盤台哲雄 16
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「へえ、ここが裏路地か」
スラム街を初めて目にする物珍しさから、僕は周囲をきょろきょろと見回す。
大通りから一つだけ脇道に逸れただけだというのに、そこはまさに異文化という言葉がぴったり来るような場所だった。
古ぼけてはいるが、意外にも普通の家々が建ち並んでいる。
ただ、全体的に日当たりが悪く、どことなくじめっとした雰囲気があった。
そして、あちこちに、人が倒れこんでいた。具合が悪いのではなく、寝ているのだろう。日なたを避けるように、人々は寝たり、座り込んだりしていた。
裏路地の人々はみな、着の身着のままで、ボロ布のような物とか、あるいはシャツと裾の短いズボンなどを履いている。荷物のような物を抱えている人はいない。そして、女性の姿が見当たらなかった。
「日本にもドヤ街はあったけれど、本物はやっぱり違うなあ」
何をもって本物とするかの定義は自分でもよくわからないが、最低限のインフラが整備された日本のそれと、この世界のそれは、やはりどこか違っていた。
まず、足を踏み入れた途端に、険のある視線にさらされる。
余所者を排他する、とげとげしい視線。身なりを物色するかのような、ねばついた視線。僕らを見ながら、隣の人間に何かしら耳打ちしている人物もいる。
ここまで露骨に視線を注がれているならば、こちらがじろじろ見るのは失礼だなどと考えなくていいので、逆に気楽ではある。
「道は開けてくれるんだね」
物怖じせずに進んでいく僕の行く手を、誰も遮らなかった。
いささか意外である。
僕の勝手なイメージとしては、こういった場所に入るなり、モヒカンみたいな髪形をしたチンピラたちが絡んできて、さあ金を出せだの身包みを置いていけだの言ってくるかと思っていたのだ。
しかし、そんなことはなかった。
こちらをじろじろを眺め回してくる割には、いきなり暴力沙汰を仕掛けてきたりはしないようだ。裏路地に一歩踏み入るなり、囲まれるぐらいは予想していたのだが、どうもそこまで短絡的ではないらしい。
もっと奥の方に入ってからどうにかしてやろうと思っているのか、それとも僕が武器を持っているから近寄らないようにしようと思っているのか。
まあ、どちらでもいいことだった。危害を加えられたら返す、それだけだ。
戦闘の準備はできている。両手剣を背に負い、右腰にはクリスダガーを吊り、そして懐には短刀の紅葉切が入っている。短剣はディアナの首にかけ、ヘリオパスル教会で預かってもらっていた。
話し合いに来たつもりではいるので防具は身に着けておらず、カエデが縫ってくれたいつもの甚平に、回復薬などを入れたポーチを腰からぶら下げていた。足回りだけ、動きやすいように革のブーツを履いている。
とはいえ、はたから見たら、がっちり武装している人物に見えるだろう。刃物を三本も持ち歩いているのだから。
僕が絡まれない理由はそのあたりにあるのかもしれない。
(そう、何も、必ず戦わないといけないってわけじゃない)
今日は、話し合いに来たのだ。
裏路地に匿われているであろうソアラと、腹を割って今後の展望を話し合いに来た。何も戦うだけが、意見の異なる物同士の、信念のすり合わせとなるわけではない。話し合うことで理解を深め合うことが、できるかもしれないのだ。
こういう、ある意味では老練というか、意見を戦わせて妥協点を探るという機会が、ひょっとしたら彼女にはなかったのではないか、と僕は推察していた。
ソアラ嬢の行動理念はわかりやすい。黒か白か、有罪か無罪か、である。
それは一見して正しく見えても、脆い。
真っすぐ進んでいるときは強いかもしれないが、横から叩き付けられると折れてしまう。切れ味だけを追求した、細く薄い日本刀にありがちな欠点だ。
俗に、粘り腰という。
刃物と刃物が打ち合ったとき、それの有る無しで、継戦能力は違うのだ。
僕と彼女が腹を割って話し合った結果、戦うことになるかもしれない。
あるいは和解できるかもしれない。
どう転ぶかは、僕にもわからなかった。本格的な衝突に至る前に、ちょっと小突きあってみるというのは、大人の知恵でもある。子供はもっと率直だ。
ただ、時が満ちた、とは感じていた。
僕が生死を賭けて行動ができるようになったというのが、大きな転機だった。もし僕が死んでも、ディアナは教会に引き取ってもらえる。
(間に合った、というのが正確な心境かな)
近々、軍と裏路地の衝突が起きる。ほぼ確実にだ。
あの日、セキ氏という転生者から得た情報や、コンスタンティ家が金策に走っていた事実が、それを裏付けていた。
ちなみに、僕の見立てでは軍が勝つ。理由はたった一つ、セキ氏が軍にいるからだ。
彼がどんな特典のスキル構成をしているかは不明だが、板金鎧を着込んでいたところから察するに近接戦のスキルは持っているだろうし、ソアラの暗殺を通さない可能性が高い。
草原街グラスラードでシェルという少女と戦ったとき、彼女は僕の魔法で盲目になっていたにも関わらず、カエデの斬撃を避けてみせた。回避術スキルを持っていたのだろう。他にも、防具スキルだとか、索敵スキルなどでも、隠身スキルに対抗することができるはずだった。
ぱっと見ただけの直感に過ぎないが、多分、セキ氏は暗殺対策ができている。
そうすると、軍が有利なのは自明の理だった。
セキ氏率いる軍と、ソアラ嬢の属する裏路地。戦力差は、明白である。
ベアバルバという、ヤハウェに付いていた護衛は、確か1500レベルぐらいだった。あれほどの実力者が、軍にはそれなりの数、在籍しているのだ。セキ氏と同レベルの兵士も数多くいるようだし、裏路地そのものが多少の自衛手段を持っていたとしても、その戦力差は大人と赤子ほどもあるだろう。
その劣勢を挽回しようと思ったら、ソアラ嬢が国家の要人を暗殺しまくる以外の方法はない。しかし、今までそんな風に動いた様子はなかった。元からソアラ嬢は暗殺を嫌がっているようだったし、彼女の信念に合わないのだろう。
(――甘いといえばそれまでだが)
なりふり構わず、ソアラは自分の延命のために動いていない。
つまり、どう転んでもソアラ嬢は負けるのだ。
軍と裏路地がぶつかれば、彼女が不幸になるのは確定している。
(それは、面白くない)
激突のタイムリミットまでに、侠者は教会のことを片付けてくれた。今なら、両者が戦いを始める前に、ソアラと話し合う機会が持てる。
戦闘になる可能性があったから、ディアナのことが何とかなるまでソアラと接触することはできなかったが、今となってはそれもない。
時が、満ちたのだ。
(それはいいが、どこに向かったものかな)
雑多な、小さな広場の真っ只中に立ち止まって、ぽりぽりと頭を掻く。
どうすれば、ソアラ嬢との面会を果たせるだろうか。
一番手っ取り早い手段としては、裏路地のお偉いさんに会って、ソアラを出してくれと言えばいいのだが、あっちだって、匿っている暗殺者にほいほい会わせてくれるわけはない。
もしかしたら、伝言ぐらいは頼めるかもしれない。ソアラがそれを受け取れば、彼女はきっと僕と会ってくれる。そう思ってはいたのだが、問題はどこにお偉いさんがいるかということである。
どこそこに事務所を設けている、と堂々と表示してあるわけでもないので、どこにいけばソアラのことを知っている人物に会えるかがわからない。
「結構、行き当たりばったりで来たからなあ」
初めて来る場所なのでプランが立てにくかったということもあるが、どうやってソアラに会うかを、実はあまり考えていなかった。
きっと治安が悪いのだろうし、チンピラには絡まれるだろうし、返り討ちにして騒ぎを起こせばお偉いさんがやってくるんじゃないかなと思っていたが、僕が武器を持っているせいで誰もカツアゲに来ないのだ。予定外だった。
どうしたものかと悩んでいると――五人ほどの組に、進路を塞がれた。
「動くな」
声を発したのは、五人組の一番前で腕組みをしている、若い女性だった。
これは当たりを引いたかな、と内心で安堵する。そこらのチンピラと違って、五人組の統制が取れていた。組織の気配がする。
「余所者だな。何の用だ?」
また、女性が声を発した。
かなり若く見えるが、五人組の動きからして、彼女が集団の頭のようだ。
町娘のような服を着ているが、色合いが地味だった。注意深く見れば、顔つきや髪型も、周囲に埋没するようなものにしていて、このスラム街に違和感なく溶け込んでいる。
組んだ腕の先は、腰に巻いた帯に添えられていた。あそこに暗器でも仕込んでいるのだろうか。どことなく、血の臭い――同類の気配がした。人を殺したことがあるのだろう。
「ソアラって娘を探してるんだ。先日の、コンスタンティ家の貴族を仕留めた暗殺者のことなんだけど。ここに匿われてるんだろう?」
僕は、率直に言うことにした。言葉を濁しても意味がない。
案の定というか何というか、先頭の若い女性以外の男衆が殺気を放つ。みな、さりげなく懐などに手をやっている。いつでも得物を抜けるようにだろう。
(彼らを殺戮してもいいが――)
それは最後の手段だった。まずは穏便に行こう。
「知らんな」
「立場的に、何とも答えにくいのはわかってる。だから、伝言を頼みたいんだ。テツオが会いたがってるって。宿の場所は変わってない、彼女なら多分知ってるはずだ」
ソアラはそれなりに周到だ。ヤハウェの屋敷に集まった転生者それぞれの住所ぐらい調べてあるはずだ。カナン商会の情報網をもってすれば、たやすく調べられたことだろう。今でも僕と侠者は、たびたび飲み会をしているのだ。
「伝言を頼まれても、知らんものは知らん」
「うん、それでいいよ。伝えてくれればわかるから」
これで、ソアラは僕の宿を訪ねてくるだろう。直接乗り込んでくるかはわからないが、日時と会う場所を指定した手紙を届けてくるとか、そういったリアクションはあるはずだ。
用は済んだので帰ろうと踵を返すと、いつの間にか退路をふさがれていた。こちらは、先ほどよりもさらに多く、七人組だった。
「こそこそと我らのことを嗅ぎ回っているやつを、大人しく帰すと思っているのか?」
前方に七人、後方に若い女性隊長を含む五人組。総勢十二人に囲まれたことになる。
(――食べ放題じゃないか!)
内心で歓喜した。
もう伝言を頼むという用事は終わっているのだ。先ほどの若い女性以外ならば殺してしまっていいだろう。
いくら犯罪者かもしれないとはいえ、スラム街の住民だという理由だけでこちらから襲うことはない。ないが、あちらから襲ってくるのならば話は別だ。
喜んで頂こうではないか。
「何を考えているか、二人とも洗いざらい吐いてもらおうか」
じり、じりと包囲の輪が狭められてくる。
僕と彼らの距離が、彼らに残された寿命だとも知らずに。
やはり、相手側の指揮官は若い女性で間違いないようだ。成人してもいないだろうに、大したものである。
ざっと周囲の男たちのステータスを眺めていたが、レベルが100を超えている人物はいない。これならば、カエデたちに頼らずとも、僕一人だけで片付くだろう。
「ああ、激しく抵抗をする予定だ。そのつもりで来るといい」
クローベルを振り回すか、それとも久々にカエデの切れ味を楽しむか、それともクリッサの貫通力に酔うか、どれにしようか、悩ましい。
どうするにせよ、警告もしたし、早く来てくれないかなと内心でわくわくしていたところ、場の緊迫を壊すかのように、すたっ、と何かが着地する音がした。
音のした方を向けば、顔を隠した全身黒ずくめの、懐かしい忍者装束が立っていた。ルンヌという名前で草原街グラスラードに現れた、あのときの彼女の姿そのままだ。
「なんだ、来るならもう少し遅く来てくれれば良かったのに」
僕はソアラに笑いかけたが、彼女は表情を微動だにさせなかった。そもそも巻き付けた黒い布のせいで顔は見えないのだが。
「私を殺しに来たのか?」
いくらかくぐもった声だったが、ソアラの声で間違いなかった。たった一言、言葉を発しただけなのに、やけに懐かしく感じる自分がいる。
「いや、話し合いに来たんだ。君がむざむざ死ぬのは、なんだか見ていられなくてね。ちょっとした世話を焼きに来たと思ってくれればいい」
「余計なお世話だ。お前と話すことはなにもない」
人目があるからか、口調が固いなあ、とのんびり僕は思った。
昔と違って、話し方にも険が出ていた。余裕がないのだろうか。
「僕とはないだろうね。でも、彼とはあるんじゃないかな?」
僕の台詞を皮切りにして――今まで僕の後ろに控えていた、全身ローブ姿の人物が一歩進み出る。
彼は、ある意味では彼女に対する切り札だった。
ソアラの前へと進み出た彼は、今まで顔を隠していたローブのフードをゆるめ、正面に対して少しだけ、素顔を見せた。
その顔を見て、顔に巻きつけた布越しでもわかるほどに、ソアラは狼狽し、後ずさった。
「ライオット――!?」
そう、彼こそ僕の用意した、ソアラ嬢を翻意させる切り札である。
カナン商会の次期跡取り。ライオット君である。




