ヤハウェ 5
生憎の空模様だった。曇天が、首都に雨を降らしている。
傘を差している人は、ごく少数だった。ゆとりがない庶民は、傘を持たない。
雨だと、チキンの売り上げが落ちる。俺は内心で舌打ちした。
「ヤハウェ様、揚げ鳥の運搬に参りました」
「ああ、ご苦労。いま最後の仕上げをしている、椅子にかけて少し待っててくれ」
特典で貰った屋敷は郊外にあって交通の便があまりよくなかったので、街中に作業場を借りた。仮眠室と応接間、台所ぐらいしかない小さな家だ。台所が見えないように鍵をかけられる作りで、冷却石を使った巨大な冷凍庫には鶏肉の備蓄が山ほど入っている。
チキンを補充する時間になると、各店舗のスタッフが商品を取りに来る。
彼らが来てから、台所に引っ込んでチキンをすぐ作り、岡持ちに入れて彼らに渡す。岡持ちの中はトレイが四段入るようになっていて、そのすべてにチキンが山盛りになっていた。
(楽なもんだ)
かちかちに凍った鶏肉だろうと、特典の料理スキルにかかれば一瞬で湯気を上げる揚げたてのチキンに早変わりだ。調理の手間なんて、ほとんどない。
「億劫だけど、視察はしておくか。ベアバルバ、すまないが護衛を頼む」
「かしこまりました」
絹のシャツだけでは雨が染みてしまうので、いかにも貴族然としたあちこち刺繍のあるジャケットを上に着る。紋章の入ったマントまで身に着けると仰々しくなりすぎるので、俺は使わない。
シルクハットに似た、鍔の広い帽子をかぶって、俺は雨振る街を歩き出した。傘は差さない。
ワンコインでビニール傘が買えた日本と違って、こっちの世界だと傘は贅沢品だ。綿や絹を張った傘は、いい値段がする。それに、誰も傘なんて差していないから、やたら目立つ。貴族が従者に持たせて自分の身分を誇示するアイテムなのだ。
そんなものを買うぐらいなら、次の店舗を作る資金に回した方がいい。貴族の服だって、衣装入れの中にあったこれ一着きりしか持っていないのだ。
(視察の仕事も、人を雇ってやらせるべきかな)
チキンを運ぶスタッフが、途中で道草を食って、チキンを冷めさせてはいないか。仕事をサボってはいないか。各店舗の接客の質はきちんと保たれているか。
現在は三店舗しかないので、抜き打ちの視察はすべて俺がやっている。
店が増えてきたら、誰かにやらせた方がいいだろう。
(雨は好きじゃないなあ)
雨宿りをするために、人々は軒先や飲食店の中に姿を消してしまう。通りに人はまばらだ。この分だと、チキンを買うために並ぶ人々も散ってしまうだろう。行列を作る人たち向けの雨除けなど作っていないのだ。
(ん?)
人の気配もまばらな石畳の路地を歩いていると、すぐ横の家で、がらがらがら、という音がした。横目でちらと見れば、二階の窓が開いていた。先ほどの音は、窓を開けた音だろう。
そして、窓の中から、弓を構えた青年が、俺を狙っていた。
(――は?)
ひゅん、と矢が放たれた。一直線に俺に向かってくる。
俺の目の前まで迫ったそれを、何者かの腕が掴み取った。
「あ――ああ、ベアバルバか?」
俺に迫った矢を防いだのは、護衛として雇っているベアバルバだった。
事態の把握が追いついていないので、どこか他人事のように俺は言った。
数瞬遅れて、殺されかけたのだ、という実感がぶわっと湧いてきた。
「やーっ!」
襲撃は、まだ終わっていなかった。あちこちの路地から、抜き身の刃物を持った人が飛び出てくる。数人はいるだろう。半数ほどはまだ子供だった。
「動かないでください」
平素と変わらぬ落ち着いた口調で、ベアバルバは俺に言い残し、地面を蹴った。
現れた襲撃者が俺に近づく暇すら与えず、一人一人のところに一瞬で近づいては腹を拳で強打していく。俺がほんの数回瞬きする間に、ベアバルバはすべての襲撃者を制圧し終えていた。あちこちに、気絶したり腹部を抑えて呻いたりしている襲撃者が転がっている。
「終わりました。矢を射掛けてきた男だけ、逃がしました。護衛の手が空くため、追えませんので」
「すごいな。あっという間だったから、襲われてるって気づく間もなかったよ」
「恐縮です。この者たちに心当たりはありますか? つまり、証でしたかな、それを奪い合う者たちですか?」
「いや、多分違うね。証の争奪戦なら、もっと強い人物が少数精鋭で攻めてくるはずだし」
恐らくだが、カケラロイヤルとは関係のない襲撃だろう。
とすると、疑問が残る。なぜ俺が襲われたのだろうか?
「では、商売を妬んだ者の仕業でしょうな」
「へ? そうなの?」
いくら俺の商売が順調だからといって、果たして人を雇って殺そうとまでするだろうか。確かに俺の店が出来てから売り上げが落ちた飲食店は多いだろうが、数人がかりで殺そうとするほどなのだろうか?
そう、俺の考えを告げてみたところ、ベアバルバは静かに首を振った。
「私見ですが、十分な理由です。食いつめる原因となったあなたさえ殺せば、揚げ鳥の店を潰せると考えたのでしょう」
「なんだそりゃ。資本主義に反してる」
いくら儲けてる店があるからって、暴力でそれを潰そうとする行為がまかり通るようでは、誰も稼ごうとしなくなるだろう。商売で戦おうとするのが健全な社会というものではないのか?
「一人二人ならばともかく、十人近い襲撃でしたので、計画的なものでしょうな。おそらく裏路地の連中でしょう。ほとんど情報も持ってないでしょうな。どうされますか?」
「どうされますか、って?」
むしろこちらが聞きたい。地面に寝転がって呻いている彼らを、一体どうすればいいのだ。
「念のため、拷問にかけますか、という意味です。指示を出していたまとめ役と、逃げた弓矢の男の名前ぐらいは聞きだせるかと。どちらにせよ下っ端でしょうが」
「それはいいや。むごいことは好きじゃない」
倒れ伏している人々の中には、子供も混ざっていた。いくら人を殺そうとしたとはいえ、彼らに拷問をかけるというのは人道的にどうかと思う。
とはいえ、商売敵を闇討ちしようなどとは許しがたい暴挙である。
なんのお咎めもなしというわけにもいくまい。
「では、そのまま放してしまってよろしいですね?」
「そうだな――いや、衛兵がそのあたりにいるだろう。そいつらに引き渡そうか」
俺がそう言った途端、腹をおさえてうずくまっていた子供の一人が、落ちていた剣を拾って立ち上がった。覚束ない足取りだったが、俺に向かって突進してくる。
ベアバルバがいるから、そんな攻撃が俺に届くわけがないと鼻で笑ったのも束の間で、その子供の目を見て、俺はぞっとした。憎しみに満ちた、鬼気迫る表情。
「お前のせいで――!!」
腹を殴られたせいか、唾液でべたべたに汚れている口で吼えながら、子供は刃物を握りながら躍りかかってきた。思わず、俺は後ずさってしまう。
難なくベアバルバが俺の前に立ちふさがり、子供の腹をもう一度殴って気絶させたが、俺の心臓はまだばくばく言っていた。
(お兄ちゃん、回りのお店の人たちから恨まれてるみたい――)
なぜか、ヤハウェ君の顔が脳裏に浮かんだ。そういえば彼は、俺に忠告してくれていた。こういう事態を予測していたのだろうか?
「私としては、彼らをこのまま放したほうが、会話の余地が残されるので良いかと思います。彼らを見逃してはどうでしょうか?」
淡々と提案を口にするベアバルバに、俺は首を横に振って見せた。
「ちゃんと衛兵に引き渡そう。いくら子供とはいえ、他人を殺そうとしてお咎めなしだって知れたら、真似して俺を襲うやつがどんどん増えていくだろうしね」
「――そこまで仰るのでしたら」
無表情ではあるが、どこか渋い顔をしながらベアバルバは頷いた。
騒ぎを聞きつけたのか、近くまで走り寄ってきた衛兵に、事情を説明し始める。
「守護隊のベアバルバだ。連れているコンスタンティ家のご子息が襲われた。そのあたりで転がっているのは、全員襲撃者だ。引き渡したい」
「コンスタンティ家の――かしこまりました。子供も混ざっておりますが、連れていってよろしいのですね?」
「ああ。嫌な仕事をさせる。すまんな」
「いえ。お察しします」
手短なやり取りを済ませると、衛兵は懐から小さな笛を取り出した。ピィーッと甲高い音が鳴ると、あちこちから鋲革鎧を着込んだ衛兵が走り寄ってくる。
「じゃ、行こうか」
衛兵たちに襲撃の後処理を任せ、俺は歩き出した。
手馴れた衛兵たちのようだから、適度に子供たちを叱責しつつ、一晩ブタ箱に入れてから解放するなど、まあ程よく痛い目を見せてくれるはずだ。
これを機に改心して、人を襲ったりしない子供に成長してくれればいいのだが。
「うん、店の様子は順調、問題なし、と」
三ヶ所の店舗を抜き打ちで見回り終わった後は、俺はうんと伸びをした。
家を出てから、なんだかんだで二時間ほど経ってしまっている。
「さて、作業場に戻るか」
チキンの補充は、二時間ごとだ。
視察に出かける前に作ったチキンが、そろそろ売り切れてしまう頃合である。
毎日二時間ごとのチキンの補充、早朝の魔物狩り、同盟の会合。
盟主は、激務である。カケラロイヤルを勝ち抜くためにはやらなければならないことだった。
「次のチキンを作り終わったら、どうだ、ベアバルバ。一杯飲むか?」
普段ならば、短くなりがちな睡眠時間を補うために、暇を見繕って昼寝をする。
しかし、ここらでベアバルバと交流を持っておくのもいいかもしれないと思ったのだ。部下とコミュニケーションを持って働きやすい職場環境を作るのも上司の役目であろう。
先ほどの襲撃の一件からもわかる通り、ベアバルバは非常に優秀な護衛だ。
彼のモチベーションが下がりすぎないよう、少し酒の力を借りるのも悪くない。
(キョーシャ君だって飲んでるんだしな)
なんでも、キョーシャ君は最近になって酒の味を覚えたらしく、この世界に来てから知り合った友人と連日酒盛りをしているらしいのだ。
未成年、しかも十二歳の飲酒は身体に悪いのではないかと思うのだが、毒耐性があるから大丈夫だと言われてしまってはそれ以上止めるわけにもいかない。
それに、正直なところ、俺も酒には興味がある。
前世でもビールの一杯ぐらいは飲んだことがあるが、いかんせん十六歳で未成年だったため、酔っ払うまでは飲めなかった。こちらの世界では特に飲酒年齢の制限はないので、ちょっと飲んでみたい。ベアバルバを誘ったのは、いわばだしに使った形で、本当は自分が飲みたかったのである。
「いえ、遠慮しておきます。今日はそんな気分ではありませんので」
しかし、あっさりと断られてしまった。ノリの悪い護衛である。
彼の立場からしてみれば、酒を入れてしまうと護衛に差し支えるとでも思っているのだろうが、もう少し融通が利いてもよさそうなものだ。
「ん――? 広場が騒がしいな。何か催し物でもあるのか?」
首都の中ほどにある作業場へと歩く道すがら、とある広場に人だかりができていた。街に多くある、太い道が交差する十字路の中心である。屋台広場のような何もない広大な空間はむしろ稀で、広場といえば普通はこの十字路の中央部分のことを指した。
「見物なさるのですか? 止めは致しませんが、民衆の反感を買いますぞ?」
「なんで、俺が見に行ったら反感を買うんだ?」
ベアバルバの制止が、いまいちピンと来なかったので、俺は足を緩めなかった。
群衆に近づき、人々の頭ごしに、広場の中央に何があるのかを覗き込む。
「え?」
生首。
生首が六つ、木の板のようなものに乗せられて、広場の中央で晒されていた。
胴体はすでに片付けられていたが、処刑自体は同じ広場で行われたらしく、石畳の地面がうっすらと血で染まっていた。水で洗い流されてはいるようだが、色が落ちきっていない。
遅ればせながら、血の臭いを鼻が感じ取る。
「え、あ、なんで?」
六名の半分ほどは、まだ子供だった。そして、見覚えがあった。
ほんの二、三時間ほど前に、俺を襲ってきた連中だった。
それが、首になっていた。
「貴族様を襲ったらしい――」
「ああ、揚げ鳥の店のやつか。派手に稼いでたから、恨まれてたんだろうな――」
「それで、失敗してとっ捕まったのか。救われねえなあ――」
「それにしても、むごいもんだよ。まだ子供じゃないか――」
「しょうがねえよ、一般人の喧嘩とは訳が違う――」
「貴族が襲われたとなりゃあ、一族皆殺しと決まってるからなあ――」
群集がひそひそと話す声が、耳を通りぬけていく。
「あっ、うあ――」
恨み、苦しみ、憎悪、殺意、絶望、悲しみ――物言わぬはずの顔が、これほどまでに情感を表せるものなのだろうか。
刃物を持って俺に斬りかかってきた、憎しみに満ちた子供の目を思い出す。あの瞳は今、晒し台の上にあり、変わらぬ視線を俺に送ってきていた。
(ひっ――)
どん、と背中が何かにぶつかった。慌てて振り向けば、ベアバルバの顔があった。自分でも気づかぬうちに、俺は後ずさっていたらしい。ベアバルバの視線は、冷ややかだった。
「お前、これを知って――?」
「ん、ええ。今回の場合は守護隊に所属している私が事件の目撃者でしたし、おそらくあの者どもも罪を認めたのでしょうな。刑の執行は早期に行われると思っておりました。処刑には良く使われる広場ですし、ちょうど群集ができているならば、まず先ほどの者どもの処刑であろうと」
そういうことではない、子供たちが殺されることを知っていたのか、と聞き返そうとして、俺は口を噤んだ。
ベアバルバは散々、俺に忠告していたではないか。「本当に憲兵に引き渡すのか」と。
会話の余地が残されるので、解放した方がいいのではないかとも彼は言った。ベアバルバにしては珍しく、二度も見逃した方がいいと念を押した。それを俺は押し切ったのだ。
(ということは、彼らを殺すと決めたのは、俺、ということか?)
いや、そんなはずはない。子供たちが死ぬとわかっていたら、俺はそんな指示は出さなかった。つまり、俺は悪くない。悪気はなかったのだから、俺に責任はないはずだ。
しかし、物言わぬ生首は、じっと俺を見つめているような気がしてならなかった。
「おい、あれ――」
「ん――ああ、貴族様――ってことは、あれが例の――」
「俺、顔を見たことがある。あの揚げ鳥の店にいたところを見た――」
群集の一人が俺に気づき、その人物は隣人の袖を引き――刻、一刻と俺に向けられる視線の数は多くなる。
(ひっ――)
白眼。群集が俺に向ける瞳の数は、どんどんと増えていく。
もちろん好意的なものではない。初めは点であった瞳は、やがて面になり、そして壁となって俺の前に立ちふさがる。
俺は踵を返して走り出した。駆けた。
物言わぬ生首の瞳と、人々から向けられる錐のような視線から逃げるために。
「ん――ああ、寝ちゃったのか」
むくりと身体を起こすと、もう部屋は暗かった。うすく開け放たれた窓からは、月光も差し込んでこない。闇に眼が慣れてはいたが、それでもかなり暗かった。夜なのだ。
「あれは――夢じゃない、よな」
今日の昼間にあったことを思い出す。六つの生首。紛れもない現実だ。むしろ夢であってくれたらどれだけ良かったことだろう。
記憶が定かではないが、あの広場から俺は逃げ出すように走り帰ってきて、屋敷の自室でベッドに潜りこんでしまったらしい。
(いや、秀也、よく考えろ。先に手を出してきたのはあっちじゃないか)
時間が経って落ち着けたからか、俺の頭は冷静さと冴えを取り戻していた。
俺は何も悪いことをしていない。
商売だって、法に則ったちゃんとしたものだ。正々堂々と俺は商売をして儲けていた。それを妬んで、闇討ちを仕掛けてきたのはあっちの方だ。
貴族を襲ったものは、処刑。その法律を俺は知らなかったので、子供たちを衛兵に突き出した。なるほど、確かにベアバルバが忠告してくれていたし、そもそも俺がこの世界の法を勉強していれば子供たちを助けることはできたかもしれない。いくら俺を襲ってきたとはいえ、大人ならともかく子供たちまで返り討ちにしてやろうとまでは思っていなかったのだから。
しかし、俺は不勉強にもこの世界の法に疎かったため、子供たちは罪を裁かれることになり、処刑された。
ただ、それだけのことだった。
(俺が殺したわけじゃないしな)
俺は子供たちを救おうと思えば救える立場だったというだけで、子供たちが罪を犯したのは事実なのだ。民衆だって、貴族に手を出したなら処刑されても仕方ないといった論調で話し合っていたではないか。
つまりだ。
俺は悪いことをしたわけではない。むしろ被害者だ。
犯罪者が裁かれた、それだけのことではないか。温情を示せる立場にはいたが、示さなかっただけだ。
(死体なんか、そうそう見るもんじゃないから、動転しちゃったな)
子供たちが処刑された広場から逃げ出してしまったのも、死体を見てパニックになったせいだろう。よくよく考えたら、俺に後ろめたいことなど何一つないのだ。
(あの目――)
恨みがましい、俺がすべて悪いんだと言わんばかりの瞳。
そんな目で俺を睨むのはお門違いだ。俺は真っ当な商売人で、お前たちは犯罪者だ。悪いのはお前たちであって俺じゃない。
「うん、すっきりした」
本当はもやもやが残っていたが、あえて言葉に出してみた。
気持ちを切り替えていこう。もう、あれは済んだことだ。いつまでも気に病んでいてもしょうがない。
「お目覚めですか?」
こんこんと、自室の扉がノックされた。ベアバルバの声だ。
俺が走り帰ってきてから今まで、隣室で俺の護衛を続けていてくれたのだろう。
「ああ、心配をかけた。もう大丈夫だ、落ち着いた」
「そうですか。ソアラ・モチヅキ嬢が面会にやってきました。お通ししますか?」
「こんな時間にか? まあいい、呼んでくれ」
窓の外は暗い。俺はどれほど眠っていたのだろう。
処刑が行われた広場に俺が行ったのは昼の二時ぐらいだったはずだから、深夜になるまで眠っていたとは思えないし、今は晩飯時というところだろうか?
室内のランプにはめ込まれた作光石のスイッチを入れる。ぱっと部屋は明るくなった。服装は外出時のままで、貴族の服だった。着替えなくてもいいだろう。
「こんばんは。夜分遅くにごめんなさい」
室内に招き入れられたソアラ嬢は、旅装だった。
背嚢というのだろうか、大きな革袋をランドセルのように背負っている。今は顔を隠していないが、フードのついた作業用の茶色いローブを着込んでいて、がっちりした革のブーツを履いていた。
「どうしました? なんだか、気合の入った服装ですけれど」
言うと、ソアラ嬢はうっすらと微笑んだ。
その表情を見て、一瞬、背筋がぞくりとした。なぜだろう?
「今日は、お別れを言いに来ました」
「お別れ? どういうことです?」
「ライオットの好意に甘えて色々してもらってたんですけど、心苦しくなってきて。そろそろ彼の元を離れて、一人で暮らしてみようかなって。だから、しばらくこの街を離れようと思ってます。色々な街を巡る旅をする予定です」
「なんですって――いや、そうですか。困りましたね」
それは困る。
テツオを同盟に引き込めなかった上にソアラ嬢までいなくなってしまっては、同盟の規模が小さくなりすぎてしまう。是が非でも引き留めなくてはならない。
「えっと、それでですね。あれに関係のあることを話し合いたいんですけど、ベアバルバさんに聞かれないように人払いをしてくれませんか?」
あれというのは、転生者とカケラロイヤルに関わることだろう。
確かに、ベアバルバには聞かれない方がいい。
「ベアバルバ、すまないが少し席を外してくれ」
「かしこまりました。お屋敷の外で待機しております。ヤハウェ様がお呼びになるまで、護衛の任は果たせなくなりますので、ご了承下さい」
「ソアラ嬢もいるから、大丈夫さ。こう見えて、彼女は結構強いんだ」
「そう仰るなら、私は構いません。では」
ベアバルバの言葉には、少し棘があるような気がした。
彼の忠告に従わず、子供たちを衛兵に突き出したのを根に持っているのかもしれない。
「さて、人払いは済みました。転生に関することというのはわかりましたが、一体どんな話なんです?」
「忍者ルンヌの、他の転生者を襲うかどうかの基準についてです」
「おお――何か、仮説を考えついたのですか? ぜひ、聞かせて頂きたい」
忍者ルンヌが、無差別に転生者を襲って回っているのではないというのは、同盟内では共通した認識だ。現に、かなり顔が売れているはずの俺や、俺と同じぐらいレベルの低いキョーシャ君は襲われていない。
転生者なら誰でも襲うというのであれば、俺とキョーシャ君はとても狙いやすい相手のはずだ。
「私ね、転生者が特典で与えられた力で、この世界の人々を虐げるのが嫌いなんです」
そう語るソアラ嬢は、相変わらず微笑んだままだ。
しかし、なぜ自分語りが始まるのだろう。忍者ルンヌの襲撃基準の話ではなかったのか?
「例えば、ヤハウェさんが使っている、料理スキル。それは、神様がくれた力です。自分が努力して手に入れた力ではなく、他人から貰った力。それを使って、凄く美味しい料理を作って安く売る――そうすると、ヤハウェさんがいなければ商売が順調だった、屋台の人たちの売り上げが減ってしまいますね?」
なんだか、雲行きがおかしくなってきた。なぜか、俺が責められているのだ。
「ドラえも――固有名詞はやめときますね、とある漫画に出てくるひみつ道具に、チリつもらせ機というものがあるんです。日本にいる一億人から、一円だけずつ頂いてきて、自分の手元に一億円を作る、みたいな道具です。その善悪を論じる、みたいな回だったと記憶しているのですが――まあ、それと似たようなものです」
ソアラ嬢の目は、俺を見ているようで、見ていない。
「他人から貰った借り物の力で、真っ当に生きている現地の人々を搾取する。これは、悪いことです。例えば電気なんかの、将来どこかの偉人が考え付いたであろう発明品を、あたかも自分が発明したかのように先取りする、これも悪いことです。将来の偉人が得るはずだった功績を奪い取っているわけですからね」
私は頭があまり良くないので、ちゃんと言いたいことが伝えられてるかどうかわかりませんけど、とソアラ嬢は頬を掻いた。
「つまり――特典の類で、現地住民の害になるようなことをする。これが、私の中で、有罪か無罪かを分ける境界線です」
ここまで言われたら、さすがの俺も、うすうす気づく。
もしかして――ソアラ嬢は、こう言いたいのだろうか。自分が忍者ルンヌだと。
「ほとんど誰にも迷惑をかけずにこの世界で生きている転生者なら、見逃してもいいかなと思ってます。魔物を狩ったり、特典スキルを使って自分のために家を作ったり。厳密に言えば、それも許すべきではないでしょうけど、転生者だって、いきなり見ず知らずの世界に放り込まれた以上、ある程度は力を使わないと生きていけませんし」
そこで、ソアラ嬢は少し悲しそうな顔をした。
「何もなければ、私は特典で貰ったスキルやお金を一切使わず、平穏にこの世界で生きていたかった。私欲のために、現地の人々を食い者にする転生者が現れなければいいと願っていた。でも、そうはならなかった。転生者を殺すためには、私も特典を使わざるを得なかった。私の手は、汚れた」
人の血で汚れたのではなく、特典を使ったから汚れたのだ、とソアラ嬢――いや、忍者ルンヌは言った。いつの間にか、彼女の手には、抜き身の短剣が握られていた。作光石の明かりを受けて、きらりと光る。
「汗水垂らして、働いて、お金を得て、生きていく。素晴らしいことです。人間とはそうであるべきだ。だからこそ、私は、他人から貰った力で、真っ当に生きている人間を食い物にする転生者を許さない」
それまで、微動だにせず立っていた忍者ルンヌは、ゆっくりと歩き出した。
俺の方へ、近づいてくる。
(あれ――彼女が忍者ルンヌだったってことは)
狙われているのは、ひょっとして、俺なのか?
そう気づいた瞬間、ぶわっと全身に汗が噴き出してきた。
今までまるで感じていなかった、死の予感が、俺を焦らせる。
(護衛――そう、護衛は!)
そこまで考えて、俺は脳裏を絶望が覆っていくのを感じた。
彼女がいるから護衛はいらないといって、ベアバルバを遠ざけたのは俺だ。
「有罪」
ふっと、忍者ルンヌの姿がかき消えた。
次の瞬間には、何か冷たくて熱いものが、俺の胸のあたりから体内へ押し込まれているのを感じた。
俺の胸がどうなっているのかを知るべく視線を下げたが、忍者ルンヌの頭に遮られて自分の身体が見えない。彼女の髪からは、いい匂いがした。女性の匂いだ。
気づいたら、俺は膝を付いていた。力が全身から抜けていく。
「最初に言った通り、今日はお別れに来たんだ。さようなら、ヤハウェさん」
ずぼりと、俺の胸から何かが抜かれたのがわかった。
視界は真っ暗で、もう何も見えなかった。




