第百二十一訓 食べ物はよく噛んで食べましょう
「え……?」
『このおいなりさん、全部ルリちゃんが作ってくれたの』というミクの言葉を聞いた俺は、思わず凍りついた。
顔を引き攣らせながら、自分が持っている取り皿に目を落とす。
「こ、これを……た、立花さんが……?」
取り皿の上に載った四つのいなり寿司は、一見普通のいなり寿司と変わらないように見えた。……まあ、どことなく大きさもまちまちで、形も歪なような気がしないでもないが。
俺の脳裏に、一か月前に食べたハンバーグやスクランブルエッグという名の暗黒物質の姿と刺激的な味が蘇る……。
「あ! 大丈夫だよ、颯大くん! 安心して!」
そんな俺の様子を見たミクが、慌てた様子で明るい声を上げた。
「今度のおいなりさんは、私が横について作ったから、この前みたいな事にならないよ。安心して!」
「安心してって言われてもなぁ……」
ミクの言葉を聞いても、俺はなおも躊躇する。
まあ……形は不格好とはいえ、パッと見た限りでは、普通のいなり寿司とそう変わらないように見える……外見は。
問題は、味だ。
「……」
俺は、ミクの期待に満ちた視線を感じながら、恐る恐るいなり寿司に顔を近付ける。
そして、稲荷寿司をまじまじと覗き込むように見せかけながら、さりげなく匂いを嗅いでみた。
……うん、甘じょっぱい醤油と酢飯の……いなり寿司特有の美味そうな匂いだ。
だが……問題は、匂いよりも味だ。(大事な事だから、二回言った)
「えーと……」
いなり寿司を口に運ぶ事をなおも躊躇った俺は、困って目を泳がせた。
と、俺の目の焦点が、ミクの姿の向こうに合う。
ミクの横に座っていた、立花さんの顔に――。
そして、俺は見てしまった。
――素知らぬ顔をした立花さんが、横目でガッツリと俺の挙動を注視しているのを。
「……ッ!」
彼女の鋭い視線に気付いた俺は、心臓が激しく鼓動を打つのを感じながら、まるで探るように(……実際探っていたのだが)いなり寿司に近付けていた顔を慌てて離した。
「あれ? どうしたの?」
「あ、いや……」
キョトンとした顔で尋ねるミクに曖昧にかぶりを振りながら、俺はもう一度いなり寿司を見下ろす。
その時、ミクの向こう側から、ぼそりとした声が聞こえてきた。
「……無理しなくていいよ」
「あ……」
どことなく沈んだトーンの声を耳にした俺は、ハッとして声のした方に目を向ける。
立花さんは、ぶすっとした顔で唇を尖らせながら、自分の取り皿に載った唐揚げを箸でつついていた。
「いいよ、食べたくないなら食べなくても。あたしが責任取って持ち帰るから……」
「あ、いや……」
俺と目を合わせず、少し寂しげな声で言った立花さんに、俺はたじたじとなりながら、返す言葉に迷う。
――と、その時、
「おお! これはいなり寿司ですな!」
俺の取り皿の上に盛られたいなり寿司を見た一文字が、喝采の声を上げた。
一文字は、メガネの下の目をキラキラと輝かせながら、俺に尋ねる。
「本郷氏、ボクもひとつ頂いても宜しいかな?」
「え……」
俺は、身を乗り出してくる一文字に辟易しつつも、心中秘かに安堵した。
――ちょうどいい。この際、一文字には毒見役になってもらおう。
コイツのリアクションを見てから、食べるかどうか決めても――。
……と、その時、俺の視界の端に、たまたま立花さんの顔が映った。
彼女は、何か言いたげな表情を浮かべながら、口を開きかけ――でも、何も言わずに噤んだ。
そんな彼女の素振りを見た瞬間、俺は――
「だ、ダメだ!」
気が付いたら、ビックリするくらいの大声を上げながら激しくかぶりを振っていた。
「こ、これは、俺の誕生日の為に作ってくれたいなり寿司だ! 最初に口を付けるのは俺に決まってんだろうが!」
……あれ? 俺は何を口走ってるんだ?
一瞬遅れて我に返った俺は、当惑しながら目を瞬かせる。
突然声を荒げた俺に驚いたのか、一文字はもちろん、ミクや立花さんまでが目を丸くして俺の顔を見つめていた。
き……気まずい……。
「あ、あの……」
「……そうだね。すまない、本郷氏。お腹が空きすぎたせいか、ボクは少し見境を無くしてしまっていたよ」
「あ……いや……」
一文字に謝られながら、俺はなおも当惑する。
と、
「そうだよね~! ルリちゃんが颯大くんの為に一生懸命作ってくれたおいなりさんだもんねぇ。最初に食べるのは颯大くんじゃないといけないよね! って事で、もうひとつどーぞ!」
「ちょ、ちょっと、ミクさん、違いますよッ? あ、あたしは別に、ソータの為に作ったつもりじゃなくって……!」
ミクは嬉々としながら、更にひとついなり寿司を取り皿に載せ、立花さんは顔を真っ赤にしながらミクに反論の声を上げた。
そんなふたりの事を眺めながら、(はあ、こうなったらしょうがないか……)と、心の中で溜息を吐いた俺は、おもむろに箸でいなり寿司をひとつ摘み上げる。
「ちょ! そ、ソータ、無理して食べなくてもいいってば!」
「……無理してる訳じゃないよ」
食べるのを制止しようと、慌てた様子で立ち上がった立花さんに強がり混じりの微笑みを向けた俺は、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、不格好ないなり寿司を丸ごと口の中に放り込んだ。
「あ……!」
立花さんが息を呑む声を聞きながら、俺は口の中に詰まったいなり寿司をゆっくりと咀嚼する。
一噛み……二噛み……三噛み……。
そんな俺の様子を、固唾を呑んだ顔で見守るミクと立花さん。
彼女たちの視線を浴びながら、俺は咀嚼したいなり寿司を全部飲み込んだ。
「ど……どう……?」
少し怯えを含んだ顔で、立花さんがおずおずと俺に訊いてくる。
俺はゆっくりと彼女の方に顔を向けると――ビックリしながら小さく頷いた。
「う……うん。普通にいなり寿司の味……だ」
「――!」
俺の答えを聞いた立花さんの目が大きく見開かれる。
「ほ、ホント……?」
「う、うん……」
重ねて尋ねてくる立花さんに、俺はもう一度頷くと、取り皿のいなり寿司をもう一つ箸で摘まみ上げた。
「衣の油揚げに染みた煮汁の甘さはちょうどいい感じだし、中の酢飯もほどよくすし酢が回ってるし……」
「……」
「……うん、結構美味しいと思うよ」
「――ッ!」
俺の『結構美味しい』という感想を聞いた瞬間、立花さんの顔がパアッと音を立てるように綻ぶ。
そんな彼女の背中に、こちらも満面の笑みを浮かべたミクが軽く手を当てた。
「わあ! 颯大くんが美味しいって! 良かったね、ルリちゃん!」
「……うんっ!」
ミクの言葉に、立花さんは目を輝かせながら大きく頷く。
めちゃくちゃしょっぱかったり、酸っぱかったり、もっと酷い味がするかと思って覚悟して食べたけど、普通の味で良かった……マジで。
そんな事を考えつつ、とても嬉しそうな彼女の様子に思わず微笑みながら、俺はいなり寿司をもうひとつ口に運ぶ。
……うん、これも普通にいなり寿司の味だ。
ミクが隣で見てたから、立花さんの独特な料理センスが暴走しなかったんだろうか……? まあ、何にせよ、助かっ――
「ソータッ! もっといっぱい食べて! あたしのおいなりさん!」
「ふ、ふがっ?」
――安堵したのも束の間、いつの間に俺の隣にいた立花さんが、嬉しそうな顔をしながら、俺の口の中にいなり寿司を無理やりねじ込んできた。
俺の口の中には、まだ二個目のいなり寿司が半分近く残ったままだ。そんな中に新しいいなり寿司を詰め込まれたらどうなるか……。
「ん! んがぐぐッ!」
……そう。答えは、『喉に詰まる』だ。
「もが! もががが!」
俺は、喉を押さえながら、『水! 飲み物!』と叫ぶが、大きないなり寿司の塊が口の中に居座っている状況では、まともな声にはとてもならなかった。
「え? そ、ソータっ?」
「そ、颯くん、大丈夫ッ?」
「おい颯大! どうした」
「本郷氏っ?」
「きゃあっ、そうちゃんッ!」
突然苦しみ出した俺に、みんなから驚きの声が上がるが、俺がいなり寿司を喉に詰まらせている事は上手く伝わっていないようだ。
俺は、必死で顎を動かして口中のいなり寿司を少しでも細かくしようと腐心しながら、テーブルの上のグラスへ懸命に左手を伸ばす。
何度か空振りした末、ようやくガラスのグラスが指先に触れたのを感じた俺は、そのまま手探りでグラスを引っ掴むや、一気に呷った。
そのまま、口の中に残ったいなり寿司をグラスの中身ごと食道の方へと流し込む。
「ふ……ふぅ、ふぅ……」
口の中が空になった事で、ようやく呼吸が出来るようになった俺は、荒い息を吐いた。
「はぁ……し、死ぬかと思った……」
「……ほ、本郷氏?」
へとへとになった俺に、一文字がおずおずと声をかけてくる。
「だ、大丈夫かい?」
「あ……あぁ、何とか……」
一文字の問いかけに、俺はコクンと頷いた。
「あ、あぶなかっら……。もう少し遅かっらら、いなり寿司れ窒息死するろころらっら……」
「い、いや……そっちじゃなくって……」
……? “そっちじゃない”って、どういう意味だよ? つか、何か、さっきから、やけに体が熱くて……。
「その……キミが今飲んだグラス……。キミのじゃなくて、ボクのなんだけど……」
? だから……それがろうしたっれ?
……あれぇ? なんら、舌がうまく回ららい……?
「だから……キミが今一気飲みしたのは……」
ろういえば……何らヘンな味がしらような……。何ら苦い感りの……。
「ボクが飲むはずだったワイン……つまり、お酒なんだけど……」
「……あ」
――その声を最後に、俺のその日の記憶は無くなった……。




