第百四十六訓 真夏はこまめに水分補給をしましょう
真夏の真昼間にもかかわらず、アパートの廊下の外廊下にいる俺は、手すりにもたれかかってへばっていた。
「うぅ……暑っついぃ……」
アパートの外階段は、建物の陰になっているおかげで直射日光こそ当たらないものの、真夏の太陽によって過剰なまでに温められた空気が肌に纏わりつき、まるで蒸し焼きにされているようだった。
時折吹く風も熱風で、体感温度を和らげる助けには到底ならない。
「まだかなぁ……」
俺は、首筋に浮いた汗を手の甲で拭いながら、目の前の扉を見つめた。
今、このドアの向こう――俺の部屋には、四十万さんと立花さんがいる。
四十万さんが立花さんに“昨日起こった事”についての説明をしている最中だ。
もちろん、俺も同席して一緒に釈明しようとしたのだが、四十万さんに「こういうのは、女だけで話した方がスムーズにいくの。ホンゴーちゃんは外で待ってて~」と言われてしまい、ひとり部屋の外に締め出された格好だ。
それから五分ほど経ったが、まだ話が終わってドアが開く気配は無い。
「暑っちぃ……」
俺は、二十回目くらいの『暑い』を口にし、真夏の真っ青な空と、その中に浮かぶ白い入道雲をぼんやりと眺めた。
ここを前途と捲し立てるアブラゼミとミンミンゼミの鳴き声が、不協和音となって俺の鼓膜を苛む。
……まったく、これ以上無いくらいにステレオタイプな真夏の情景だ。
「……ここに、キンキンに冷えたコーラかガジガジくんがあれば全然良いんだけどなぁ」
そのふたつ……せめてどちらかひとつだけでも手元にあれば、俺はこのいかにも夏らしいシチュエーションを楽しみながら、もうしばらくの間は時間を潰せるだろう。
……だが、現実問題として、どちらも無い。
いや……無い訳ではないのだ。というか、ほんの数メートルの距離にある事がハッキリしている。
問題は、今の俺が喉から手が出るほどに求めているコーラとガジガジくんが、ドアを隔てた我が家の冷蔵庫に安置されていて、手に入れる為には、ドアを開けて家の中に入らないとならないという事なのだ。――四十万さんと立花さんが話をしている真っ最中の部屋の中に。
「……入れないよなぁ」
一旦はおずおずとドアノブに手を伸ばした俺だったが、そう呟くと出した手を引っ込めた。
「やっぱり、待つしかないよなぁ。四十万さんの“説明”が終わるまで……」
俺はそう呟いて諦めると、手のひらで顔をパタパタ煽ぎながら、外廊下の手すりにもたれかかって、ムカつくくらいに青く澄んだ空を再び見上げる。
これがホントの『お空きれい』か……。
――ようやく家のドアが開いたのは、それから更に五分くらい経ってからだった。
「おまたせ、ホンゴーちゃん……って、どうしたの?」
ドアの向こうから顔を出した四十万さんが、ポカンと口を開けて空を仰いでいた俺を見て怪訝な顔をする。
「あ、いや……ちょっと暑くて……」
「あっ……そっか!」
暑さにやられてグロッキー状態の俺を見た四十万さんが、慌てた様子で声を上げ、肩から提げたハンドバッグの中から半分くらい中身が残った500ml入りのミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、俺に差し出した。
「ゴメン、気が付かなかった! 外暑いもんねぇ。とりあえず、これで水分補給して!」
「あっ……ハイ」
喉がカラカラになっていた俺は、差し出されたペットボトルを受け取ると、キャップを開けて一気に飲み干す。
「ふぅ~! 生き返っ……」
最後の一滴まで飲み尽くして歓喜の声を上げかけた俺だったが、ふとある事に気付き、その声は途中で途切れた。
(……あれ? 飲みかけって事は……ひょっとしてコレ……し、四十万さんと間接キ――)
「な~にを考えてんの、ホンゴーちゃあん?」
「ひっ!」
ドギマギする俺の心中を察したような四十万さんの愉しげな声に、俺は思わず小さな悲鳴を上げる。
四十万さんは、そんな俺の反応を見てニヤニヤ笑いを浮かべたが、それ以上は口に出さず、その代わりに部屋の中に顎をしゃくってみせた。
「そうそう……タチバナちゃん、私の説明で納得してくれたよー」
「……えッ、マジっすか?」
正直言うと、四十万さんの説明でも立花さんを納得させる事は難しいと考えていた俺は、四十万さんの言葉を聞いて驚きの声を上げる。
「納得させられたんすか、立花さんを? ど……どうやって……?」
「どうやってって……別に普通に、いつも通りな感じで」
俺の問いかけに、四十万さんは事もなげに答えた。
「ちゃんと筋道を立てて説明すれば、納得してないだけのタチバナちゃんを納得させるくらい簡単よ。難癖付ける事自体が目的のクレーマーを相手にするよりもずっとね」
そう言うと、四十万さんはエヘンとばかりに胸を張る。
「伊達に家電量販店でコーナー責任者してないわよ、私」
「おぉ……!」
俺は、四十万さんに今までに無い頼もしさを感じて、感嘆の声を上げた。
……四十万さん、俺はあなたの事を誤解してたっすよ。てっきり、おしゃべり好きで隙あらばサボる事ばっかり考えてるグータラ社員だと――。
「……何かものすごく失礼な事を考えてない、キミ?」
「アッイエ! め、滅相も無いっすッ!」
俺の心の声を敏感に感じ取ったらしい四十万さんにジロリと睨まれた俺は、慌ててかぶりを振って誤魔化す。まさか、ニュータ〇プか、この人……?
そんな俺の顔をジト目で睨んでいた四十万さんだったが、「……まあいいわ」と呟くと、おもむろに俺の肩を軽く叩いた。
「……って事で、ちゃんとお膳立てしてあげたからね。あとは君の頑張り次第だよ」
「あ、はあ……」
四十万さんの激励? の言わんとする意味が良く分からず、俺は曖昧に頷く。
そんな俺に苦笑いを向け、何か言いかけた四十万さんだったが、チラリと自分の腕時計に目を落とし、「やばっ!」と小さく叫んだ。
そして、慌てた様子で履きかけのパンプスの踵を直し、ドアの前の俺の横をすり抜けるようにして廊下に出る。
「もう仕事に行くね! このままじゃ遅刻しちゃう!」
「あ……りょ、了解っす! 急いで下さい!」
半身になって手を振った四十万さんに、俺も慌てて頷いた。
それを見て、急いで外階段を下りようとした四十万さんだったが――、
「――ホンゴーちゃん!」
俺の名を呼びながらくるりと振り返ると、ニッコリと微笑む。
「昨日はありがとうね。めっちゃ楽しかったよ!」
「あ、は、はあ……それは良かったっす」
「また今度飲もう! その時には、また君のコイバナを聞かせてねぇ~」
「そ、それは……。飲むのは構わないっすけど、コイバナはちょっと……」
四十万さんの言葉に、頬を引き攣らせる俺。
すると、四十万さんはチラリと俺の家のドアに目を遣ってから、
「……大事にしてあげなよ!」
そう言って意味ありげにウィンクをすると、再び踵を返し、今度こそ階段を駆け下りていった。
「……?」
ひとり廊下に残された俺は、四十万さんが最後に言い残していった言葉の意味が解らず、キョトンとしたまま首を傾げるのだった。
「大事にしてあげな……って、一体何を……?」




