望月素新 7
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「ソアラ、いるか? 中央の商店街に行く用事があったのでな、土産を買ってきたんだが――」
こんこん、ノックの音、シブの声。
「どうぞ」
そう、私は答えたつもりだった。
私の喉から発せられた音はあまりにか細く、木の扉の向こうには届かなかったようだ。再度ノックをされたので、私はどうぞ、と大声で叫ぶ。
週に一度か二度、食料のまとめ買いをするときぐらいにしか私は声を出すことがない。すっかり声の出し方や、声量の調整を忘れてしまった。
「ひどいものだな。部屋も、お前の顔も」
私の部屋に入ってくるなり、腰に手を当ててシブはため息を吐いた。
ひどい言い草だとは思うが、シブの言う通りだとも思う。私の部屋は、率直に言ってゴミ溜めになっていた。屋台の食べ物の入っていた器や、調理なしで食べられる果物の皮などがゴミ箱から溢れて小山を作っている。
最初の頃は定期的にゴミを捨てたりするなどして清潔な部屋を保っていたのだが、いつしか外に捨てに行くのが億劫になってしまった。異臭にはすっかり慣れてしまって、もう何も感じない。お風呂には三日入っていない。
「最近になってから鏡を見たか? まるで死神だぞ」
布団から半身を起こした私の顔を見ながら、シブはそう言った。思わず苦笑が漏れる。
死神。言いえて妙だった。
少し前に街に出たときに、入り口に鏡を飾ってある仕立て屋の前を通り過ぎて、私は息を飲んだものだ。偏った栄養状態の青白い顔、落ち窪んだ目と頬、浮いた隈。上目遣いに鏡を睨みつける私の瞳は淀んでいて、死神と言われればなるほどと納得してしまう。
「屋上に行こう。土産は食べ物で、一緒に食べようと思って私の分も買ってきてあるのだが、私はこの部屋で物を食べるのはごめんだ」
ぐいと袖を引っ張られて、私は包まっていた布団から引きずり出される。
ろくに洗わずに着回している寝巻きのままだったので外には出たくないと思ったが、屋上ならば人目に付くこともないだろうから、まあいいやと思って裸足で付いていく。靴下を履くのが面倒臭いので、靴は履かない。素足で履くと、革靴は蒸れてしまう。サンダルみたいなものを今度買ってこよう。でも外出は億劫だな。
「手際の良さから、お前は熟練の暗殺者かと思っていた。お前が自分で言う通り、素人だったのだな」
少し冷めてしまっていたが、パン生地にチーズと具を乗せて焼いた、ピザに似たものをかじりながら、シブは私の顔を覗きこんだ。
「殺しに手を染めたことで心を病む新人がたまにいる。お前のようにな」
心なんて病んでいない、そう反射的に返そうとして、今の私にはぴったりの表現だと思い直した。何が正しいのか、何が間違っているのか、私のしたことは正しかったのか、間違っていたのか。
ぐるぐるぐるぐる考えこんでいるうちに、私が手にかけた三人の死に顔とか、肋骨を浮かせるほど痩せこけた貧民街の子供たちの姿とか、肉を裂き、臓腑を貫いたナイフの手応えとか、そういうものが次々と頭に浮かんできて、私を責め苛むのだった。
そんな私が快楽に身を浸すことは罪なのではないか、そう思うと美食も喉を通らなくて、最低限度の食事だけに切り詰めた。お風呂に入るにもお金がかかる。贅沢は避けなければならない。少しお風呂に入らなくても我慢できる。作水石があるから飲み水には困らない。あとは塩でも舐めていれば死ぬことはない。
そんな風に色々なものを生活からそぎ落としていった結果、私自身が元から持っていた何かも一緒に削れていってしまったようで、今ではほとんど何もやる気力が湧かない。
毎日ぼーっとしながら布団に包まっている。目を覚ましたら、半身だけ起こして、放心したまま時間を過ごす。いつしか腰が痛くなってくるので、横になって目を閉じる。浅い眠りの後に、目を覚ます。どうしようもない生理的欲求が出てきたときだけ、食料を買いにいったり、トイレに行ったりする。
シブが買ってきてくれた、ピザのようなものをかじる。美味しかった。
味よりも、シブが私に気を使ってくれていることが嬉しくて、目頭が熱くなった。でも、涙は出てこなかった。
「コンスタンティ家の情報、その続きを持ってきたんだが――やめておこう。ソアラは少し、戦いから遠ざかった方がいい」
持参した木のお椀に作水石で水を満たしながら告げたシブの言葉に、私は首を横に振った。
確かに、気は進まない。もう一度ナイフを手にして、誰かを殺さなければならない、そう考えると、ぞわぞわと全身に怖気が走る。想像しただけで、目の前が真っ暗になる。
それでも、私がやらなければならないことだった。私の撒いた種だからだ。
「ううん、教えて。コンスタンティ家と裏路地の争いを止めるのは、私の義務だから」
本当は、今すぐ逃げ出したい。殺しとか、血とか、貧しさとか、マイナスのすべてから逃れて、またライオットと暮らしたい。近頃は、なんだかとてもライオットのことが懐かしく思える。今思えば、ライオットはいつも私のことを見てくれて、何くれとなく気遣いをしてくれたものだ。
シブが私に食べ物を買ってきてくれたことで、ライオットが私を連れていってくれた料理のお店や屋台なんかの思い出が、堰を切ったように脳裏にあふれ出した。
勝手な言い草だと、私は内心で吐き捨てた。ライオットを拒んだのは、他ならぬ私だ。どうしても許せないと思って、ヤハウェさんを初めとした三人の命を奪ったのも私で、それをきっかけにコンスタンティ家と裏路地の抗争の火種を作ってしまったのも私だった。
私には、両者の争いを止める義務がある。
「やめておけ。私の経験上、お前のような状態の暗殺者に仕事をさせて、上手くいったためしがない。無謀に先走るか、いざというときに手元を誤るかのどちらかだ。迷いのある刃が相手に届くとは思わんことだな」
「かもしれない。でも、多分大丈夫だよ。誰であれ、また殺せる。本当は逃げ出したいんだけど、多分逃げたら逃げたで、私はダメになる。私が三人も殺したことを、正当化できなくなる」
好き好んで、血で手を汚したわけではない。
この世界の人々に害を為すから、殺さないといけないと思って、殺したのだ。それが、逆にこの世界の人同士で争う原因となった。本末転倒だ。だから、私にはその争いを止める義務がある。
それに、だ。
フヒト。ジン。ヤハウェ。
私が手にかけた三人の死に顔は、今でも私の脳裏にこびりついている。私が遠くに逃げたところで、きっと彼らはどこまでも私を追いかけてくるだろう。
私が落ち着いて休める場所なんて、この世界のどこにもない。
「おいおい、どこが大丈夫なんだ? 言っていることが支離滅裂だ。ったく、ここまで重症だとは思わなかった」
参ったな、と前髪をかき分けてシブは頭をがしがしと掻いた。
彼女は、一本一本がしっかりした、綺麗な茶髪をしていた。
きっと磨けば艶も出るし、伸ばせばさらりと流れるような長髪になるだろう。
でも、シブはそうせず、首元あたりで髪を切りそろえ、わざと櫛を通したりもせず、手でくしゃっと撫で付けるだけの無精な髪型にしている。
目立たないように地味な髪にして、人ごみに埋没するためらしい。人を殺めたこともあるらしいし、私のようなにわかアサシンと違って、彼女こそプロなのだ。
(そうだ、聞いてみようかな)
私とシブの歳は、そう変わらない。
地球で暮らしていれば訪れていたであろう誕生日を経て、私は十四歳になっていた。シブは一つ上の十五歳。その歳で、彼女は立派な裏稼業の一員、いやそれどころか裏路地で重要な役職を任されてもいるらしいから、幹部のようなものにまでなっている。
彼女に聞けば、人殺しの心構えというものを教えてくれるのではないだろうか。
「ねえ、聞いてもいい? シブは他人を殺すことを、自分の中でどうやって正当化した?」
「どうした、いきなりだな――口に出すようなことではないと思うが、興味本位で聞いてるわけでもなさそうだしな、まあいい。単純だ、殺さないと生きていけなかったからだ」
苦笑しながら答えたシブの言葉は、私にはぴんと来なかった。
カケラロイヤルでもあるまいし、どういう事情があればそうなるのだろう。
「そんなことがあるの? 生きていくために、他人を殺さなきゃならないなんて」
「あるさ。裏路地の全員が全員、そこまで逼迫した事情を持っているわけではないが、底辺のさらに下の方ともなるとな、そういう事情を持ってる奴は掃いて捨てるほどいる。私は死にたくないから他人を殺すことを選んだ、それだけだ」
シブは、この話題を続けたくはなさそうだった。それでも、私は突っ込んで聞いておきたかった。私は確かに、シブの言う通り少し疲れてはいる。その自覚がある。でも、シブはそうではなさそうだった。彼女もまた、私と同じ人殺しであるというのに、そのことを一々気に病んだりはしていなさそうだ。その秘訣というか、理由があるならば知っておきたい。
「ん――他人に言うようなことでもないし、本来なら突っぱねるのだが。お前がそうなったのは、あの貴族の首を取ったからだと考えると、我々には借りがある、か」
しょうがないな、などとぶちぶち言いながら、それでもシブは語ってくれるようだ。木の椀に満たした水で喉を湿らせている。
「私はここの育ちだ。捨て子だったらしくてな、実の両親の顔は見たことがない。物心付いたときには、育ての親というか、私を拾った人物の下で仕事をしていた」
開幕から重い話だった。
私も生前、人生の途中からは貧しい家庭に分類される生活をしていたが、それはあくまで日本という枠組みの中での貧富の差であり、食べるに困るほどではなかったし、両親も健在だった。
日本は先進国だということが、この世界に来ると良くわかる。
「私たち子供の仕事は、ゴミ拾いでな。そこらのチンピラが吸って捨てた煙草の燃えカスや、欠けて捨てられた皿なんかを拾ってきてな、縒り合わせたり、洗ったりして売り物にするんだ。それを上に納めると、何とか生きていけるだけの食事をくれるんだ。私の子供時代は、そんな日々だったな」
「それは、何歳ぐらいから何歳ぐらいまで?」
「ふむ、記憶が確かでないが、多分三歳ぐらいから十歳ぐらいまではそんなことをしていたのではないかな。途中からは、新しく入ってきた子供たちを顎で使う立場に変わったから楽ではあったが」
苦労したんだね、と私が言うと、シブは笑って首を横に振った。
「そうでもない。私を拾ったその育ての親というのが、甘い人でな。仕事の出来には厳しい人だったし、メンツもあるからいつも険しい顔をしていたが。しかしな、そもそもろくに仕事なんて出来ない子供を拾っている時点で大甘なんだ。三歳児にできる仕事なんてほとんどない。世話をする手間がかかるだけだし、ゴミ拾いなんてさせたところで、大した利益は出ない。普通なら野垂れ死んで疫病の元になるだけだから、その前に街の外に追い出すのさ。運が良ければそこで拾ってもらえる、そうでなければ魔物か野犬あたりの餌になって後腐れがない」
シブは何でもないことのように軽く語っているが、私にとっては壮絶な世界だった。もしや、触れられたくない過去に気安く触れてしまったのではなかろうかと、
今更になって私は内心、焦り始める。
「十歳ぐらいの頃には、早く成長して奴隷として売られたいと考えていたな。初潮精通さえ迎えてしまえば、奴隷の買い手はあるからな。男なら働き手として、女ならば愛玩用として――器量の良し悪しにもよるがな。まあ、唯一わかりやすい形での、裏路地からの出世手段というわけだ」
「奴隷になりたかったの?」
私は驚き、思わず聞き返した。
私の中のイメージでは、奴隷というものは他人の所有物で、人間扱いされない、それこそ底辺なのではないかと思っていたのだ。
「それはそうだ。子供が裏から表へと出ていく、ほとんど唯一の方法だぞ? 運が悪いと農奴なんかの仕事が厳しいところへ売られてしまうが、それだって裏路地よりはマシだ。言われたことさえやっていれば食事が出てくるんだ、楽なもんじゃないか。法で護られているから、買い手だって奴隷を面白半分で虐待することもなかろうしな」
奴隷という単語を聞いて、この世界で私が初めて手にかけた、フヒトという転生者のことを思い出した。それこそ彼は、愛玩用に奴隷を購入していたし、私はそれが許せなくて彼を刺したのだ。
「私に言わせれば、金持ちに囲われるなんぞ大出世だ。気に入られれば、飾り立ててくれるだろうし、食事にも不自由しなくなるだろうからな。一番いい身体の売り方じゃないか? 表の住人で、そういう身分に落ちてしまったことを嘆く女をたまに見かけるが、贅沢なことを言うものだと思っていたよ」
私は何をしたのだろう。
私は良かれと思ってフヒト氏を刺した。
しかしそれだって、彼が囲っていたあの少女の行く末の中では、まともな方だったとシブは言う。あの少女は確か、教会へと引き取られたはずだ。侠者さんとテツオ氏が、経営に携わっているまともな教会だ。結果論としては、あの少女は良い居場所を得られたと思う。私の感性では、だ。
だが、シブの感性では、金持ちに囲われることは幸運なのだという。
果たしてフヒト氏の買った少女は、私が手を血に染めてまで救うべきだったのだろうか?
そりゃあ、囲いものの生活よりは、教会で暮らす方が良いだろう。しかしその差は、フヒト氏の命を断ってでも作るべきだったのだろうか?
「話が逸れたな、何だったか――ああ、私が初めて人を殺したときの話だったな。それを話す前に、縄張りについて説明しておこう。私の仕事がゴミ拾いだったことは先ほど言ったが、自分たちはこの区画からこの区画までの間、ゴミを拾っていい、そういう縄張りがあるのさ。もし他のシマで仕事をしようものなら、袋叩きにされても文句を言えない、それが裏路地の不文律だ」
シブは、懐から小さな木箱を取り出して、中に入っていた葉巻みたいなものを咥え、作火石で火を点けた。目を細めながら、深々と吸い込んだ煙を宙に吐き出す。
「ふう、沁みる――先ほどの続きだがな、ある日、隣の縄張りの奴らが、私たちのシマを荒らしてきた。決め事を破っている自覚は向こうだってあったろう。要するに私たちのような弱小の一家を蹴散らして、縄張りを手に入れようとしたわけだな。どんな世界だって、最終的に物を言うのは力だ、私たちが相手なら、楽に縄張りを奪えると思ったんだろう。私たちの取れる行動は二つだった。戦うか、逃げるか。
戦えば、人死にが出るかもしれない。逃げれば、もっと生活は苦しくなる。ゴミ拾いの縄張りを失くして、また別のところで生計を立てるなんてのは、ちょっと考えても厳しいってわかるだろう?」
紫煙をくゆらせるシブの表情は、今まで見たことがないものだった。
当時を思い出すかのように、少し俯きがちに葉巻を咥える様が、妙に大人びて見える。
「私たちが選んだのは、戦うことだった。私が初めて殺したのは、少し年上の男だったな。今にして思えば、一つ二つ年上というだけで相手も子供だったのだろうが、当時の私にしてみれば、私よりも背が高い男を襲うというのはずいぶん怖くて、歯の根が合わなかったのを覚えている」
一家の大人が手渡してくれたのは、これぐらいの錐でな、と言いながら、シブは広げた手のひらより少し大きいぐらいの長さを手で示した。
「酒場なんかで、氷を砕くための錐を、どこかから拾ってきたものなんだろうが――
私はそれを握り締めながら、物影に隠れていてな。大人たちが武器を持って争い始めた後に、私に気づいていないその男の子に背後から駆け寄って、その錐を背中に突き刺したんだ。無我夢中で、全身の体重を錐に乗せて、ぐりぐり抉ったよ。それがまあ、良いところに刺さってな。背骨とかをよけて、腸だか腎臓だか、そのあたりにだ。今思えば、あれは危ない橋を渡っていたな。骨に当たるか、事前に気づかれでもしていたら、死んでいたのは体格に劣る私の方だっただろうから――その後の話はいるか? 倒れこんだその子の横にだな、こう、自分で思い出しても笑えるのだが、ちょこんと膝を揃えてかしこまってな、動かなくなるまで滅多刺しにしたんだ。それが私の初めてだ、参考になったか?」
いつにも増して、シブは饒舌だった。
シブが、語りたがらなかった理由が、良くわかった。彼女にとっても、それは心の傷だったのかもしれない。
「ごめんね、言いたくないことを聞いて」
この話題を続けるのは、シブに悪い。
私はそう思って、他の話に変えようと、頭を必死に回転させた。
女の子が二人揃って、話すようなこと。そういう話題に変えよう。
「そうだ、そういえばさ、シブは好きな人とかいるの? 大人びてるけど、私と同じぐらいの歳でしょ?」
私の脳裏をよぎったのはライオットの姿だった。シブにもそういう人がいるのかもしれないと思って、極力明るく聞いてみる。
そんな私の台詞を聞いて、シブは苦い顔をした。
「お前は本当に、殺しの腕以外は子供なのだな。他人の詮索はやめておけ、裏路地にいる時点で、みな何かしらの脛の傷は持っているものだ」
シブは吐き捨てるように告げると、立ち上がって床に煙草を投げ捨てて、火種を靴で踏みにじった。
「人を殺す理由なんて、人それぞれだ。私の場合、殺すことで自分の利益になるから殺す、それだけだな。お前が何を思い悩んでいるのかは知らんが、それはお前が自分で解決しなきゃならんことだ。個人的な助言をするなら、割り切れ。ではな」
言い残して、シブは去っていった。
彼女が置いていった言葉を、私は反芻してみる。
割り切れ――そう言われても、無理だ。
私は三人の命を奪ったのだ。それが罪深い行動であることは受け入れるけれど、せめてその殺しには、正当性がなくてはならない。
間違っても、自分の都合で他人を殺害したなんてことがあってはならないのだ。
それを受け入れてしまえば最後、私は身勝手な殺人者に成り下がる。私が手を汚したのは、この世界の人々のためだった。その前提が揺らぐことなど、あってはならない。
(あ、そういえば――)
シブの用件は、コンスタンティ家と裏路地の抗争、その予兆についてだったというのに、彼女はそれを話すことなく、帰っていった。私に、これ以上関わるなという意味なのだろう。
(追いかけて、聞かなきゃ)
私は慌てて、シブの後を追う。
争いは、止めなければならない。例え、私がまた手を汚すことになったとしても。そうじゃなきゃ、何のために三人を殺したのか、わからなくなってしまうのだから。




