モブは悪夢にさよならする
◇◇◇
野営地跡へ向かう途中、俺は三人にだけ聞こえる声で、“薬師の口調”に切り替えて言った。
「いいかい、ここからはさっき決めた通りに。大人が戻ってきても、これまでのことは全部“悪い夢”。旅の薬師と、その護衛。私たちは“看病”してただけ」
「うん」
「了解だ、師匠!」
「……うぅ、悪い夢……」
ロッチはまだ涙の跡が残った顔で、何度も頷いた。
セレーネは耳をぴんと立て、コブは神妙に口を結ぶ。……頼むぞ。
◇◇◇
野営地は、ほとんど“何もない場所”になっていた。
襲撃の混乱で、キャラバンは荷物を置いて散り散りに逃げ出した。
キャラバン隊“サンディ・リゾン”の考え方は単純だ。命より大切なものはない。だからこういうときは、次の街へ個々に進んで、合流する。それが彼らの流儀だ。
──ただ。
(積荷は、もう無い)
ヤクも、樽も、布も、工具も、食料も。
俺が腹の中に収納してある。残しておく意味がないし、盗まれたら目も当てられない。
ここに残っているのは、逃げるときに落とした小物と、踏み荒らされた地面と、倒れた杭と──酔い散らかした痕跡くらいだ。
「よし。まずは“それっぽく”戻す」
俺が言うと、三人が散った。
コブは倒れた杭を起こし、ロープを拾い集める。
ロッチは鍋や桶や皿を拾って、泣きながらでも律儀に並べ直す。
セレーネは枝を集め、火種になりそうな乾いた木皮を探してきた。
──俺は、その間に。
地面に残った血の染みや、裂けた布の切れ端、砕けた杯の欠片を見て、息をひとつ吐く。
(……“悪い夢”で通すなら、悪夢の跡も消さないといけない)
俺は手を地面に当て、小さく言った。
「《再構築》」
光が糸のように走った。
血の染みは土の色に溶け、裂けた布は繋がり、欠片は吸い寄せられて元の形に戻る。
完璧に“元通り”にする必要はない。むしろ、少しだけ乱れていた方が、泥酔の夜として自然だ。
樽は、空のまま一本だけ転がしておく。
(言い訳用。“一樽空けた”って話にできる)
◇◇◇
火を起こす。
火があるだけで、場所は“帰れる場所”になる。
闇の中で人は、灯りに引き寄せられる。
セレーネが枝を組み、ロッチが息を吹きかけ、コブが火種を守るみたいに両手で囲った。
ぱちっ。
小さな音を立てて、火が生まれた。
俺はその明かりを見て、胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
「……よし。じゃあ、あとは荷車とヤクを出すぞ」
念の為周囲を確かめるが、空間把握に俺たち以外の影はない。右手を翳せば、そこに商隊の荷車とヤクが戻る。ヤクがモォーと一度だけ鳴くと、コブとロッチが駆け寄ってその背を撫でる。これで全て元通りだ。
「ふう、片付け終わり。これで、悪い夢とも本当にさよならだ」
ぱんぱんと膝を払い、みんなの顔を見る。コブとロッチは安心したように笑い、セレーネは嬉しそうに声を上げる。
「やった! じゃあやっと宴会ね!」
「できるけど、騒ぐなよ」
「うん! 静かに宴会!」
「静かに宴会ってなんだよ」
「わかんない! けどきっと楽しいの!」
セレーネの声が弾むと、皆んなの顔が優しく綻んだ。
◇◇◇
食べ物は、ある。
アシェルが森へ入って、鹿を一頭仕留めてきた。
俺は川で魚を捕まえてきた。
串を作って肉を刺し、火で炙る。
魚も炙って、皮がぱちぱち鳴く。
石窯に乗せた鍋には、薬草とキノコに鹿肉を加えたスープもある。コトコトと蓋が揺れる音が小気味いい。
俺は──積荷から少しだけ拝借した香辛料を指先でつまみ、肉に振った。
香りが立つ。
「うわ、うめぇ匂い」
「師匠、それ……」
「悪いな。積荷の一部だった香辛料、少し分けてもらった。なあに、穴も空けずに抜いたんだ。少しだけ売値から引いといておくれよ」
コブが笑って頷き、ロッチが目を輝かせた。
ただし──酒は、出さない。
馬乳酒があるのは知っている。だが手を付ければ、辻褄の糸が緩む。
(馬乳酒は悪酔いするといけない。“触ってない”って顔でいないと)
セレーネは、俺の膝の上で苔と木の実を食べている。
火の方をちらちら見ているが、口にはしない。
「セレーネ、肉は?」
「いらな〜い。私は苔が好きなの」
小さな体が膝の上で丸くなる。好き、という割に、鼻が正直だ。ヒクヒクと香りに釣られて動いている。ウサギは完全に草食だが、魔物である苔ウサギは少しくらいなら食べられるのかもしれない。
「スープはどうだ? あったまるぞ?」
「スープ? それなら少しだけ……」
セレーネは顔を上げて鍋を覗き込む。香草の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。そろそろ頃合いだ。
「熱いから、気をつけてな」
「う、うん」
杓子ですくい、器に盛る。セレーネは恐る恐るというふうに鼻を近づけて、髭をひくつかせる。
「え、えと」
「ああ、ちょっと待ってな」
俺は右手から風を吐き出して、軽く温度を冷ましてやった。ちょうどいい温度。これならウサギ舌(?)でも心配ない。
「ふわぁぁ。あったか〜〜い」
セレーネの耳がとろんと下がり、コブとロッチが声を上げる。
「師匠! それ俺も!」
「コブずるい! 僕が先だよ!」
◇◇◇
焚き火を囲んで、五人で食べる。
時折り、子供達とセレーネの笑い声。
セレーネ、コブ、ロッチ。
そしてアシェル。
アシェルは肉を一切れ受け取ると、一度だけ手を止めて、火を見た。
生きていた頃の温度を、探している目だった。
俺は何も言わない。
今夜は、黙って火を守る日だ。
◇◇◇
草を踏む音がした。
ひとつ、ふたつ。
増える。
闇の向こうから、疲れ切った隊員たちが現れる。
その先頭に、リゾンがいた。
「……光が見えた。ここに、誰かいるのか」
声は硬い。だが、怯えよりも──戻れる場所を見つけた安堵が混じっている。
リゾンの視線が、子供たちへ。
それから──俺へ、アシェルへ。
「……娘は。サンディは、どうした」
喉の奥が、きゅっと締まった。
だが、今は決めた筋を通す。
俺は一歩前に出て、咳払いをひとつ。
「こんばんは。私は旅の薬師です。……いやあ、皆さん。どうやら相当“悪い夢”を見たみたいで」
隊員の一人が、呆けたように言う。
「悪い……夢?」
コブが頷いた。演技というより、勢いだ。
「ああ! 馬乳酒のせいだと思う! 皆、揃ってな」
「うう……悪い夢……」
ロッチが涙声で追撃する。
セレーネも耳を伏せ、弱々しく頷いた。
「……夢、だったというのか?」
リゾンの眉が寄る。
「“夢”では済まない感じだったと思うがな。……娘や、他の獣人たちは」
俺は焚き火の向こう、少し離れたところに立てておいた大きな天幕を指差した。
「……あそこです。皆、相当飲み過ぎたみたいで。まだ眠っています」
リゾンが天幕へ向かう。
布を捲る。
中には、五人。
サンディを含めた獣人たちが、眠ったまま寝息を立てている。
「……っ」
リゾンの肩から、力が抜けた。
そのまま、深く息を吐く。
そして戻ってきて、俺に頭を下げた。
「疑ってすまない。……助かった」
「いえいえ。大したことはしてませんよ」
俺は笑って見せる。
「二日酔いの看病と、子供の世話をしただけです」
そう嘯くと、横でコブとロッチが、嬉しそうに笑った。セレーネも、くるりと耳を回して小さく頷く。
俺は付け足す。
「実は、悪いとは思いつつ積荷の一部だった香辛料を少し分けてもらいました。料理に使いましたが……馬乳酒の方は、悪酔いするといけないので手を付けてません。はは」
リゾンは一瞬だけ目を丸くし、次に苦笑した。
「……その判断は正しい。あれは“楽しい酒”じゃない」
隊員たちの表情が、ようやく緩む。
誰かが焚き火に近寄り、手をかざした。
「……生きてて良かった」
「ああ……本当に……」
悪夢を悪夢のまま終わらせるための嘘が、今夜だけは優しく働いた。
◇◇◇
火は揺れる。
煙は細く伸びる。
闇はまだ深い。
けれど、ここには人がいる。
息がある。
温度がある。
俺は火の向こうで黙って座るアシェルを一度だけ見た。
──大丈夫だ。
この火は消さない。
◇◇◇




