第百三十一訓 沈んだ気持ちは切り替えていきましょう
『と……とにかくさ』
心の底から悔やみに悔やむ俺に、スピーカーの向こうから立花さんがおずおずと声をかけてきた。
『何はともあれ、やっちゃったモンはしょうがないよ! 切り替えていこ!』
「……そうだね」
床の上を転げまわっていた俺は、立花さんの声に力無く頷きながら、ヨロヨロと立ち上がる。
「ここは……切り替えて逝くしかないか……」
『ちょ? なんか、漢字の変換がおかしくない?』
微妙なアクセントの違いに気が付いて、慌てたように声を上ずらせた立花さんに「冗談だよ」と答えながら、俺はリビングの窓に目を向けた。
レースカーテンの向こうに見えるクリーム色の壁の家。そここそが、他ならぬミクの家だ。
今、家の中にミクが居るのか、それとも留守なのか……窓越しでは分からない。
俺は、心の中で激しく悩みながら、スマホの向こうの立花さんに問いかけた。
「なあ……会いに行った方がいいと思う?」
『会いにって……ひょっとして、ミクさんに?』
立花さんに問い返された俺は、弱々しく「……うん」と頷き、それから慌てて首を左右に振った。
「あ! べ、別に、昨日の告白の返事を聞きにいこうとか、そんなんじゃなくって……。そういうのを抜きにして、まずは昨日の事を謝りに行こうかな……って、うん」
それを聞いた彼女は、『う~ん……』と考え込むように唸り、それから迷うように曖昧な口調で答える。
『……ううん。さすがに、昨日の今日じゃ早いと思うよ。ミクさんも、まだ心の整理がついてないと思うし……』
「そっか……そうかもな」
俺は、立花さんの言葉に納得し、ウンウンと頷いた。
確かに、顔を合わせるのはもう少し後にした方がいいような気がする。向こうも気まずいだろうし、告白した(らしい)俺自身の覚悟もまだ全然決まってない。ここは『巧遅は拙速に勝る』のことわざに従って……って、あれ? 『巧遅は拙速に如かず』だっけ? それだと真逆の意味になるんだけど……。
うぅん、もう、どっちだか分からなくなってきた……。
と、混乱して訳が分からなくなっている俺に、立花さんが言った。
『アレだったら、後であたしがLANEか電話してみて、それとなくミクさんの様子を探ってみようか?』
「え? いいの?」
立花さんからの提案に、俺は驚きながら訊き返す。
俺の問いかけに、立花さんは気安く『いいよ』と返し、言葉を継いだ。
『ミクさんにとっても、その方がいいと思うからね、気分的に。夜くらいにLANEしてみるよ。結果が分かったら連絡するね』
「おお……それは助かる」
俺は、立花さんの言葉に、陰鬱な闇に覆われた心がぱあっと明るくなるのを感じながら、何度も頷く。
「あ、でも、今日は五時からバイトだから、連絡はLANEメッセージでお願いします。通話だと多分出られないからさ」
『うん、分かった。つか、二日酔いなのにバイトに行って大丈夫なの?』
「まあ……風邪じゃないんだから大丈夫だよ……多分」
立花さんに気遣われた俺は、思わず苦笑した。可笑しくもあり、何だか嬉しくもある……少し奇妙な感覚だ……。
と、今の会話で時間が気になった俺は、ふと壁にかかった時計を見上げる。
そして、時計の短針が『2』の文字を過ぎたところを指しているのを見て、慌てて立ち上がった。
「やべっ! もうこんな時間じゃん! そろそろここを出てアパートに戻らないと、バイトに遅れちまう!」
『え? マジ? でも、まだ二時過ぎだよ?』
「いや……元々昨日は日帰りするつもりだったから、バイト用のワイシャツとか持ってきてないんだよ! 一回アパートに戻って、着替えてかないと……」
『あ、そうなんだ』
俺の説明を聞いて、立花さんも納得したようだった。
俺は、食べ終わった食器を台所のシンクに置きながら、早口で彼女に言う。
「じゃ、じゃあ、そんな訳だから、そろそろ切るよ。……ミクの件、ヨロシク!」
『あ、うん、分かった~……って、あ! ちょっと待って!』
「……え?」
スマホを切ろうと耳から離しかけた俺は、スピーカーから上がった制止の声に、首を傾げた。
そして、時計を気にしつつ、もう一度スマホを耳に当てる。
「……何? どうしたの?」
『ゴメン! 最後に一個だけ……。ソータさ、今週、空いてる日ってある?』
「え……?」
俺は、立花さんの問いかけに怪訝な顔をしながら、来週の予定を思い出してみた。
「ええと……今週は、水木と日曜日が休み……だったはずだけど。それが何?」
『じゃあ……木曜日空けといて!』
「はぁ?」
急に立花さんから曜日指定予約された理由が分からず、俺は更に当惑する。
「な、なに? 何で木曜日を空けとかなきゃいけないのさ?」
『決まってるでしょ。あたしがアンタん家に行くからだよ!』
「はぁっ? な、なんでぇ?」
立花さんの答えを聞いた俺は、思わず声をひっくり返して訊き返した。
それに対して、彼女はムッとした声色で答える。
『何でって……。前に約束したじゃん。ソータん家の台所で料理の特訓させてくれるって』
「ふぁっ? あ、あれか?」
立花さんに言われて思い出した。
確かに、前に俺のアパートに立花さんとミクと藤岡の三人で泊まりに来た時に、そんな約束をした……させられたんだった。
「た、確かにそんな事もあったけど……でも、何でこのタイミング?」
『このタイミングだからだよ!』
俺の問いに、立花さんはキッパリとした声で答える。
『昨日、ソータがミクさんに想いを伝えたじゃん。だから、今度はあたしがホダカに告る番でしょ?』
「い、いや……確かにそうだけど、何も、そんな競うように告白を急がなくても……」
『別に競ってなんかないよ』
立花さんは、俺の言葉を否定すると、『チャンスだからだよ』と続けた。
『昨日のソータの告白が不意打ちになって、ミクさんの心は結構揺れちゃってると思うんだ。だから、同じようにあたしが告白する事でホダカの心を揺らして……その相乗効果でふたりが別れて、あたしたちと付き合ってくれる事になるかもしれないじゃん。――いや、絶対にそうなるって!』
「そ、そうかなぁ……?」
訝しげに首を傾げつつも、俺は彼女の声の勢いに流されて、心のどこかでちょっとだけ『そうかも……』と思いつつあった。
確かに、片方だけが告白されるよりも、両方がそれぞれの近しい異性に告白をされたりしていたら、或いは玉突き現象的な心境の変化が起こって、立花さんが力説する通りになる……かもしれない。
だんだんとその気になりつつある俺の耳に、立花さんが更に捲し立てる声が響く。
『だから……そうなりかけた時、確実にホダカの心を掴めるように、もっと得意料理のバリエーションを増やしておきたいんだ』
「も……『もっと』って……言うほどあるか、得意料――」
『何さ!』
思わずツッコミを入れた俺に、立花さんはあからさまに不機嫌そうに声を荒げた。
『あるじゃん! 昨日のおいなりさん!』
「あぁ……」
立花さんの答えに、俺は昨日の事を思い出しながら頷く。
「まあ、昨日のいなり寿司は確かに美味しかったけど……」
『でしょでしょっ? うっふっふ……』
「でも、アレはミクが傍に居たから美味しく出来たって……」
『う……た、確かにそうだけど……!』
俺の言葉に一瞬言い淀んだ立花さんだったが、すぐに元の調子で声を荒げた。
『で、でも、もう大丈夫だよ! 作り方は完全に覚えたから、もうミクさんが居なくても美味しく作れます~ッ!』
「あ、そ、そっすか……」
スマホ越しでも勝ち誇るような顔が見えそうな立花さんの声に、俺は抗う事を諦め、雑に賛同する。
その声に、立花さんは喜色を湛えた声で言った。
『じゃ、木曜日ね! おいなりさんだけじゃなくて、他にも美味しい料理をたくさん作ってあげるから、楽しみにしててね~♪』
「あっ……ハイ……」
楽しげな立花さんの声を聞き流しながら、俺は自分の胃がキリキリと痛み出すのを感じるのだった……。




