盤台哲雄 9
数日我慢したら、もう耐えられなかった。
人を殺めたい。
肉に刃を突き入れたい。
その欲求は、飢餓に似ていた。
腹を空かせた人間が食事を求めるように。
息を止めて水に潜っていた人間が空気を求めるように。
あるいは、付き合い始めたばかりの男女がお互いを求めるように――
僕は、人殺しに焦がれていた。
カエデから、僕の行く道は修羅道であり、行き着く先は身の破滅だと脅されてから、僕は人殺しを断っていた。殺害してもいい人間を探しに出歩いてもいない。
(人を、殺めたい)
僕は麻薬をやったことがないが――禁断症状とは、おそらくこのようなものなのだろう。殺人への欲求が、身を焦がし、心を焦がす。身悶えるほどに、人の血肉に僕は餓えていた。
「あなた様、お茶でも淹れましょうか?」
「ああ、頼むよ」
カエデは、そんな僕を黙って見守っていてくれた。
殺人をやめようとも、あるいは我慢せずにやろうとも言わなかった。
ただ、僕がどういう風に悩み、結論を出すのかをじっと見守ってくれている。
そして、今のように時々、茶を淹れてくれたりする。
心の病を自力で治すか、あるいは諦めて上手いこと付き合っていくか――それを選べるのは、当人である僕だけだ。そうカエデは無言のうちに僕に伝えてきているし、僕もそうだと思う。
「はあ――」
僕は、ため息を吐いた。
熱病に冒されてでもいるかのような、熱い吐息だ。
焼けつくような心から湧きあがってくる、欲望が溶けた二酸化炭素だ。
(人が、斬りたい)
禁断症状を誤魔化すかのように、ここ数日は魔物狩りに精を出した。
がむしゃらに、魔物を斬った。
未熟者の剣でも斬ったし、紅葉切でも斬った。
肉体的な疲労がわずかに欲望を紛らわせたが、それだけだった。人斬りの欲求は、まるで解消されない。
「ニホンジンっていうのは、ずいぶん内向的なんですね。物事はもっとこうわかりやすく、すぱぱーんと決めちゃえばいいと私なんかは思うんですけどねー」
牛乳と砂糖をたっぷり入れたココアのカップを緑茶持ちでずず、と啜りつつ、これまた卵と砂糖と牛乳をたっぷり使ったプリンをパクつきながらクローベルは脳天気に言った。
なんというか、色々な意味で力の抜ける光景で、僕は思わず苦笑する。
「ああもう、何度言えばわかるのですか小娘。日本のことわざに、妻は三歩下がって夫を立てるというものがあります。旦那様が口を付けていないうちに食べ始める女がありますか。あなたのために作ったのではないのですよ?」
「ふふーんだ、どこかの大年増が認めてくれてないからまだ夫婦じゃないですもんね。私とご主人様はまだ上司部下の関係だから、ご主人様がいいって言ってくれたらいいんですー。それとも何ですかな? 夫がいいって言ってることを、奥様がやっぱりダメって言うんですかなー? あれあれ、日本の妻は三歩下がって夫を立てるんじゃないんですかなー?」
プリンを掬うための木匙でカエデを指しつつおちょくるクローベルである。カエデはというと、色白の頬を赤く染めてぐぎぎ、などと悔しがっていた。
思わず手が懐の紅葉切に伸びてしまっている。家の中で刃傷沙汰はやめて頂きたいものだ。
「ならば上司の妻として至らぬ部下を折檻します。その鎧を脱ぎなさい」
「いーやーでーすー。あープリンおいしー」
「おのれ、小娘め――! そもそも何ですか非常識な! 室内では鎧ぐらい脱ぎなさい!」
「いーやーでーすー。鎧着てないと落ち着かないんで脱ぎません」
面頬を上げてあるので愛嬌のあるそばかす顔が覗いているものの、クローベルは室内だというのに板金鎧を着込んでいる。
今のいままで、彼女は頑なにその銀の鎧を脱がなかった。一度も、である。せいぜい、兜を外したことがあるぐらいだ。
僕は彼女とキスをしたことがあるが――考えてみれば、兜を取ったのもそのときぐらいのものだ。
普段はドジっ子だというのに、銀の篭手を着けたまま彼女は器用にプリンを掬って口に運んでいる。
「はあ、はあ――あなた様、やはりこの小娘を実体化させるのはやめませぬか? この恩義を知らぬ犬畜生にも劣るなまくらなど、押入れの中にでもしまって放っておきましょうぞ」
「ごめんね、カエデ。僕には彼女が必要なんだ。それに、僕は結構、彼女のことを好ましく思ってる。カエデの負担になっていたら悪いんだけど、何とか仲良くやってもらえないかな?」
言いつつ、僕はカエデを抱き寄せた。
物は言いようである。要するに二人目の女と仲良くしてくれと伝えているわけなので、僕としてはカエデが嫌な思いをしないようご機嫌を取らなければならない。
「あなた様が、そう仰るなら。気にせぬよう努めますわ」
「あ、ぎゅーしてるぎゅー。ずるい、クローベルも混ざるー」
「破ァ!」
「ぐほあ!?」
僕とカエデが身を寄せ合ってしんみりしているところに諸手を挙げて混ざろうとしたクローベルは、銀の鎧のみぞおち部分にカエデの掌底を食らってよろめいた。
「わたくしの目の黒いうちは、旦那様に小娘を近づけさせませぬ。左様心得るように!」
お邪魔虫を撃退したカエデは、僕の胸元にぽすりと顔をうずめてすりすりしてきた。まるで、クローベルに見せ付けるかのように。
クローベルはというと、彼女は彼女でカエデに見えない角度からんーまっ、んーまっと必死に僕に投げキッスを送ってきている。そりゃあ僕も苦笑が漏れようというものだ。
(僕たちに、クローベルは必要なんだよ、カエデ)
戦力の問題ではない。
クローベルの軽さ、明るさに、僕はどれだけ救われているかわからない。
現に、ひと時といえど、人殺しの欲求を僕は忘れていられた。
カエデは、僕と同じ、陰の人だ。
僕とカエデの二人だけでは、きっと思考も、歩む道も、どこまでも沈んでいってしまうだろう。お互いに理解しあい、束縛しあい、ずぶずぶ深みにはまっていく。
そこにクローベルの明るさが加わることによって、僕は人として立ち止まっていられる。崖の一歩向こう側に足を踏み出してしまうことなく、人間として日々を過ごすことができる。
僕たちにとって、クローベルは欠けてはならないパズルのピースになっていた。
(いっそ、肉欲に溺れてしまえばいいのかもしれないな)
殺人の衝動を抑えるために、カエデとクローベル、二人と爛れた日々を送るのも有りかもしれない。忘れがちだが、僕は特典の精力強化を持っている。愛欲に没頭すれば、いくらか気分も紛れるだろう。
しかし――なぜだか、クローベルを雑に抱く気にはならないのだ。
彼女に、僕はそれなりの愛情を感じている。天真爛漫な彼女を、代用品みたいに扱うのは、どうも気が進まなかった。いまはカエデが夜の生活からクローベルを締め出しているからいいものの、いざ許可が出て抱いていいですよと言われても、僕は戸惑ってしまうかもしれない。
(おや?)
部屋の扉をノックする音が聞こえてきたのは、そんな二人のやり取りを微笑ましく僕が眺めていたときである。
「あらあら、賑やかですこと」
「これはパルマ夫人。お騒がせしていましたか? 申し訳ない」
はーい、とノックに反応したクローベルが扉を開けると、そこにいたのは、ここ「放蕩息子の帰還亭」の女将であるパルマ夫人であった。顔に刻まれた笑顔の皺が良い味を出している初老の夫人は、何やら手紙のようなものを携えていた。
「とんでもございません。何といっても一階は酒場ですもの、日頃やかましくてお詫びするのはこちらですわ。この歳の独り身になりますとね、賑やかなご家族は羨ましく思いますわ――テツオ様宛てにお便りが届きまして」
差し出された手紙を受け取って、しげしげとそれを眺める。
折りたたまれた羊皮紙には、見慣れない紋章で赤の封蝋が押されていた。立派な手紙である。
「ご主人様って友達いましたっけ? 手紙くれるような」
「いや、いないね」
言い方、と怒られつつカエデの掌底を食らうクローベルを横目に見ながら、僕は手紙を開く。
そこに記されていたのは――僕たちと同じ転生者からの、会合の招待状だった。
「これは――」
「手紙には、何と?」
カエデが内容を聞きたがっていたので、僕は概略を説明してあげた。
首都ピボッテラリアにて、転生者三人からなる同盟を作っていること。
手紙の差出主がその盟主であり、貴族籍を持つ人物であること。
カケラロイヤルの展望を話し合い、また協力できる部分は協力しあいたいこと。
会合に参加するならば、返信の上、指定の日時に首都に来てもらいたいこと。
そんな内容が、手紙には書いてあった。
「文面を素直に受け取るのであれば、同盟のお誘いでありましょうな。なにゆえ、我らの場所を相手方が存じているのかがわかりかねますが」
「のこのこ出向いたらばっさりやられるってことはないんですかねー?」
「騙し騙されは兵家の常ですが――いきなり刺されることはないでしょう。テツオ様を暗殺したいなら、こちらに手紙を出すまでもなく仕掛けてきているでしょうし。なにせ、今の今まで、居場所が露見していることをこちらは気づいていなかったのですから。そこを教えてくるということは、何かしら交渉したいことがあるものと存じます」
カエデとクローベルの話し合いを参考にするまでもなく、僕はすでに結論を出していた。
「行こうか」
この街、グラスラード近辺の山賊をほとんど狩りつくしてしまったこともあり、行き詰まりを感じていた頃合だったのである。このお誘いは、渡りに船と言えた。
「了解です。生活基盤も向こうに移しちゃうんですかね?」
「一時的なものになるかはわからないけど、そうなるかな――パルマ夫人、そういったわけでして、近日中に宿を引き払うことになりそうです」
あらあらまあまあ、とパルマ夫人は口元に手を当てて上品に驚いた。
今まで目の前で同盟だの転生者だのという単語が出てきたので、何らかの事情があるぐらいは察してくれるだろう。二ヶ月近くの逗留生活において、彼女が近くにいても構わずにそういった話をするぐらいには、彼女は僕たちの信頼を得ていた。
「また戻られるかもしれないのでしたら、向こうひと月ほどは部屋を空けておきますわ。事情はわかりませんが、良い旅になればいいと願っております」
「ありがとうございます。ドルタス君には、挨拶はできなさそうですね。もし帰省してくることがあれば、この宿を引き合わせてくれた礼を伝えておいて頂きたいのですが」
自分が貴族であるかのように振る舞い、半ば騙したドルタス君――パルマ夫人の息子は、あれから顔を見せていないので挨拶ができていないのである。
「そこまでご丁寧なことをされずともよろしゅうございますのに――しかし、かしこまりました。不肖の息子が戻りましたら、お伝えしておきますわ」
「それじゃあ、荷作りするか。馬車も用立てないとな」
魔物を狩り、山賊を狩る生活をしていたので、金銭にはかなりの余裕があった。
会合の指定日は、三日後。それまでに光の日はないので、護衛持ちの商人の後を付いていくことはできない。自前で馬車を用意せねばならないだろう。
(しかし、カケラロイヤルか――)
ここ草原街グラスラードには、シェルという少女と忍者ルンヌと会って以来、他の転生者の姿は現れなかった。それ故に、いささかカケラロイヤルのことが、日常の中で薄れてきていたことは否めない。僕にとっては、人殺しの衝動をどうにかする方が身近で重大な問題だったからだ。
(事態が、どう転ぶかな?)
未だ見ぬ首都の光景を想像しつつ、僕は局面が動いた実感を覚えていた。
「気のせいかもしれませぬが――このあたりは、暖こうございますなあ」
からからと音を立てて回る車輪。尻に敷いたクッション。
馬車の幌から外に顔を出し、陽射しに目を細めながら、カエデはそう言った。
馬車の中には、家財道具が積まれている。蔓草で編んだ衣装入れ、各種魔石の入った革袋、食器や日用品、書類なんかをまとめた木箱にそれに革鎧一式。僕の持ち物なんて、そんなものだ。
「気のせいじゃないと思うよ、カエデ。珈琲の木なんかは、首都の近くじゃないと
育たないらしいんだ。南国とまでは行かないだろうけど――南に下った分、暖かいんだろうね」
草原街グラスラードのあたりでは、珈琲やカカオ、それに油ヤシの木は栽培されていない。人間の居住区域の中でも最も南に位置する、首都ピボッテラリアや鉄火街フラマタルのあたりで栽培されているのだという。
あのあたりは、南東から流れてきた雨雲がステュクス山脈に雨を降らすため、西側の首都、東側の鉄火街でかなり気候が変わるそうだ。それ故に、気候に合わせて様々な作物が育つ。山から流れ出てくる川で、水にも困らない。人間の生存圏の中で最も南に位置していて暖かい。
近くに首都を設けたのも頷ける、良い立地なのだ。
「あの小娘も起きてくればいいのに。風情を解さない娘ですこと」
クローベルは、馬車の旅は退屈だから寝てますね、と宣言していた。今は鞘に入った剣の姿で馬車の中に立てかけられている。
「せっかくののんびりとした旅心地ですのに――あなた様、お客様ですわ。見えてる限りでは、一人しかおりませぬが」
「ふむ?」
カエデに倣って馬車の前面に移動し、幌をかきあげて前方の景色を注視していると――木陰から、一人の男性が飛び出てきた。鋲革鎧を身にまとっていて、手に弓を持ち、腰に斧を提げていた。
「そこで止まれ! 俺は賊だ、荷を貰う!」
わかりやすい賊であった。
ただ、賊というものは普通、もっと下卑ているものだが――ハキハキと力強く喋る賊は珍しい。無精ひげが顔を覆っているのは常の賊と変わらないのだが、精悍な顔つきを隠しきれていなかった。
(まあいいさ、やることは変わらない)
僕は馬車から降り立つや否や、目の前の賊に向かって命奪の魔法をかけた。たまらず賊は膝を付く。
「せっかく、殺人断ちしてたのになあ」
目の前に、殺してもいい人間が、カモネギさながら現れる。
これで我慢できるほど、僕の欲求は弱くない。
心の底に押し込め、押さえつけていた欲望のマグマが、一気にぶわっと湧き出してくる。
「なっ――なっ!?」
突然現れた賊は、突然かけられた魔法に驚きを隠せていなかった。
それはそうだろう、襲う側だと思っていたら一瞬で無力化されたのだ、誰だって焦る。
「行きがけの駄賃、という奴でありましょうかね?」
「そういう成り行きだったんだろうね。味わって頂くことにするよ」
カエデは実体化していたので、物質化させて短刀の姿に戻す。カエデの姿はかき消えた。そうしないと、彼女の懐から紅葉切を抜き出しても、すぐに消えて彼女の手に戻ってしまうからだ。
「いただきます」
抜き身の短刀を手に、ゆっくりと歩を詰めていく僕を見て、賊は恐慌した。
「ま、待て、見逃してくれないか! 食料を持って帰らないと家族が餓えてしまうのだ! まだ歩けぬ赤ん坊の娘と、子供を産んですぐの妻なのだ、頼む!」
僕のかけた気奪により、満足に立っていることもできず倒れこんだ山賊は、必死に命乞いをした。やはり喋りが折り目正しい。兵士崩れか何かだろうか。
【種族】人間
【名前】ジェズ・フェアチリーテ
【レベル】211
ステータス画面で確認したところ、彼はそれなりにレベルが高かった。
僕が無言でじっと彼のステータスを見ていると、助命否定の意志表示であると誤解したのか、彼は脂汗を垂らしながら呻きだした。最終的には殺すつもりであるから、誤解でも何でもないのだが。
「意外と、レベルが高いな。殺人で上げたのかい?」
「レベル――? 俺のマナが強いのは、家の近くに出没する魔物を倒しているからだ。確かに人を殺したことはあるが、それはまだ首都で暮らしていたときに喧嘩のはずみでやってしまった一回だけだ。それ以外で人を殺めたことはない、俺の名前はジェズだ、調べてくれればわかる! 頼む、命だけは助けてくれ! この通りだ!」
「嘘は申しておらぬかと。落命を恐れてはいますが、目が泳いでおりませぬ」
半透明に透けた可視化状態のカエデが、ふわりと僕のそばに現れる。
「希望をちらつかせていたぶる趣味はないから、率直に言おう。君はここで殺す。言い残すことがあれば聞くよ?」
実体化中のカエデの帯に鞘を残しつつ、紅葉切を引き抜く。
穏やかな陽の光の下、短刀の切っ先がきらりと輝いた。
「く、くそっ、うおおっ――」
ふらつく足取りのまま、彼も腰に吊った短剣を引き抜き、僕に切っ先を向け、体当たりをするかのごとく走り始める。
レベルが上がり、ステータスの敏捷が上昇した僕にとって、彼の決死の突撃は
止まって見えるほどに遅いものだった。
彼が腹のあたりで構えた短剣を突き出す暇すら与えず、僕は距離を詰め、右手に握った紅葉切を真っすぐ彼の心臓めがけて突き入れた。
うすっぺらな動物の革を張り合わせた鎧と、皮膚と、胸板を裂き、骨髄質の胸骨をたやすく貫き、やわらかな心臓に刃が突き立つ。一連の手ごたえに陶然としながら、僕は名残を惜しむように、ゆっくりと紅葉切を引き抜いた。
「あの、山。かぞく」
仰向けに倒れた彼は、すでに指一本も動かせないのか、目線だけでとある山を指し示し、動かなくなった。
垢と泥にまみれた革鎧の胴が、噴き出す血に染まっていく。
「遺言はそれでいいのかな。いいよ、連れてってあげよう」
自分でもわかるほどに、僕は機嫌が良かった。彼で、殺人の欲求を満たせたからだろう。
遺体を包む手ごろな布がなかったので、馬車の幌で代用することにした。
四隅の金具に紐を通して固定されていた幌の布を取り外し、遺体の首から下をぐるぐる巻きにする。
すぐさま布が血で染まっていくが、尻の部分まで垂れてきたりはしなさそうだ。これなら馬車で運んでも、床が汚れるようなことはないだろう。
「すまないね、カエデ。少し寄り道をするよ。暑かったり、眩しかったりしたら言っておくれ」
「あなた様のなさりたいようになさってくださいませ。あなた様と共にいられれば、わたくしは幸せでございます」
荷馬車を曳く二頭の馬は、再びかぽかぽと並足で歩き出した。大人一人分の重量が増えたせいか先ほどより少し遅く、屋根のない馬車は陽射しが入り込んでくる。
低湿で風があるために暑くは感じず、のどかで爽やかな車窓の旅となった。
僕は車を持ったことがないが、オープンカーに乗る人々はこんな気持ちなのだろうか。
横幅二メートルほどの、座席すらない狭くて小さな馬車である。布で包まれた遺体を前方に寄りかからせ、僕はカエデを背後から抱きすくめるようにして座った。
馬車売りの業者の忠告に従って、尻が痛くならないように綿の詰まったクッションが尻に敷いてある。
首都に近いとはいえ、このあたりの道は舗装されておらず、ごとごとと揺れるが、その都度カエデの細く締まった肉感が身体に伝わってきて心地良い。
「この山かな。歩いてでも登れそうだけど、召還獣に頼もうか」
「はい。お供いたします」
馬車から降りて、僕は目の前に広がる山を見上げた。鬱蒼と樹木が生い茂る未開の山に見えるが、木々の間にはそこそこの間隔があり、獣道でも見つければ徒歩でも登っていけそうである。
足元の藪が薄くなっている箇所もあり、そこから森の中を覗きこむと、何とか人ひとりが通れそうな道がある。ここが山賊ジェズの使っていた山道であろうか。
「夢魔召還」
前方に突き出した僕の両手から、ごっそりとマナが抜け出ていくのがわかる。
やがてそのマナは、漆黒の影となって、一頭の馬を形作っていった。
吸い込まれそうな、艶のない漆黒の召還獣。
胴体とそれ以外の境界すら曖昧な、闇の身体。
真っ黒なたてがみは黒炎のようにゆらめいていて、瞳だけが真紅に輝いている。
「骸を乗せるには、狭うございますな。あなた様、私は可視化状態に」
「わかった。帰りには一緒に乗ろう」
はい、と笑顔のカエデをいったん紅葉切に戻し、懐に差し込む。
長らく馬車に寄りかからせていたせいか、くの字型に折れ曲がった死体を首の根元に乗せ、僕がまたがった夢魔は大地を蹴って獣道を駆け上がる。
風が頬を切る。僕の上体は後ろへと傾きがちだ。
しっかりと胴体を脚で締め、首にしがみついていないと振り落とされてしまいそうな強靭な脚力だ。
藪や細い潅木を蹴り倒し、悪路と傾斜を物ともせず夢魔は山を駆け上がる。たまに跳ぶ。夢魔を召還しておける時間はたった二分だけだが、頂上まで辿り着けてしまうのではないかというほどの勢いだ。
「ここかな?」
麓から頂上までの進行具合でいうと、四割ほども登ったところに、つつましい小屋があった。
獣道の中ほどから脇に逸れたところに、半分に割った丸太を積み上げて作った、簡素な小屋だ。
皮をはがしていない生木を使っているせいか、何となくじめっとした印象を受ける。防湿に加えて防虫加工もされていなさそうだし、木材も不揃いで隙間がある。小屋自体も、斜めに傾いていた。
屋根も丸太を横に並べただけで平たいし、森の中とはいえ雨が降れば水漏れがするに違いない。
例えお金を払われたとしても、僕はここに住むのは嫌である。
そして、こんなところにも、人は住むのだ。
「ジェズさんのお宅で合ってるかな?」
ささくれだった丸太の縁をノックがわりに軽く叩いてから、僕は片開きの扉を引いた。やはり丸太で作られた扉には蝶番のような金具が付いていたが、すっかり錆びてしまっていた。
中を覗きこむと、うっと鼻がつまるような異臭がする。
「――誰?」
ほとんど髪を洗っていないのか、海藻のようにだらりと後ろ髪を垂らした女性が、片肌脱ぎになって赤子に乳を含ませていた。
彼は、ジェズの奥さんだろうか。すっかり痩せ細って目には生気がなく、幽鬼のようだ。赤ん坊も、十分な乳をやれていないのか、小さな身体は痩せて骨が浮き出ていた。
「気を落ち着かせて聞いてくださいね。ジェズに襲われたので、返り討ちにして殺しました。彼の遺言だったので、あなたたちを助けたく思います。ここまではいいですか?」
それなりに衝撃的なことを伝えたと思うのだが、彼女の反応は鈍かった。
しかし僕の台詞を聞いていたのは間違いないらしく、女性は胸に抱いていた赤ん坊をそっと床に降ろした。そこだけまともな絨毯が敷かれていたが、水が染みてしまっている。異臭の発生源はこの腐った絨毯のようだ。
乳房から引き離され、弱々しく赤ん坊は泣き始める。
「彼は、なんて?」
「家族がいるので見逃して欲しいと命乞いをしました。私はそれを容れずに彼を刺しました。死の間際、ここの場所を指し示して彼は息絶えました。それだけです」
「そう」
彼女はそれだけ呟いて、押し黙った。
ジェズの家族に、僕との関係をどう説明するかはそれなりに迷った。
たまたま瀕死の彼に出会って最後を看取ったことにしても良かったのだが、僕は正直に伝えることにした。特に深い理由はなく、何となく、だ。
「遺体を運んできています。会いますか?」
彼女は返事をしなかったが、ゆっくりと立ち上がり、外へと出てきた。
獣道の途中に横たえたジェズの方へと、おぼつかない足取りで歩いていく。
後に残された、弱々しい声で泣く赤ん坊に、カエデが手を伸ばしかけて、引っ込める。他人の子供であるし、それに今の彼女は実体化中ではない。本体の紅葉切は僕の懐にある。
「ジェズ」
布でぐるぐる巻きにされた遺体の横に跪き、彼女は夫の死に顔を見つめていた。
墓を作りたいと言い出したら、穴を掘るぐらいの手伝いはしようと僕は考えていた。その後は街まで送ってあげて、当座の宿代ぐらいを渡してあげればいいだろう。それから先は、彼女たちの生き方に任せればいい。
「あなた様!」
赤子を気遣ってか、抑え気味の声量で、カエデが注意を促してくる。
見れば、いつの間にかジェズ夫人は立ち上がっていて、その手には抜き身の短剣が握られていた。
ジェズ自身が持っていた短剣は、ぐるぐる巻きにされた遺体が身に着けていたはずだ。布が解かれた様子はないから、彼女自身が隠し持っていたものなのだろう。
「仇討ちのつもりなら、やめておいた方がいいです。恐らく僕には勝てませんし、僕は殺せる人間は容赦なく殺しますから」
しかし彼女は、僕の方を見てもいなかった。視線の先は、カエデである。
「ディアナのこと、お願いしていい?」
先ほどとは違い、芯の通ったはっきりした声に戸惑いながらも、カエデはしっかりと頷いた。その様子を見て、ジェズ夫人はにこりと笑い、僕の方へと一歩踏み出してきた。
「やめなさい。警告は本気です。刺しますよ」
鋭く威嚇したにも関わらず、悠然と彼女は一歩一歩、近づいてきた。僕にも、彼女はにこりと笑いかける。
「終わらせてくれるんでしょう?」
彼女は、たっと地面を蹴って僕に襲いかかってきた。切っ先に殺意はないが、先ほどまでの幽鬼のような様子が嘘のような、ちゃんとした踏み込みだった。
すとん、と抵抗らしい抵抗もなく、紅葉切は彼女の胸を貫いた。枯れ葉を踏んづけたときのように、軽い感触だった。
満足げに微笑みながら、彼女は後ろに倒れこんだ。こうなることを予期していたかのようだ。
「名前、教えて頂けますか?」
「言った、でしょう? ディアナ、よ」
全身から力が失われつつある最期の彼女に向けて、カエデは首を振ってみせた。
「あなたの名前です。この子が育ったときに、本当の親の名を教えてあげます」
「――レア」
目を見開き、血で汚れた口元にわずかな笑みを浮かべたまま、彼女は動かなくなった。
弱々しい赤ん坊の泣き声だけが、静寂に支配された森の中に響いている。




