第百三十四訓 待ち合わせする時は相手の連絡先を聞いておきましょう
その翌々日の水曜日。
ようやく太陽が西の空に沈み、昼間からの蒸し暑さが少し和らいできた午後七時半過ぎ、俺は家の最寄り駅である赤発条駅の北口前に立っていた俺は、スマホに落としていた目を上げ、待ち疲れた顔を改札口の方に向ける。
「まだかなぁ……」
ちょうど帰宅ラッシュで、改札口からぞろぞろと流れ出てくる夥しい数の乗客の顔を次々と見回していくものの、結局、その中に探している顔は無かった。
頭頂部が禿げ上がったサラリーマンが改札を通り抜けたのを最後に人波は途絶え、俺は溜息を吐く。
「……やっぱり、残業食らってるんだなぁ、四十万さん。売り場忙しいのかなぁ……?」
そう。俺が駅前広場で出待ちしているのは、四十万さんだった。
月曜日に交わした話の流れで、俺が休みで、四十万さんも早番で上がれる水曜日――つまり今日、一緒に飲みに行くことになった……なってしまったのだ。
正直、明日は立花さんが料理の練習をする為に俺の家に来る日だったので、飲みに行くのは勘弁してほしいところだったのだが、四十万さんに強引に押し切られ、結局逆らえなかった……。
早番は、普通なら午後六時には退勤できる。とはいえ、家電量販店は所詮客商売なので、必ず定時に上がれるとは限らない。
なので、そのあたりも計算した上で、七時ジャストあたりからこうやって改札口前でスタンバっているのだが……それから三十分以上も経つのに、まだ四十万さんは姿を現さなかった。
「しくったなぁ……。こんな事になるんだったら、四十万さんの電話番号を事前に聞いときゃ良かった」
と、手の中にある役立たずのスマホを恨めしげに見ながら、ボヤき声を上げる俺だったが、まさに“後悔先に立たず”というやつである。
今まで、シフトの変更や急な休みの連絡を入れる時は、店の直電番号にかけていたので、四十万さんのプライベートスマホの電話番号を知らなくても不自由は無かったのだが……それが今回裏目に出た感じだ。
四十万さんのスマホの番号を知らないせいで、彼女が今どこに居るのか、それともまだ売り場で残業中なのかも分からず、そのせいで、もう待たずに帰っちゃってもいいのか、もう少し待ってみた方がいいのかの判断がつかない。
かといって、店に電話をかけて、「四十万さんはまだ残業中ですか?」と問い合わせる訳にもいかない。
万が一、その電話を人事の檀さんが受けでもしたら最悪だ。
店内一のゴシップ好きの檀さんは、嬉々として周りに言いふらす事だろう。『ねえねえ! 今、バイトの本郷くんから、香苗ちゃんが上がったかの確認の電話が来たんだけどさぁ! ひょっとして、香苗ちゃんと本郷くんって付き合ってるんじゃない?』……って感じで。
……つか、何であんなスピーカー姉さんが、組織の中で一番従業員の個人情報の取り扱いに注意しなきゃいけない部署である人事の責任者やってるんだろう、ウチの店……。
「……いずれにせよ、そんなあらぬ誤解を招くようなリスクは犯せない。俺と四十万さんが付き合ってる的な――」
「私とホンゴーちゃんが……何?」
「うわあああああっ!」
眉間に皺を寄せてブツブツと独り言を呟いていた俺は、不意に声をかけられて驚きの声を上げた。
そして、俺に声をかけてきたのが誰なのかに気付き、更に狼狽する。
「し……四十万さんッ? い、い、いつの間に……ッ?」
「いつの間にって、たった今だよ~」
そう言って、カチッとした紺色のパンツスーツ姿の四十万さんは微笑んだ。
その笑顔が、いつも売り場で見慣れている彼女の笑顔とは印象が違っていて、俺は少しドギマギしてしまう。
と、四十万さんは拝むように両手を合わせると、俺に頭を下げてきた。
「……って、ゴメン、ホンゴーちゃん! ホントは定時で上がる気満々だったんだけど、夕方に“イヤミ様”に捕まっちゃって……」
「あ、あぁ……ナルホド」
四十万さんの言葉に、俺は頷いた。
“イヤミ”様とは、頻繁に店に来ては、通りがかった店員を捕まえて、延々と長話をしていく……クレーマーではないが、厄介なお客様である。
話といっても、そのほとんどが世界情勢やゴシップネタや持っている株や愛車について……まあ、平たく言えば世間話であり、ぶっちゃけ家電販売にはほとんど関係が無い話ばかりだった。
だが、買う時は一気にン百万円の買い物をしたり、代々の店長どころか本部のお偉いさんとも面識があるという謎の顔の広さで、無下にも出来ないVIPなのである。
ちなみに、本名は“稲見様”と言うらしいのだが、その出っ歯気味の風貌と、やたらとフランス製にこだわる性格から、店の従業員たちからは某ギャグマンガのキャラと本名をもじって“イヤミ様”と呼ばれている……。
――閑話休題。
とにかく、今の四十万さんの言葉を聞いて大体の事情を察した俺は、苦笑いを浮かべた。
「そういう事だったんすね……。それで、こんな時間まで……」
「別に、『上がる時間なんで』って言って抜けても良かったんだけどね……。そうしたら、今度はカツラギくんがね……」
「あぁ……でしょうねぇ」
言いづらそうに語尾を濁す四十万さんの顔を見て、俺は口の端をひくつかせる。
「まだ入って三ヶ月の葛城さんには荷が重いですよね、あの人の相手は……」
「でしょ~? だから、あえて私が犠牲になってあげたの。コーナー責任者としてね!」
そう言って、エヘンとばかりに胸を張ってみせる四十万さん。
その拍子に、ボタンを留めていなかったスーツの前がはだけ、薄手のワイシャツに包まれている胸のラインが露わになった。
「わ、わわっ!」
意外とメリハリの効いたワイシャツの膨らみを目の当たりにした俺は、慌てて目を逸らす。
「? どうしたの、ホンゴーちゃん?」
突然の俺の奇妙な反応に、訝しげな顔をしながら尋ねる四十万さん。
「い、いえ……その、急に蚊が……」
俺は、しどろもどろになりながら、取り敢えず誤魔化した。
そんな俺の苦しい答えを聞いた四十万さんは、慌てた様子で周りを見回す。
「え、蚊ぁ? やだ、刺されちゃうじゃん!」
四十万さんはそう叫ぶや、急に俺の手を掴んで引っ張った。
「じゃ、早く行こ!」
「え? あ、えっ?」
突然手首を掴まれた俺は、四十万さんの手のひらの温もりと柔らかさに一昨日の事を思い出してドギマギしつつ、ビックリして声を裏返してしまうのだった……。




