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関兵太 4

「はーっ、はーっ、ぜーっ、ぜーっ」


 深い山中に、俺の息遣いが響いている。グロッキー寸前の、荒い息だ。

 俺の後ろからもはあはあと息遣いが聞こえてくるが、俺よりはかなり余裕がありそうだ。


「貴様ら、早くしないと置いていくぞ――思いつきで言ってみたが、良い案かもしれんな。貴様らが地理感覚を身に付けていれば帰って来られるだろうからな」


(誰か、帰り道覚えてるか?)


(ううん、覚えてない。ニーナは? ダメか) 


 背後から、フェルペスたちが相談するひそひそ声が聞こえてくる。

 俺に道を覚えているか聞いてこない彼らは正しい。俺にそんな余裕はない。


「みず、くれ」


 ウィスキーボトルみたいな鉄缶がすぐに差し出される。

 兜の面頬を上げ、一気飲みした。呼吸は苦しいが、悠長に立ち止まって飲んでいる暇はない。

 

 もう、ナーヴ教官の姿は見えなくなりかけている。


(足りねえ)


 水をいくら飲んでも、身体は水分を欲したままだ。汗をかきすぎたのだ。

 板金鎧の下に着ている布鎧は、汗を吸い込んでびちゃびちゃだ。

  

 それでも、走った。

 舗装されていない、踏み固められただけの山道を、黙々と走る。

 たまに木の根に足を取られる。可動域の少ない金属の足甲は、スポーツシューズなどと違って転びやすい。


 すぐに起き上がる。合計三十キロはある全身鎧は、起き上がる際に膝に半端ない負担をかけるが、心を折っている暇はない。ナーヴ教官の後ろ姿を見失わないように、走り続ける。

 

(きついなあ)


 もうどれぐらい走ったかわからず、頭はぼうっとしてきていた。

 余計なことを考えている余裕はない。ただ、黙々と走るだけだ。


 心を無にして、走る。高校生時代に体育の授業でやったマラソンを思い出せ。

 すっすっはっはっすっすっはっはっ。


(面頬、邪魔だな)


 兜の中は、ほとんど密閉空間だ。

 呼吸穴となる縦線が歯のように空いているが、その穴だけでは満足な呼吸をするための空気が吸えない。常に酸欠状態を強いられているようなものだ。


 面頬を上げないのは、ナーヴ教官にそう言われているからだ。

 いわく、奇襲で矢などを射かけられたら即死するから、移動の際に面頬を上げてはならないのだとか。


「ふむ、ここらで限界か。貴様ら、休んでいいぞ」


 どれほど走ったかもうわからなくなった頃、ナーヴ教官はそう告げた。

 その言葉を聞いた瞬間、俺の緊張の糸は切れ、その場に膝を折った。仰向けに寝転がり、木々の葉っぱ越しに青空を仰ぎながら息を整える。


「教官、ヒョウタの鎧を外しても良いでありますか!」


「好きにしろ」


 フェルペスたちが、寄ってたかって俺の鎧を外そうとしてくれた。

 起き上がるのも億劫だったが、何とか上半身だけは起こす。


 もわっ、と視界が煙った。

 兜を外された俺の頭が、外気に当たって湯気を発しているのだ。 

 

「天国だわー」


 篭手、腕甲、胴、足甲、脚――フェルペスとカーターが俺の鎧を片っ端から脱がせていく中、ニーナは俺に作風の魔法を浴びせかけてくれた。超涼しい。


 手渡された鉄缶入りの水をごぶごぶと飲む。

 ニーナは空になった鉄缶を受け取り、背負った袋から水入れの革袋を取り出して新たな水を詰めていた。


「では休憩終わり、座学に入る。椅子はないからそのあたりの地面に座ったままでいい。このあたりが大体どのあたりかわかる者はいるか」


「首都から東に七、八キロ、北に二キロほど寄ったところだと思います」


 カーターが挙手して述べた。

 俺は走るのに精一杯だったので覚えていない。フェルペスとニーナも、わからないようだ。 

 無理もなかった。真っすぐ一本道を走ってきたわけではなく、山中の移動だったのであちこち方角も変わる。  


「ヒョウタは仕方ないとして――他の二人も覚えていないか。減点だな。魔物との戦闘でカーターが脱落したとする。撤退したいがどの方向に帰れば良いかわからない。そうなったときに、間違えてより奥地へと進んでしまえば全滅するだろう。近辺の山の形を覚えておき、現時点での標高、太陽の位置などを見て、いつでも自分たちの現在地を確認できるようにしておけ」


(ヤバい)


 ナーヴ教官の話は始まったばかりだというのに、身体が冷えてきた。

 走り終えた直後は暑かったが、汗を吸い込んでぐっちょぐちょになった布鎧クロースアーマーが、外気に当たって冷却され、俺の体温を少しずつ奪っていく。


 のみならず、汗をかきまくって走っていた最中に水をがぶがぶ飲んだ弊害か、今になって若干の尿意が出てきた。真面目な話の最中、便所行っていいですかなどと言い出した日には、間違いなく嫌味を言われるだろう。


「それと、全員の体力を把握しておくことも重要だ。今日はヒョウタを限界まで走らせたが、無論のこと、疲れ切っている状態で戦闘などできん。どれくらい走らせたらまともに動けなくなるか、小隊員の体力まで計算に入れた上で小隊長は進退の指示を出さなきゃならん。貴様らには最大限の成果が求められるが――それは効率良く魔物を狩れということであって、無謀な進撃をしろということではない。教育にもそれなりの金がかかる。貴様らは、それなりに代えの効かん兵士だ。生存を重視しろ。それとだ――」


「ナーヴ教官、お話の最中申し訳ありません! 便所に行きたくあります!」  


 無理だった。尿意、我慢しきれない。

 俺はずびっと挙手しながら叫ぶように言った。みるみるナーヴ教官の眉間に皺が寄る。


「駄目だ、そこで漏らせ」


 にべもなかった。

 嫌味を言われるぐらいは想定していたが、まさか便所に行くこと自体を拒否されるのは予想外だ。


「貴様は魔物との戦闘中に便意を催したら、小隊員を残してその場を離れるのか?

悠長に鎧を脱いで用を足すまで、魔物が待ってくれると思っているのか? 尿だろうが糞だろうが垂れ流せ」


 ナーヴ教官に、久しぶりに殺意を抱いた。

 ここのところ、嫌味を受け流せるようになってきて、殺意を抑えていられるようになってきたのだが――排泄は人間の尊厳に関わる行為である。

 しかも、ニーナの前だ。尿といえど、その場で垂れ流すなどできるわけがない。


「そこの馬鹿が寝小便をする子供みたいに情けなく漏らしたら、ニーナ、貴様が洗ってやれ。近くに小川があったはずだからな」


 俺が漏らすことが前提で、しかもわざわざニーナを指名してそれを洗わせようとする。そのナーヴ教官の言葉に、俺はピンと来た。


 これはあれだ、先日フェルペスから釘を刺された、軍に男女差を持ち込むなというアレの一環だ。俺がそれを理解し、実践できるかどうかを、ニーナの前で放尿させて確かめてやろうとナーヴ教官が思っているのだ。


 それがわかったからといって――恥ずかしさを我慢できるかどうかは別の話だ。

 尿意はそろそろ限界だ。このままでは、まず間違いなく漏らす。

 漏らしてしまえば、布鎧は脱がざるを得ない。ナーヴ教官のことだ、まず間違いなく宣言通り、布鎧をニーナに洗わせようとするだろうから。


 着替えなど持ってきているわけはないので、その間、俺は下半身丸出しになってしまう。ニーナの前で股間のモノをぶらぶらさせながら座学を受けろとナーヴ教官なら言うに違いない。


(ヤバい、そろそろ――)


 出ちまう。尿が。

 ニーナの前で、尿を漏らしてしまう。情けない姿を、ニーナに見られてしまう。しかも、それをニーナに洗われるのだ。恥ずかしさと情けなさで俺は死んでしまうかもしれない。


 あ、ヤバい。もう出ちまう――


「ナーヴ教官、失礼するであります!」


 俺の頭が真っ白になりかけたそのときだった。

 俺の右に座っていたフェルペスがやおら立ち上がるなり、着ていた革鎧の留め具を外し、腰部分の鎧と下着もろとも一気にずり下げた。


 引き締まったフェルペスのケツが目に眩しい。

 

「ふんぬああああああ!!」


 下半身丸出しのまま叫び声を上げつつ、フェルペスは堂々とナーヴ教官の座っている方向へ向けて放尿しだした。そのしぶきがかかる前に、ナーヴ教官は背後に跳んで逃げ出している。


(ああ、そういうことか――)


 俺は心の中で、フェルペスに感謝した。

 一緒にやってやる(・・・・・・・・)とフェルペスは言っているのだ。


「自分も、失礼するであります!」


 俺もそう叫び、布鎧をずり下げて下半身をぼろんと出した。

 横目でちらとニーナの様子を窺ったが、目を瞑ってくれていた。

 ありがとうニーナ。


 じょぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ。


 ひどく間の抜けた数十秒間が過ぎ去った後、俺とフェルペスはすっきりした表情で下着を履いた。


「ふう」


 何かをやり遂げたような、とてもすっきりした気分だった。物理的に。


「あ、終わった?」

 

 音がしなくなったのでもういいと思ったのか、ニーナがぱちくりと目を開いた。

 特に赤面したりもしていないのが有り難かった。仲間というのはいいものだ。


「ナーヴ教官、二人とも漏らしてないですけど、洗濯した方がいいでありますか!」

 

 挙手しながらニーナはナーヴ教官に問いかけた。

 どうせ、苦虫を噛み潰したような顔をしているのだろうと思ったら――予想に反して、ナーヴ教官は笑っていた。

 唇の片方だけを上げて皮肉げに笑う、いつもの笑みではあったが、それでもどこか嬉しそうだ。


「そうだな、小便垂れどもを全裸にさせて貴様に洗わせるというのも面白いが――

私もこれ以上、見苦しい貴様らの局部など目にしたくない。座学の続きをやるぞ」


 微笑みながら、ナーヴ教官は中断された話の続きを始めた。

 意外と嬉しそうな顔をしていたのは、「ようやく貴様らもわかってきたか」とでも内心思っていたのだろうか。 


 俺はというと、フェルペスに深い感謝と、そして友情を感じていた。

 見苦しい様を見せずに済んだのは、フェルペスのおかげだった。


 小隊員同士、苦しいときは助け合えというナーヴ教官の言葉の意味が、ようやく本当の意味でわかった気がする。お返しというわけではないが、もしフェルペスに敵が迫ってきていたら、俺は何の躊躇いもなく彼を助けに割り込んでいくだろう。

 

 そういう、ある意味では当たり前のやり取りの重なりこそが、連帯であり、連携というものなのかもしれない。自分の都合よりも小隊のことを優先するということ――その言葉の意味をいま初めて、すんなりと受け入れることができた。 


 ナーヴ教官の座学が続いている中、俺は言葉にできない、妙にじんわりとあたたかいものが、胸の内を満たしていくのを感じていた。













「うひょーっ」


 天井に通された金属のパイプから、ちょうど良い温度の湯がざばあと降り注ぐ。 

 全身の汚れが、洗い流されていく感覚。 


 訓練で汗をかきまくった日のシャワー浴は、最高だ。


「たまらんなあ!」


 わっしゃわっしゃと頭を洗いながら叫んでいるのは、フェルペスだ。

 仕切りなんぞないので、全裸の男たちが横一列に並んでシャワーを浴びるという誰得な光景である。


「ヒョウタは明日はどうするんだ? また行くなら連れてってやるけどよ」


「確かに気持ちよくはあったけどさ。こんなもんかって感じかな。毎週の休みを

心待ちにしてまで行くほどじゃない感じ」


「ほう? 未経験で一度行くと、病み付きになったり娼婦あいかたに情を移したりするやつが結構いるもんだけどな。ヒョウタはそうでもなかったか」


「なになに、二人とも何の話?」


 身体を流しながら語る俺たちの会話に、カーターが混ざってくる。

 身長が低く童顔であるために実年齢より幼く見えがちなカーターであるが、もう十七歳だったはずなので、俺たちの会話に混ざる権利はあるだろう。


「娼館だよ。先週、フェルペスに連れてってもらってな」


「カーターも連れてってやろうか? お前ならきっと店員にもてるぜ」


 うん、ありそうなことだ。カーターの童顔ショタ顔は、ちょいと年のいった姉さん方の好物であろう。線の細いカーターがわしわしと身体を洗っている様を見ていると、お姉さんが歓喜して上に圧し掛かる図が容易に想像できてしまう。


「ぼ、ぼぼ僕はいいよ。病気とか怖いもん」


「なんだよ、ビビってんのか? まあヒョウタと違って無理してないならいいんだけどさ」


「そういえばフェルペス、無理するで思い出したんだが」


「ん?」


 俺はさらっと言うことにした。隠すことでもあるまい。


「俺やっぱ、ニーナのこと好きだわ。今もニーナとやりたくてしょうがないもん」


「ガチな方だったか。苦労するなあヒョウタも」 


 俺の言葉を受けて、あちゃーとフェルペスは天を仰いだ。

 苦労するなあという言葉はそこそこ深い。これから長いこと四人で小隊を組むのだから、手を出せないニーナがずっとそばにいるというのは精神的に苦しいものがあるだろう、という意味だ。


 軍の規則を破ってまで俺がニーナに手を出さないだろうと信頼されているという意味でもある。


「まあ、軍抜けてでも付いてこうってニーナに思わせたらヒョウタの勝ちだな。そこらへんは男と女の勝負か」


「そこまで考えてなかったけど――そっか、成り行き次第じゃそういうのも有り得るのか」


「案外、先に気持ちを伝えておいた方がいいかもな。ニーナの性格からすると、意識させない限り進展しそうにもないし」


「考えとくよ。任務に支障が出なさそうだって判断できたらね」


 身体を拭き、フードのない一枚布のローブを着て、俺たちは浴場の更衣室から出る。トーガではなくローブを着る理由は、出動命令が下ったときにすぐ脱げるようにだ。トーガは、あれはあれで布の巻きつけ方に順序があったりして色々と面倒なのである。


「――お?」


 フェルペス、カーターの二人と連れ立って廊下を歩いていると、先頭を行くフェルペスが何事かを見つけ、立ち止まった。


「珍しいもん見つけた。ちょっと乗り込もうぜ」


「お? おお――あれは、そうか。了解した」


 フェルペスと俺は、げーへっへっへと謎の笑い声を発しながら、廊下の隅にある談話机へと突撃した。机に酒樽やつまみを広げながら差し向かいで飲んでいたのは、ナーヴとベアバルバ、両教官であった。


「なんだ、貴様らか」


 カーターに似て線の細いナーヴ教官は、すでに酒が回っているのか少し頬が赤かった。ちらと横目で俺たちを睨む視線も、昼間とは打って変わって鋭さに欠け、少しとろんとしている。


「はっ! 我々も補給物資の分配を受けたくあります!」


 左手で右腕の上腕二頭筋のあたりを抑える軍の正式礼をしつつ、しゃあしゃあと酒をねだるフェルペスに、俺は笑いをこぼした。


「帰れと言いたいところだが――貴様らの話が肴になっていてな。せっかくだ、混ぜてやろう。そのあたりの椅子に詰めて座れ」


 ひゃっほう、と歓声を上げながら俺たちはどかどかと椅子に座る。

 

「って――酒の肴?」


「聞いたぞ、ヒョウタ。ずいぶんしごかれてるみたいじゃないか」


 ナーヴ教官と違って酒には強いのか、常と変わらぬ顔色のベアバルバが酒樽を差し出してくる。一礼して受け取った。


「そうですね、可愛がられております」


「おう、神妙だがふてぶてしい。少し見ないうちに、まともな兵の顔になってやがる。ナー坊、お前もちゃんと指導できるようになったんだなあ」


「ヒョウタは我が強いので、牙を抜かないように躾けるのは、結構大変でしたよ。それよりもベア先輩、下の見てる前でナー坊はやめて頂きたい」


(ナーヴとベアバルバ教官って、同期じゃなかったのか)


 二人のレベルは1400と1600ほどなので、ほとんど同時期に軍に入ったものだと思っていた。


「厳しい訓練は守護隊の伝統でな、嫌われない訓練教官は失格なんだ――どうだヒョウタ、ナーヴは嫌なヤツだったか?」 


 率直に言うべきか迷ったが、言ってしまうことにした。酒の席だしよかろう。


「はっ、通算で百回はブチ殺してやろうかと思う程度には嫌な教官でありました」


 だっはっはっは、と豪快に笑いながら俺の肩をばんばんとベアバルバは叩いた。レベル差があるせいでとても痛い。酔ってるようには見えないのだが、力加減が狂ってないか。


「まあ、訓練教官がナー坊で良かったと思えよ。俺たちはペズン隊長が訓練教官だった頃の入隊でな、今よりよっぽど訓練はキツかった。あの人と比べれば、ナー坊はまだまだ手温い」


「今よりも、でありますか?」


 それなりに厳しい訓練を受けていると自分では思っていたので、ベアバルバの一言は意外だった。歴代で最も嫌な教官に当たったんじゃないかと考えていたぐらいなのだ。


「ペズン教官――おっと、ペズン隊長の場合、徹底的な罵詈雑言と体罰で、何も考えられなくなるまで苛め抜いてから規律を叩き込むからなあ。まだ心を折らないよう適当に手を抜いてくれるナー坊は優しいもんだ」


「ベア先輩、酒の味がマズくなるからやめません? 当時の訓練の話になると、どうしたって先輩の足の裏の味、思い出してしまうもので」


「ああ、俺のを舐めさせられたアレか。馬のケツ舐めさせられた俺とどっちがマシかなあ」


 俺はぞっとした。軍のシゴきは厳しいものだと頭では分かっていたが――実際にそんなことをやらされたらと考えると、冷や汗が出る。


 話を盛っているのではないかとも一瞬考えたが、両教官が浮かべている何とも言えない苦い表情からすると、事実なのだろう。


「やめましょう。あまり思い出したいものでもないでしょう? せっかくベア先輩を送る会なのに」


「送る会――? ベアバルバ教官、どこかに行かれるのでありますか?」 


「長いこと軍にいると、貴族と色々なしがらみというか、付き合いもできてな。断りにくい頼みが回ってきたんで、少し軍を離れることになった。戻ってくるかどうかはわからん」


「そういったこともあるのですね」


 貴族に頼まれて軍を離れるといわれても――生前も転生後も、俺は貴族という人種と関わりを持ったことがないので、どういったものなのかイメージが湧かなかった。俺が寝起きしている兵舎に貴族がやってきたこともない。

 閲兵式のようなものもやったことがないので、王様の顔や名前すら知らない。


「ケツ拭いたり拭かれたりしてるうちに、何となく貸し借りができちまってな。仕事自体は息子の護衛らしいから、何てこたあないんだが。その息子ってのが、貴族の立場を利用して荒稼ぎしてるんで、人から恨みを買ってるそうだ。そんな息子を護衛しろなんざ、あの人もヤキが回ったかねえ――まあ面白くない仕事だよ」


「ベア先輩が戻ってきたら、新兵のイジメ担当を代わってくださいよ? 持ち回りでやろうって話だったのに、もう長いこと自分がやってますから」


「お、もうそんな時期だったか。わかったわかった、戻ってきたらな――まあそんなわけで、お前らも飲め飲め、明日は光の日で休みだろう? 金なんざ余るほど持ってて使い道がないんだ、好きなだけ飲んでいけ」


 ひゃっほーう、と歓声を上げて新たな酒樽を開ける俺たちだった。


「俺たちだけで一人占めっていうのもズルいな。教官、ニーナも誘って良いでありますか?」


 酒の席が嫌いという可能性もあるが、声をかけずに放っておくのもそれはそれで悪い気がしているのだ。


「いいぞ。どうせだからお前ら、宿舎にいる守護隊全員に声かけてこい。場所も変えて、表でバーベキューでもやろう。全員奢ってやる、飲み放題に食い放題だ」


 了解であります!と叫んで、俺たち三人は席を立って廊下を走り始めた。

 まだ就寝には早い時間だったので、守護隊の先輩たちもほとんど起きており、宴会という話を聞いて喜色を浮かべて飛び出してくる人たちがほとんどだった。


 こんな風に――なんだかんだで、俺は軍での生活を楽しんでいる。

 入隊してしまえば、ここはここで、案外悪くないものだ。




 


 休日を挟んだ翌々日、俺たちの小隊に魔物を討伐に出かける許可が下りた。


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