……」と頷いた葛城さんは、ちょうど俺の背後にあったインクコーナーを指さす。
「ええと……あ、これと……これですね。ほら、プライスケースの中で端っこが……」
「え、えぇ~……?」
葛城さんが指さしたインクのプライスを見て、俺は困惑する。
……確かに、目を近付けて見れば、プライスケースに入ったプライスの紙の端っこが五ミリほど捲れているのが分かるが……だから何だと言うんだ?
そんなにプライスをしげしげと凝視する客なんていないし、第一、プライスなんて値段が合ってれば多少欠けてたり折れてても問題無いだろうが!
「まったく、あのハゲ……下手なクレーマーよりもクレーマーじみた難癖をつけてきやがって……」
「ほ、本郷さん!」
不満が募るあまり、思わず憎々しげに言い捨てる俺に、葛城さんが慌てて声をかけてくる。
「き、気持ちは分かりますけど……一応、ここは売り場の中なので……」
「あっ……スンマセン」
葛城さんに窘められた俺は、慌てて声のトーンを抑えた。
……でも、多分、四十万さんがこの場に居たら、売り場の中だろうがお構いなしで「あんのスダレハゲがぁ~ッ! 残り少ない頭髪を毟り取ってサッパリさせてやろうかぁっ!」とか絶叫してそうだ。
あの人が今日休みで本当に良かった……ウン。
と、
「で……という事なんで」
葛城さんが、本当に申し訳なさそうな顔をしながら、俺に恐る恐る言う。
「大変お手数なんですが……休憩を摂った後で全然構わないんで、プライスを新しく作って来てもらえないでしょうか?」
「あ……はい。了解っす」
俺は、葛城さんの言葉に気安く頷くと、彼が指さしたプライスが付いた商品のJANコードをメモした。
そして、売り場の壁にかかった時計をチラリと見て、葛城さんに言う。
「じゃ……今から休憩に入っちゃいますね」
「あ、はい。分かりました。いってらっしゃい」
俺の言葉に頷いた葛城さんだったが、ふと何かを思い出した様子で、「そういえば……」と、俺の事を呼び止めた。
「昨日なんですけど、なんだか四十万さんの様子がおかしかったんですよね……。ひょっとして、本郷さんは何かご存知ですか?」
「え……?」
俺は、葛城さんの問いかけに内心でドキリとする。
「き、昨日の四十万さん……?」
「あ、いや……」
訊き返した俺に、葛城さんは慌てて首を左右に振った。
「やっぱり、何でもないです。昨日、休みだった本郷さんが、何か知ってるはずはないですよね」
「ええと……」
「すみません。せっかく休憩に行こうとしたところを呼び止めてしまって」
葛城さんはそう言うと、微笑を浮かべながら俺に言う。
「じゃあ、休憩にいってらっしゃい。プライスだけお願いしますね」
「あ、了解っす。……それじゃ、いってきます」
俺は、葛城さんの微笑と態度になんとなく奇妙な違和感を覚えつつ、コクンと首を縦に振るのだった。




