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米倉鱈雄 1

 米を、カビさせる。

 

 銀製のボウルの中に蒸した米を入れ、さらに水を少しだけ加え、蓋をする。そのまま常温で一晩二晩ほど放っておいてやると、正視に堪えないカビだらけの米が出来る。


 このカビた米は、菌の宝庫だ。


 もちろん、人が口にすると食中毒を引き起こすレベルのカビだが――この中には、良質の菌もいる。具体的には、麹菌などだ。


 カビた米を素材にして、麹のみを取り出そうと念じながら、特典の料理スキルを発動させる。すると、あら不思議――雑菌の一切入っていない、麹種の出来上がりである。


 小石のようなこの麹種から何が作れるのかというと――ざっくばらんに言うと、日本の味が出来る。作る調理料や酒によって、米や豆など、麹菌を付着させる原料は変わってくるのだが、ともかくその、発酵させて作るすべての食品のモトになる。


 苦心、一週間。様々な試行錯誤の末に完成した「それ」を、僕は口に含んでみた。

 そう、味噌と醤油である。


 口の中に広がる日本の味に、思わず頬が緩んだ。


「出来た――」


 海の街クララ・クリマに転生してから、一週間。僕の求めていた調味料が、ついに出来上がったのだ。


「やっぱり、日本人はこれがないとね」


 竈には、炊きたてほかほかの白米。お椀には、味噌汁。

 大皿には、刺身の盛り合わせ。小皿には、醤油。


 抜かりなく、日本酒も作ってある。腹が満ちた後は、余った刺身で一杯やろう。


「完璧すぎる――」


 完璧な、和食である。


 特典の料理スキルのおかげで大幅な時間短縮が出来たとはいえ、これだけの調味料を一から揃えるのには、それなりに苦労をした。


 当然といえば当然なのだが、この世界には日本の調味料がほとんどない。

 味噌も、醤油も、日本酒もだ。魚醤だけは元からあったので、アジア的な風味を作ることは出来たが、どうしても物足りなさを感じてしまう。


 味噌と醤油を定期的に摂取しなければ精神に不調を来たす純日本人としては、死活問題であった。

 

(麹菌を作るところまでが、一苦労だった) 


 試行錯誤の末に、発酵という手順を料理スキルによって省くことが出来ると気づいてからは楽だったが、それまではずいぶんと失敗したものだ。

 麹種さえ作ってしまえば、後は簡単だった。味噌と醤油、おまけで日本酒まで、たった一日で仕込みは終わったのだ。


 通常であれば最低一年は寝かせて熟成させなければしっかりした調味料にはならないのだが、料理スキルを使えば熟成させる期間も、寝かせている味噌や醤油を攪拌する手間も、何もかも必要なく、いきなり最高級の完成品が出来上がるのだ。僕にとって、実に有用な素晴らしいスキルである。


 言葉にすると簡単に出来上がるように思えるが、市場に行って良質の大豆を探したり、コンロがないので竈を使わざるを得ないので火加減の調節が大変だったりとそれなりの時間を使っている。米を炊くのにちょうどいい羽釜や大豆を煮るための大鍋、それに冷却石とかいう魔石を使った冷蔵庫など、神様が調理器具をあらかじめ揃えておいてくれなかったら、もっと時間がかかっていただろう。


 その苦心の結晶が、今この食卓に並んでいるというわけだ。


「いただきます」


 手を合わせ、僕はまず味噌汁を啜った。


 口の中に広がる、手作り味噌の風味。

 日本で売られていた市販品などより、香りの広がりも味の奥行きもずっといい。

 少し甘みのある、すっきりとした白味噌だ。自分で作ったという感慨と合わさり、極上の味に仕上がっている。


「まさに、手前味噌だな」


 うんまい。思わず泣けてくるほどうまい。僕の口の中に、日本が広がっている。


「お次は、刺身っと」


 白身魚の刺身を、木箸でつまみ、ちょんと醤油を付けて口の中に放り込む。

 

「――!」


 言葉にならず、咀嚼しながら僕はばんばんと膝を叩く。これは、最高だ。

 

 今日食べている魚は、なんと魔物である。

 港町の南側、魔物出没域にあたる海で水揚げされた、鮫魚シャークフィッシュと呼ばれている魚だ。 


 食用になる魔物は、お値段が張る。その希少性と、味ゆえに、だ。

 その鮫魚を、僕は一匹丸ごと買ってきて、自分でさばいた。


 見た目をざっくり言ってしまうと、首から上は流線形の鮫そのもので、胴体は普通の魚である。ギザギザの歯は、映画で見たホホジロザメのように鋭く、これで他の魚、のみならず硬い貝類まで砕き食うらしい。


 この魚が美味と聞いて、僕はいてもたってもいられなくなり、港の市場まで行って買い付けてきたのだ。鮫なのに全身に生えた強固な鱗を取り除くのに苦労したが、結果としては、大成功の買い物だったと言える。


 ぷよぷよと柔らかい身肉は、剣術スキルを使用して包丁で裁くことにより、きりっと断面の立った刺身へと変わり、今、僕の目の前で大皿に並んでいる。


「うめえ――」


 もう一切れ、口に運ぶ。

 思わず表現が乏しくなってしまうほどに、美味い。


 実に意外なことに、魔物は基本的に美味いのだという。

 マナによって身体能力が向上している魔物は、運動を筋肉に頼らないので、肉が柔らかくなりがちであり、その上に豊富な栄養を蓄えるためか、肉の味がとても濃く、肉食獣以外の魔物はほとんど食えると市場で教えられた。

 

 この鮫魚も、その例に漏れず、美味い。

 フグの肝によく似た白くなめらかな刺身は歯ごたえこそ乏しいものの、口に入れるとほろほろと溶けるようであり、ぎゅっと凝縮された旨味が広がる。火を通した白子と、よく煮込んだ豚の角煮の中間とでも言えばいいのだろうか、口の中で繊維が解けていくようだ。


 醤油との相性もいい。酒のつまみとしても最高だし、白米ともよく合う。素晴らしい食材だ。


「まさに、魚肉と呼ぶに相応しい。これは旨いなあ」


 すっかり、僕は鮫魚の虜になった。

 地球にはいなかった食材である。これが醤油と出会っただけで、これほどまでに化ける。


 この世界に、一体あとどれほど未知の魔物、未知の食材があり、日本の食文化との出会いがあるだろう。その都度、新たな味の地平が拡がるのだと思うと、胸の高鳴りを抑えきれない。

 

「問題は、米だな」


 そう、米があまりおいしくないのである。

 市場で一般的に流通している米は短粒種、いわゆるジャポニカ米ではあったのだが、品種改良が進んでいないのか、味と香りが乏しい。炊きたてを食べても、味も素っ気もない、いわゆる米らしい風味が全然ないのだ。


 こればかりは、料理スキルではいかんともしがたい。

 

 品種改良ばかりは一朝一夕になるものではないし、それを改善するとなると、気の遠くなるような年月が必要だろう。料理スキルでどうにかできる類の問題だとも思えない。


 あるいは錬金術スキルでも持っていれば、複数種類の米をかけ合わせて質の良い種籾を作ることが出来るかもしれないので、僕と同じような転生者と会うことがあれば、錬金術スキルを持っているか聞いてみるのもいいだろう。


 なお、他の転生者から襲われる心配は、まったくといっていいほどしていない。

 十六人も転生者がいれば、「やる気」のやつが一人二人いても不思議ではないが、食への欲求は彼らとて持っているだろうから、いざ出会ってしまっても説き伏せる自信がある。

 そもそもカケラロイヤルに興味がないのだから、襲われたところでカケラを譲渡してしまえばいいのだ。


「うん、いける」


 食器棚の中に入っていたぐい呑みで、冷やの日本酒をきゅっと呷る。

 海が近いために、この街は湿度が高めで、ほんのり風に汐の匂いがする。

 涼しいせいか、海の匂いはそこまできつくなく、少しだけ皮膚がべたつくあたりは日本の気候にそっくりだ。


「海が近いから米が美味しくないんだろうか」

 

 船着場へと行き交っていた馬車の列を見る限り、流通網は発達していなさそうだ。となると、この港町で売られている米は、塩分を含んだこの一帯の土地で作った米である可能性が高い。


「今度、大陸の方から米を取り寄せてみるかな」


 一方、食べてもおいしくない米から作ったというのに、日本酒は素晴らしい出来映えであった。 

 

 酒造好適米だとはとてものこと思えないので、料理スキルのおかげであろう。

 恐らくは、米の芯にあたる、本当に美味い部分だけを利用して日本酒を造ったという扱いになっているのだ。


「んん、純米大吟醸ですねえ」


 口に含むとどっしりと濃厚な酒に思えるのに、喉を通るとすっと消えていくようなキレ。酵母がフルーティに香る、とても良い酒だ。かぽかぽ飲めてしまう。


「良いところだなあ、ここは」


 鮫魚の刺身のうち、頬肉などの希少部位をつまみつつ、ぐい呑みを傾けながら、

転生してよかったとしみじみ思った。

 ここは食の宝庫だ。旨い飯、旨い酒に事欠かない。僕のためにあるような土地だ。日本で暮らしていたころは無神論者だった僕だが、思わず神に祈ってしまったほどだ。


「ごちそうさまでした」


 両手を合わせ、拝むように頭を垂れる。この世界に僕を連れてきてくれた神様に、最大限の好意を示す僕なりのお祈りだ。








 目を覚ますと、外では小鳥が囀っていた。朝だ。

 僕は伸びをする。熟睡した後の、すっきりとした目覚めだ。


「んんん――ふう。いい朝だ」


 洗い物をやってから寝たので、台所は綺麗に片付いていた。

 その様を見ると、なぜだか気分がしゃっきりする。僕だけかもしれないが。


 昨日は五合ほども日本酒を飲んだが、僕の家系は酒に強いので二日酔いにはなっていない。というより、酒の半升ほどで翌日に残るようなやわな肝臓きたえかたはしていない。内臓だけではなく、僕は肉体だって鍛えていた。


 僕が食っちゃ寝しているだけのデブだと思ったら大間違いである。そんな生活をしていたら、あっという間に糖尿病になってしまうではないか。

 一分一秒でも長く美味い物を食う生活を続けるために、健康体であり続けることは必須の条件だ。僕は身体を動かすトレーニングを毎日欠かさず行っている。


 一見デブではあるが、僕の体脂肪率は、実は10%ちょっとしかない。

 でっぷりと肥えた僕の腹回りを触ってみると、まるで車のタイヤのような、ぱつんぱつんの圧力があることに気がつくだろう。筋肉なのだ。


(医食同源、食事を美味しく頂くには健康でないとね)


 美味い飯を食うための努力は惜しまない、それが僕の信条である。


 特典でもらった我が家に備え付けられていたベッドは、未使用新品だというのによく身体に馴染んだ。連日、睡眠は深く、肉体疲労が翌日に残ることだってない。

 

「ん、いい天気だ」


 閉め切っていた木の窓を横にスライドさせると、底部に小さな車輪のついた木板は軽やかに開かれ、朝の光が室内に差し込んできた。

 調理器具もそうだったが、家具はどれも使いやすくて身体に馴染む。神様の好意なのだろうか。


「今日は、何を食べようかなあ」


 早速、僕は今日一日の献立を考える。

 

 朝食は、洋食にしよう。米そのものが美味しければ和食でも良かったが、あの味も素っ気もない米では一食の主役足り得ない。家にあるのは調味料作りの道具ばかりで、パンもコーヒーも卵もベーコンもないので自炊という選択肢はなしだ。


「朝は外食で済まそう。香りの良いコーヒーが飲みたいな」 


 朝食は決まった。昼と夜には、何を食べようか。

 昨日は鮫魚の刺身をたらふく食った。今日は、肉にしようか。


「ただの肉っていうのも芸がない。魔物の肉を、試してみたいな」


 鮫魚は、すこぶる美味だった。海の魔物である。

 ならば、食用となる陸の魔物も、極上の美味なのではないだろうか。


「そういえば――」


 先日、街に買出しに降りているときに、首狩兎ヴォーパルバニーという魔物の噂を聞いた。マナの薄い近隣の森に住み着いている、兎の魔物である。

 性格は温厚で、縄張りに足を踏み入れない限り襲ってこないし、攻撃手段も発達した両手の爪のみなのだが、動きが機敏なので、愛らしい見た目に油断した冒険者が返り討ちにあうことがたまにあるらしい。

 その肉がとても美味らしいのだ。

 

「うん、今日は兎肉と洒落込んでみよう」


 今日一日の目的が決まった瞬間だった。野山に分け入り、首狩兎を狩ろう。

 

(肉の熟成は、料理スキルで何とかなるか)


 魚類と違って、獣肉は仕留めたばかりだと硬くてあまり美味しくない。

 死後硬直が抜け、熟成させてから食べないと、旨味に乏しくて硬いだけの肉になってしまう、のだが――そもそも僕は料理スキルの特典持ちである。熟成と発酵、両者に大した違いはない。仕留めたばかりの兎も、料理スキルを使えばその場で熟成肉に変えられるだろう。


「よし、今晩はそれでいこう」


 パーツ単位でバラされた店売りの肉を買うのではなく、兎をその場で仕留めれば新鮮な内臓が手に入る。肝臓レバー腎臓キドニー心臓ハート

 新鮮な内臓を、串に刺して焼き、ちょっと塩をかけて食べる。きっと甘みのある、極上の味だろう。考えただけで麦酒が欲しくなる。 

 肉だって負けてはいない。その場でベストな熟成状態に仕上げた兎肉を、ステーキにして食べたら絶対美味しい。いつぞや、三ツ星のフレンチで食べた兎肉のフィレステーキは極上の味だった。


 ソースはどうしよう。ステーキの味の決め手となるソースは、とても重要だ。


「確か、バルサミコ酢は市販されてたな。あれをベースに、塩胡椒と赤ワインで味を調えて――」


 あ。


 今、すごいきゅんときた。


 熟成の進んだ兎肉を、鉄板で焼いてステーキにする。絡めるのは、赤ワインとバルサミコ酢で味を調えた、肉汁みたいな色のソース。それが鉄板の上で、じゅうっと焦げてふわっと香る。


 間違いない、物凄く美味しい。想像しただけで目がくらむほどだ。


「よし、首狩兎を狩ろう」


 決めた。今日の晩御飯は、兎尽くし。

 そう決めてしまうと、夜になるのが待ち遠しくて仕方が無い。


「焦らない焦らない。待ち時間を楽しむのも食通の嗜みさ。狩りに使う弓とか剣を持っていくのは当然として、昼御飯はサンドイッチにしようかな。大自然の中、景色を眺めながら紅茶を飲みつつ、サンドイッチ。うん、風流だ」


 頭の中で、今日の予定がめまぐるしく組まれていく。

 狩りに出かける前に、武器防具屋に行って装備を買おう。どうせ一度家に帰ってくるつもりだから、買出しも一緒に終わらせよう。家で飲むコーヒーとか、卵や牛乳も買っておきたいし。


 サンドイッチは、堅焼きパン(バゲット)を丸々使った豪快なものにしよう。

 焼きたてのバゲットを三分割ぐらいに切って、真ん中を包丁で開く。そこに、たっぷりハムと、分厚いチーズと、ちょこっと野菜なんかを挟んだサンドイッチ。

うん、かじると小麦の香りがふわっと香って、そこにハムとチーズの塩気が効いてくるんだ。絶対美味しい。


 そう決めて、行動に移そうかというあたりで、ぐうとお腹が鳴った。

 起きてから食事のことばかり考えていたが、さしあたっては朝食にしよう。


「コーヒーの美味しい店、見つかるといいなあ」


 ふんふんと鼻歌を口ずさみながら、僕はベッドから抜け出していそいそと着替え出す。今日一日の食べ歩き予定が決まったのだ、上機嫌にならないはずがない。






「よっ、と――おお」


 買ったばかりの革鎧を身に着け、自宅の鏡に写してみる。

 意外と、様になっていた。自分が一回り強くなったような気がしてくる。

 

 うきうき気分で、出かける準備を整える。

 首狩兎が出没するという森までは、そこそこ歩かなくてはならないらしい。事前準備は念入りに、怠りなく行うとしよう。


「結構遠いみたいだし、ね」


 海の街クララ・クリマは、あんがい広い。というより、この島が広い。

 人が住み暮らしているのは、横に長い島のうち、海に面したほんの一部で、島の大部分は未開の山野である。首狩兎は、そこに生息している。


 海の街クララ・クリマから北東へしばし歩いた森にある首狩兎の生息地は、人間の居住地と比べるとかえって大地のマナが薄い。大陸の中心から遠いのだ。

 

 ただし、マナが薄いとはいえ、それは人間でも足を踏み入れられるほどのごくわずかな差で――それが、彼らの肉が人間の食卓に上がる理由でもある。手ごろな魔物、それが人間にとっての彼らの立ち位置だ。


(まあ、たまに人死にが出るらしいんだけどね)


 一応ではあるが、念を入れて事前にどんな魔物かの情報収集はしてあった。 


 彼ら首狩兎の強みは、前脚の発達した刃である。それは普段、猫の爪のように前脚にしまわれている。攻撃方法は単純で、発達した後脚によるジャンプで獲物に飛びかかり、ナイフのような前爪で対象の急所を切り裂く。単純だが、その速度はさすがに魔物だけあって、単なる兎の比ではないそうだ。


 とはいえ――それだけである。

 奇襲さえされなければ新米の兵士でも楽に相手取れるという話だから、僕でも狩れるだろう。僕のレベルは125、常人の四倍は強いのだ。


「というわけで、剣良し。弓良し。防具良し。太陽の位置を見れば方角がわかるから、森の中で迷う心配はないけれど、持久食と水も持った。血抜きした獲物をくるむ布も、肉をぶら下げるフックのついた背嚢だって準備した」


 完璧である。


 この日のために、武器と防具だって新調したのだ。

 といっても、薄手の長袖シャツとステテコパンツの上から、なめした革で作られた鎧を着込むだけである。安価な革鎧の中でも、さらに簡素な作りの安物だった。


 良い物になると、同じ革鎧でも間接部分が手厚く保護されていたり、革に美しい光沢があったり、あるいは金属による補強がなされていたりするらしいのだが、僕としてはそう強い魔物を相手取るわけでもなし、キノコ狩りの延長ぐらいの気分でいるので、安物の鎧でいいのだ。


 何より、自由に使えるお金は大事である。

 前世では実家が豊かだったのでお金に困ったことなどほとんどなかったが、この世界には援助をしてくれる両親はいないのだ。特典ポイントの余りで神様からもらった小遣いは、節約して使っていくべきだった。  


 ただし、鎧と違って、剣は良い物を買った。


「じゃーん」


 誰もいない部屋で効果音を口にしつつ僕が鞘から引き抜いたのは、一本の中剣ショートソードである。

 刃渡り60センチ強、刀身の長さとしてはナイフと刀の中間ぐらいで、これ一本で何と100,000ゴルドもした逸品である。もう少し安いショートソードを売っている店もあったが、安物買いの銭失いになっても困るし、評判のいい店で買った高級品だ。


 質のいい鉄を使っているらしく、表面がギラギラ輝いて頼もしい。


 森の中で兎狩りをしたいと武器屋の店員に相談したところ、小回りが効くこれがいいと勧められたので迷わず買った。仕留めた獲物の血抜きにも使うから、刃物に使うお金はケチるべきではなかった。


「料理人にとっての包丁のようなものだし、いいものを使わないとね」


 剣を腰に吊り、家を後にして革鎧姿で意気揚々と歩き出すと、なんだか一端の戦士になったような気分だ。


 天気は快晴である。穏やかな陽射しが全身を温める。あちこちで海鳥がにゃあにゃあと鳴いていた。港町だからか、壁や塀のそこここに猫が住み着いていて、これもやはりにゃーにゃーと鳴いている。


 街行く人々の視線も、どこかあたたかい。


(やっぱり、冒険者は敬われるのか)


 この世界では、兵士は特権階級である。魔物と戦うからだ。

 実際に魔物と戦うのは兵士の中でもごく一部だけらしいが、ただ兵士だというだけで、人々からは敬われる。


 僕は兵士ではなく冒険者だが、それでも兵士に準ずる扱いを受ける。一般の兵士が赴かない、魔物が出没する領域に踏み込んで戦うわけであるから、社会的な地位こそ高くないものの、人々から尊敬される仕事であるようだ。


「あらまあ」


 このように、石畳で舗装された通りを歩いているだけで、老婆が脇に避けて道を譲り、手を組んで拝まれてしまったりするほどである。

 

 ご老体に道を譲らせるのは何やら申し訳なくもなるが、やはり尊敬される身分というのは良いものだ。前世で両親が、役員の席を用意してやるから自分たちの会社に来いと常々言っていた気持ちもわかろうというものだ。なるほど、人々から敬われる身分というのは鼻が高い。


 給料こそ高くないものの、福利厚生が充実している兵士という職が若者に人気な理由もよくわかる。この世界には兵役がない。志願者だけで事足りるのだ。

 退役だって自由らしい。


「さて、ここからが街の外か」


 街外れまで歩き、関所を抜けると、平野が広がっていた。

 ぽつぽつと木材が積まれた小屋があり、遠くには森が見える。


 振り向くと、街の外周をぐるり覆っている壁がある。


(このへんは、開拓地ってやつかな)


 森の入り口には、まさかりのようなもので木を伐採している一団がいた。

 彼らがこの一帯を切り開いた暁には、このあたりの平地も壁に囲まれ、新たに街に加えられるのだろうか。

  

 彼らに挨拶をしつつ、僕は森の中へと足を踏み入れる。


「さて、狩るぞお、兎」


 僕は鞘からショートソードを抜き放ち、手に握り締めたまま、意気揚々と深緑の森の中に分け入っていく。

 そんな僕のテンションとは裏腹に、茂った葉で遮られた森の中は薄暗い。


 頑丈な造りの革のブーツを履いているから足裏が痛むことはないが、足場が悪いのには閉口した。枯れ枝や落ち葉が木々の根に降り積もった地面は、ごつごつしていて歩きにくいのだ。

 

 しばし、首狩兎を探して森の中をさ迷い歩く。


「あった」


 地面にうっすらと残る、獲物の痕跡。


 前に二つ、大きめのくぼみ。それに続く、小さな二つのくぼみ。

 Yの字型の足跡は、兎のそれだ。


「ようやく、見つけたぞ」


 街から出発して、二時間弱。ようやく、目的の足跡を見つけることが出来た。

 雪の上などとは違い、森の中の足跡は、とても見つけにくいのだ。


(ふふん。素人じゃ見逃してもおかしくない足跡だけれど)


 こちとら年季の入った食道楽である。ジビエのための狩りに参加したことも一再ではない。当然ながら、足跡の見分け方、探し方ぐらい知っている。そんな僕に狙われたのが、運の尽きだ。


(足跡は――ここで途切れた。近いな)


 兎の習性というか、捕食されやすい小型の草食動物全般に言えることだが、肉食獣の追跡を振り切るために、巣穴の近くで大ジャンプをして足跡を消す、あるいは目くらましのため、自分の足跡を辿って戻るなどの小技を持っていることが多い。


 ここでその小技を使った跡があるということは、巣穴が近いということだ。

  

「よっ」


 ショートソードを鞘にしまい、背負った弓を取り出して、矢をつがえる。

 意識することは、簡単。


 兎の姿が見つかったら、射る。これだけでいい。


 本来、こういった小動物を狩猟する場合、罠にかける、狩猟犬を使うなど、色々なやり方があるのだが――今の僕には必要がない。なんせ、視線が通る場所で兎を見つけさえすれば、特典の射術スキルで仕留めることができるのだから。


 そんなことを考えていたら、一瞬だけ、視界の隅にちらっ、と何かが映った。

 その瞬間には、もう僕の手は勝手に弓を構え、矢を放っていた。


 ひゅん、という風切り音、きいっ、という一瞬の小さな悲鳴。


 声のしたあたりに近づいてみれば、首元に矢を突き立てられた一匹の兎がもがいていた。僕は早速、首狩兎を捕まえたのだ。


「でかいな」


 声を弾ませながら、僕は両手で後ろ脚を持って逆さ吊りにした。毛皮はふわふわである。普通の兎よりも、ひと回り大きい。恐らく、体重は十キロ近いだろう。前世で飼っていた、でっぷり太った飼い猫のドラちゃんといい勝負の重さである。


 前足を探ると、刃渡り十センチにはなろうかという硬質の爪を持っていた。首狩兎で間違いないだろう。


(ええと、解体前の重さが約十キロってことは――)


 頭の中で素早く、手に入る食肉の量を計算する。


「体重の半分も可食部が取れる豚と比べちゃダメだろうけど、それでもキロ単位で肉が取れるな。これで十分かな? それとも、もう少し狩っておくかな」


 少し考えて、僕は今日の狩りを切り上げることに決めた。

 一つ目の理由。この兎が、どれほどの美味なのかわからないこと。

 二つ目に、欲しくなればまた狩りに来ればいいこと。乱獲は狩人失格だ。

 三つ目に、この兎を早いところ血抜きしなければならないことだ。まだかろうじて兎は生きているが、早く処置しないと死んでしまう。


 血抜きの良し悪しは、肉の質をダイレクトに左右する。

 理想は、心臓が動いているときに頚動脈を断つことだ。死んで心臓が止まってしまうと、動脈を切ったところで血が抜けきらず、肉に血塊がこびりついてしまうのだ。そうすると臭みが出て、肉の質は大幅に落ちる。


「早速、血抜きをするか」


 片手で兎を逆さ吊りにしたままでは作業がしにくいので、後ろ脚を縛り上げて

そのあたりの木の手ごろな高さの枝に吊るす。


 ショートソードを一閃させて首を切ると、鮮血が溢れ出てきた。

 完全に刎ねてしまうと、心臓が止まるのでダメだ。殺さないように心臓か首の動脈を断つ必要がある。失血死させないといけないのだ。


「一度も捌いたことのない肉だけど――そんなときこそ、猟師の腕の見せ所ってね」


 首から血がほとんど出てこなくなってきたあたりで、腹も割く。

 心臓、肝臓、腎臓――間違いなく食べられるであろう内臓を切り取り、布にくるんでおく。後で水洗いするのだ。


 本当はレバーなどはその場で食べてしまいたかったが、さすがに火を通してからにしようと思う。なにせ、未知の食材なのだ。寄生虫や食中毒の危険もあり、軽挙は慎むべきであろう。仮に虫にあたったとして、解毒魔法で治るのかが未知数である。


「――お。別の個体か」


 内臓の除去がある程度終わったので、周囲を見回す余裕が出来た。

 遠巻きながら、一匹の兎がこちらを眺めている。気のせいかもしれないが、その瞳は物悲しそうだ。


「こいつの家族か? すまんが、世の中は弱肉強食だ」


 許せなどと言うつもりはない。獣を殺して肉を食う、世の摂理である。

 というか多分だが、その二匹目も、遠くないうちに狩ることになるだろう。


 実際に食べてみて首狩兎が美味ければ、僕はまた狩ろうとするだろうし、そうなったらまず真っ先にここへ来る。首狩兎がいることがわかっているからだ。

 十中八九、そこで僕のことを眺めているそいつは僕に狩られる運命にあった。


「つがいなのかな。雌雄で味の違いがあるのかどうかも、興味深いな」


 僕がそんなことを考えながら、首狩兎の解体を続けていたところ――



 ちくり。



 足の甲を針で刺されたような鋭い痛みを感じて、僕は思わず跳び下がった。


「な、なんだ!?」


 急いで足元を見れば、細長い縄のようなものが、僕の足先にくっついていた。

 それは僕がバックステップするも離れず、革鎧の足部分に絡み付いている。


「蛇――!」


 逆三角形の特徴ある頭の形。蛇だ。

 そう見て取った僕は、とっさにショートソードを振った。

 

(でいっ!)


 蛇の胴体を両断することに成功する。

 足に噛み付いていた蛇は、その牙を離して地面でのたうち始める。

 

 念のために、頭がついている方の胴体に剣を投げつけて、地面に縫い付けた。

 射術スキルの応用である。


 地面でもがく蛇は、マムシほどの小さな蛇だった。長さにして一メートルと少し、蛇としては小柄な方だ。特筆すべきはその色で、ほぼ黒に近い青である。どうやら、保護色である腐葉土の地面を這って近づいてきたらしい。


「なんで、こんな小さな蛇の牙でブーツが貫通して――あ、魔物かこの蛇――ぐっ」


 いきなりの奇襲であったので、少なからず僕の頭は混乱していたが――それよりももっと切実な問題が僕に迫っていた。


(――毒か!)


 足が痺れている。最初は痛みと混同していたからわからなかったが、今は間違えようもない。最初は足先だけだったものが、足首、ふくらはぎと痺れはどんどんと登ってきていて、今は噛まれた左足の膝から下にはまったく力が入らなかった。


「神経毒か、くそっ。回りが有り得ないほど早いな、やっぱり魔物だったか」


 あんな小さな蛇の牙で、分厚いブーツ状の革鎧が貫通されるなど、本来は有り得なかった。きっと魔物の蛇で、牙が鋭かったとかなのだろう。それならば、この異常に強力な毒も納得が行く。

 

 地球上のどんな蛇であれ、噛まれてから数十分は人間は死にはしない。

 落ち着いて血清を投与できれば助かるものがほとんどだ。


(が、体感だと――)

 

 この蛇の毒ならば、数分で死に至ってしまうだろう。


「そうだよな、落ち着け、僕よ。解毒魔法、覚えてるだろ」


 本来はフグなどの毒のある生物を食べるために神様からもらった、特典の水属性魔法。その中の範囲級、治癒ピュリフィケーション。これを唱えれば、解毒が出来る。

 

 急いで詠唱を開始する。僕の両手に、マナが集まっていく。詠唱時間は十秒から二十秒ほどといったところだろうか。


「――あ」


 いつの間にか、先ほど見たつがいの首狩兎の生き残りが、僕のそばにまで近寄ってきていた。赤い瞳と、目が合う。気のせいか、その瞳の赤さが、家族を殺された憤怒の色に見えた。


(詠唱を邪魔されちゃ、適わない)

 

 一対一なら剣術スキルがあるから負けないんだし、剣で追い払って――そこまで考えて、両断した蛇の上半身に剣を投げつけていたことを思い出した。

 その方向を見ると、息絶えた蛇を貫いて剣は地面に刺さっており、手を伸ばしても届かない距離にあった。


 すでに痺れは片足に回りきっていて、一足飛びに剣を引き抜けるとは思えない。

 他に自衛用の武器は何かあるかと思案を巡らせるが、背中に弓を背負っているのみだ。


 これを引き抜いて矢をつがえれば――


「あ」


 首狩兎が、宙を跳んだ。

 普段は前足に収めている、首を刈る刃をむき出しにしながら。


 空中で抑えつけようと手を伸ばすも、それから逃げるようにくるりと宙で首狩兎は身体をひねり――ふわりと、一陣の風が僕のそばを通り過ぎた。


 ひゅばっ、と血が噴いた。僕の頚動脈から出ていく血だった。

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