花咲侠者 2
バチバチバチバチ。
もはや羽ばたきなどという生易しいものではなく、何かを叩きつけるような騒がしい音が、あちこちに満ちている。
赤い血のような瞳、握り拳ぐらいの胴体、尻から飛び出た毒の針、陽の光に透ける二対四枚の羽膜。
軍隊のように規律正しく俺を取り囲んで宙に浮かぶのは、手のひらサイズの蜂の魔物。殺人蜂というらしい。ステータスシステムでレベルを見ると、一匹あたり15レベルだった。
首都から東門を出た、魔物の出現区域に住んでいる住人から、冒険者ギルドへと出されていた、殺人蜂の駆除依頼を俺が受けたのが、つい先ほど。
善は急げとばかりに、手近な鍛冶屋で一本の剣を買い求め、アホみたいにだかだか走って現場についたのが、ほんの今。見張り役らしき殺人蜂の探知網に引っかかったらしく、すごい数の殺人蜂に囲まれている、現在。
「キラービーは仲間を呼んだ、キラービーAからZまでが現れた、ってか?」
これでもかと羽音でばちばちと威嚇してくる毒蜂の群れ。恐らく総数は五十を下るまい。お守りがわりに首筋に巻いたタオルに、脂汗がだらだらと垂れる。
一体ならば問題なく倒せる格下の相手ではあるが、いかんせん数が多すぎた。
間近に迫る死の恐怖に、俺は少なからぬ後悔をした。ひょっとしたら俺は、全転生者の中で一番マヌケな死に方をする男なのではないだろうか。
キョーシャ・ハナザキ、ワイシャツと通勤用ズボン姿で蜂の巣に突撃して死亡。
(嫌過ぎる――)
依頼主である住人たちも、呆れるのを通り越して、依頼を無駄に受ける嫌がらせだと思ったらしく、散々に罵られた。まあ大丈夫だって、と太鼓判を押してやってきた以上、面子の問題からも後戻りはできない。
問題となっている巣は、遠目に見える森の中だろう。蜂の群れが出てきたのもそのあたりだったし、今俺がいる見晴らしの良い草原に集まってきている蜂を倒してしまえば、巣の除去はできるはずだ。
問題は、どうやってこの蜂の群れを退治するかという点である。
「べギラマ覚えた魔法使いが颯爽と助けに来てくれたりは――しないだろうなあ。そもそも範囲魔法なんか撃たれた日には、俺ごと丸焦げだろうしなあ。ダメだな、詰んでるぞこれ」
ご丁寧に忠告満載だった冒険者ギルドの依頼文を、俺は脳裏に思い浮かべる。
【殺人蜂の討伐依頼】
依頼主:東門外区開拓村 村長ムール
報酬:10,000ゴルド 複数参加者の場合は頭割り
期限:三日 なお早ければ早いほど歓迎
『依頼内容』
開拓村の付近に、殺人蜂が巣を作ったようで、住人に被害が出ています。
衛兵様に依頼する金銭がなく、このままでは村を捨てる他ありません。
報酬はあるだけの現金をかき集めましたので、追加交渉には応じられません。
篤志家の方のご厚情をお待ちしています。
『ギルドからの特記』
殺人蜂の針は、鋲皮鎧・鎖鎧では防げません。
板金鎧に身を固めるか、遠距離範囲攻撃の使える魔術師を推奨します。
また、麻痺性の毒を持つため、毒消しの準備を忘れずに。
三匹以上から刺された場合、指一本動かせなくなるのでパーティ推奨。
「誰がこんな依頼受けるってんだよ。十万貰っても割に合わねえ」
「違えねえ。殺人蜂の巣の討伐とか、ベテランの冒険者でもキツいだろうに。それで報酬一万とかナメすぎだろう。乞食かよ」
「大差ねえさ。開拓村って言っても、安全な西側じゃなくて東門の外の奴らだろ?
あいつらに比べりゃ、まだ貧民街の奴らの方が身奇麗さ。このムールって奴が村長らしいが、どうせ前科持ちで街を追われたんだろうぜ。東門の外にゃそんな奴らしか住んでねえからな。こんな依頼を受ける奴がいるわきゃねえだろうに。依頼板の邪魔で仕方ねえぜ」
冒険者らしき二人組の男が声高に話し合い、げらげらと笑いながら去った後、俺はその依頼用紙を手に取った。会話の内容から察するに、難易度に見合わない慈善事業になりそうだが、まあそれはそれでいいか、という軽い気持ちで受付に持っていったところ、やはり驚かれた。
「冒険者証の提示を――キョーシャ・ハナザキ様、Fランクですね。ご存知かとは思いますが、依頼のキャンセルは著しく評判が落ちます。冒険者証に記載が付きますし、常習者になれば最低でも冒険者証の剥奪、経緯が悪質であれば犯罪になります。加えて言えば、殺人蜂の巣の除去は難易度の高い依頼です。自殺志願であれば、迷惑がかからない他所でやってください」
「ん、冷やかしじゃないんで大丈夫です。受理して下さい」
ばちばちという殺人蜂の威嚇の羽音で、俺は回想から現実に引き戻される。
受付嬢から、とても胡散臭そうな視線を投げられてまで依頼を受けたのである。規則上、拒絶はできないから受けざるを得ないか、と心底嫌そうに呟いていた彼女の表情が忘れられない。
どのみち、逃げ帰っても社会的な生命は絶たれるのだし、退路はすでにない。物理的な意味でも、蜂に四方八方を囲まれているのだから、逃げても無駄だろう。
(来る――!)
宙に静止しながら羽ばたくだけだった殺人蜂の羽音が、ばちばちという威嚇のためのそれから、扇風機のような静音へと変わった。
買ったばかりの、真新しい刀身がぎらつく長剣が、俺に残された唯一の活路であり命綱である。
(要は、斬って斬って、斬りまくればいいんだろ――! 見ててくれ千尋! やっぱ怖い、助けて千尋!)
次の瞬間には、俺の背後から接近していた殺人蜂を、振り向きざまに斬り飛ばしていた。
俺の腕が動いたのは事実だし、それに伴う腕の疲労や体の移動があるのは確かだが、これは意識してそうしたわけではない。俺にそんな腕前はない。
これは、特典スキルのうちの一つ、斬術スキルのおかげである。
接近してきた敵を斬りたい、と思っていれば、敵が近づいてきたら勝手に腕が動いて斬りつけてくれる。逆に、こちらから攻め込みたい、と思っていれば、俺が足を踏み出すのと同時に、やはり腕が勝手に剣を振りかぶり、ベストな重心移動のタイミングで斬りつけてくれたりする。引き気味に戦いたい、と思っていれば、相手の攻撃に対してカウンターめいた感じで身体が動く。
要するに、自分がどういう風に戦いたいかさえ頭で念じていれば、身体がその通りに動いてくれる。さすが特典、インチキ臭い強さである。サンキュー神様。
(いっ――)
そんなことを考えていたら、尻のあたりをずぶり、と刺される感触があった。
「いってええええ!!」
俺の腕は、先ほどから目にも止まらぬ速さで動いている。
正面から飛んできた蜂を最低限の動きで両断し、その勢いを殺さずにすぐ横の蜂を横殴りに斬りつけ、次にはくるりと身体を半回転させて首筋を狙っている蜂と、さらに半回転して空を飛ぶ二匹の蜂、合計三匹の敵を一振りで叩き斬り、その勢いそのままに次の蜂に斬りつけ――
剣を振ったとき、普通なら振り下ろす、剣を止める、再度構える、という流れになるはずなのだが、この斬術スキルのおかげなのか、剣を止める、という動作が存在しない。
剣を振って敵を斬った後、その勢いを殺すことなく次の蜂に斬りつける力とする、そんな人外じみた動きで俺の腕は動き続ける。
ずぶ、ずぶり。ずぶっ。
「だから痛えってんだよおおおおおお!」
勝手に腕は動いているわけなので、つまるところ俺の仕事というのは、痛みに耐えるだけである。
もちろん運動量に伴って汗をかいているし、心臓もばくばくいってるし、腕もちょっと乳酸が溜まってきた感じがあるが、俺が意外にも冷静なのは、剣を振るという動作に脳の容量を割り振っていないからだ。
俺が死ぬか殺人蜂を倒しきるのが先か、冷静に眺めている部外者みたいな感じである。
ずぶっ。ずぶぶっ。ずぶっ、ずぶぶぶっ。
「いぎゃあああああああ!!」
ちくりという、虫刺されのような生易しい痛みではない。
尖った太い針が、肉を裂くように突き立てられ続けているのだ。
俺は右手で必死に剣を振り回しているが、空いている左手が遊んでいるのかというと、そうではない。こちらも殴打術スキルが発動していて、接近してくる蜂を固めた拳で迎撃したり、身体に張り付いている蜂を払い落としたりと忙しい。両手はフル活用されている。
しかしそれでも、蜂の一斉突撃は、さばききれない。俺の姿を遠くから見る人がいたら、全身を蜂に張り付かれているようにさえ見えるかもしれない。
俺の右手に握られた長剣と、左手の握りこぶしをかいくぐり、勇敢にも俺の身体に張り付いた蜂は、先ほどから俺の愛されボディであるところの柔肌に毒針をぶすぶすと刺しまくってくれている。
すぐに払い落とすものの、また別の蜂が張り付き、毒針を刺す。その都度、鋭い痛みが走る。
「何が痛覚耐性だよ、クッソ痛えじゃねえか神様おいいいいいい!?」
そう、俺としても、まったくの勝算もなしに殺人蜂の巣の除去という高難度依頼を受けたわけではない。
まず、俺は特典で毒耐性および、麻痺耐性を持っている。つまり、殺人蜂の最も強力な武器である、毒針から注入される麻痺毒を無効化することができるのだ。これは先ほどからアホほど毒針を刺されているというのに一向に麻痺っぽい症状が出ないので確実である。
しかし、痛いのは誤算である。痛覚耐性スキルも取得している俺は、針に刺されてもまったく痛くないものだと思っていた。
だが、現実にはとても痛い。親指ほどの長さの毒針を突きたてられるたびに、画鋲を踏んづけた程度の痛みが患部に襲い掛かる。
「そりゃ、だいぶ緩和されてっけど――痛えものは痛えよ神様――痛い痛い痛い!!」
急所である顔面や首周り、心臓と股間付近は優先して守るように意識しているせいか、両腕による防衛もそのあたりを重点的に行っている。しかしその反面、ガードが甘くなる背中や尻、両足や腕などの末端部が、見るも無残なことになっていそうだった。
腕が疲れてきた。まだかなりの数の蜂が残っている。
(もうちょい、レベル上げしといた方が良かったかな――)
いくら斬術スキルを持っているとはいえ、それを振り回すのは俺の腕である。
レベルが上がれば上がるほど、俺の身体能力は上がり、剣の振りは速くなる。
初期値である30から、俺のレベルはほとんど上がっていない。蜂の討伐に向かう前は、46だった。特典の余剰ポイントでもらった3,000,000ゴルドで、安物の短剣や弓なんかを買い込んで、スキルの試しがてら付近の森を駆け回ったぐらいである。こんなことなら、無駄遣いしないようにと節制せず、初日から長剣を買って冒険しとけばよかった。
これでもそこそこレベルを上げたつもりだったが、こんな痛い思いをするぐらいだったらもっと頑張って魔物を倒しておくべきだった。後悔先に立たずである。
永遠にも思える戦いは、時間にすればほんの数十秒だったかもしれない。
しかし、絶え間ない苦痛に耐える時間は、とても長く感じた。
「これで、終わり――だオラァ!!」
ぶんぶんと飛び回る最後の一匹を斬り飛ばし、あのばちばちという嫌な羽音が聞こえなくなると、俺は天を仰いで雄叫びを上げた。俺の声が消えてしまった後には、草原が静寂を取り戻していた。
もう腕は動きゃしない。明日の筋肉痛を想像するだけで気が滅入る。
「キツかった――」
付近には体液まみれの殺人蜂の死骸が散乱しているので、少し離れてから草むらに倒れこむ。刺されまくった背面、特にケツ全体がじんじんと痛むが、重力から解放された俺の身体は、起き上がることを拒否した。
「出血とかどうなってんだろ。見たくないなあ」
親指ほどの長さとはいえ、太さはそれほどでもない毒針だったので、死ぬほどの出血はしないと思いたい。
「いや、やっぱ見ないとダメだよな。現実逃避してて死ぬのもアホらしいし」
キョーシャ・ハナザキ、蜂の巣の駆除に成功した後、刺されまくったケツからの失血により死亡。
(嫌過ぎる――)
「くっそ、家族のみんなに拡張されてたとはいえ、これ以上ケツが緩んだらどうしてくれる」
女性陣には不評であることが多いそっちのプレイではあるが、我が家には一人物好きがいたので、俺の前立腺は開発済みである。なお、一時期の我が家で流行った模様。
「よっと――お?」
そんなケツの様子を調べるべく立ち上がった瞬間、俺のベルトがぶちりと千切れた。転生時の服装にはベルトが付いていなかったので、仕立屋で買い求めた革製のちょっと分厚いベルトである。
「何だこれ? 何でこんなことに」
かなり頑丈なベルトだったはずなのだが、目の粗いスポンジみたいにあちこち穴だらけになっていた。
もちろん殺人蜂の針が刺さった後なのだろうが、付近のズボンなどと比べて、明らかに空いている穴の数が多い。これだけ穴だらけになっていては、千切れるのも道理であろう。
「ひょっとして、防具術スキルの影響か?」
しばらく考えて、俺は一つの可能性に思い当たった。
この革製のベルトは、布のズボンやワイシャツなどと比べると丈夫である。
つまり、これを防具と見なして、蜂からの攻撃をなるべくこのベルトで受けるように、防具術スキルが自動的に発動したのではあるまいか。それならば、このベルトの惨状にも納得がいく。
防具術スキルは、敵からの攻撃を、なるべく防御力の強い部分の鎧で受けるスキルだと神様が言っていたっけ。
「ベルト、買っといて良かったなあ。これがなければ、もっとズッブズブに刺されてたってことだろうし」
それを言い出せば、まともな防具の一つでも身に付けておけばもっと違う結果になっていたのだろうが。
「さて、どんなもんか――うっわ」
千切れたベルトを投げ捨て、誰も見ていないのをいいことに、草原の真っ只中でズボンを下ろす。
正面側はそうでもないのだが、ケツ側のトランクスだけ真っ赤に染まっていた。元は鮮やかな空色だったのだが。
あまりの衝撃映像のために、思わず回していた首を元に戻して、ズボンを履き直してしまった。臭いものには蓋、いわゆる見ない振りである。
角度の問題で見えないが、恐らくはワイシャツの背中も似たようなものだろう。さきほどから、血と思わしき液体でぴったり背中に張り付いてしまっている。
「はあ、報酬の10,000ゴルドの使い道、新しい服になりそうだなあ」
穴だらけの服を一式買い換えたら、ちょうどそれぐらいになるだろう。
殺人蜂の魔石をすべて拾って売れば黒字にはなるだろうが、依頼を達成した分での儲けは出そうにない。
「そういや、巣が残ってたっけ。もうそんなに蜂は残ってないだろうけど、親玉が強かったらやだなあ」
俺は重い腰を上げて、再び剣を握りなおす。とっとと倒して、とっとと帰ろう。
「今日は風呂に入らんとなあ。一人風呂ってのは味気ないんだよなあ」
家族のいない生活に一抹の寂しさを覚えつつ、俺は殺人蜂がやってきた森の中へと向かい、草原の中を歩き始めた。
「いやあ、助かりました。あんな近くに殺人蜂の巣があったんじゃあ、おちおち眠れやしません。また土地を捨てにゃならんとこでした」
まったく期待されていなかったせいか、開拓村への俺の帰還は驚きとともに迎えられ、それはすぐに歓呼に変わった。
俺が両手に、人の生首ほどもある女王蜂の頭部を抱えていたからである。
率直に言って、女王蜂は弱かった。大きさこそ一メートル強、人間の子供ほどの大きさの蜂ではあったが、毒針を持っていないので、戦闘力としては普通の殺人蜂よりも弱い。女王の仕事は戦闘ではないということなのだろう。
護衛である働き蜂も全滅していたようで、一本の立派な成木を覆い隠すように作られた蜂の巣からは一匹の蜂も出てこなかった。イメージとしては、一本の木の、葉っぱの部分がすべて蜂の巣に変わったようなものだろうか。
十センチほどの六角形でびっしりと埋め尽くされたハニカム構造の巣穴に斬りつけると、意外とたやすく巣は割れ、中央にいる女王を倒すのも簡単な仕事だった。威嚇してくるだけで無抵抗の相手を倒すのに気後れしたぐらいである。
どちらかといえば、女王蜂が襲ってこないか警戒しながら木に登る方が大変だったと言えよう。
「巣はそのまんまになってるから、すまんが解体するなら人を出してくれ。殺人蜂は全滅してるはずだが、怖ければ同伴するから」
「いやあ、女王蜂がいなくなれば残りの蜂はすべてどこかに散りますのでな、村の衆だけで構いません。安い金額で助けて下さった礼ですし、解体は村の衆でやりましょう。金になる部分を持ってこさせますので、しばしこちらでお休みくだされ」
「ふむ、大丈夫かい?」
俺が大丈夫かい、と言ったのは、残党である蜂がもしいたら被害が出るのではないかということだが、村長は違った受け止め方をしたようだ。
「はみ出しものだからこそ、義理は弁えております。金になる物には手を付けぬこと、お約束します。万が一不埒者が出てしまった場合、責任を持って首を刎ねます故、ご容赦くだされ」
「ああ、まあ。んじゃ、お願い」
蜂の巣は、どうやら金になるようである。そのままにして帰る気満々だったので、しばしお待ち下されと言われてしまってば、何だか肩すかしをされたような気分だ。
「急かすようで悪いんだが、ちょっと服が汚れててね。早いとこ、風呂に入りたいんだ。ちょっと急いでくれると嬉しいな」
蜂の巣などの副産物については、すべてあげてしまってもいいかと一瞬考えたが、かくいう俺も生きていくのに金は必要な身である。半ば慈善事業だと覚悟していたとはいえ、ギブアンドテイクの信条からすると、今回の俺はギブし過ぎているし、ここらでリターンを頂いておいた方がいいだろう。
「これは、気がつきませんで。ただいま用意させます」
「え、風呂があるの?」
それは嬉しいとばかりに笑みを浮かべる俺だが、どうも村長の顔色は思わしくない。冷静になって考えてみれば、こんな食うや食わずの人々の住処に風呂があるわけないではないか。
「その、村の男衆の下の世話をしている女がですな、唯一、殺人蜂の被害を受けた村民でして。村の恩人に差し出せる器量ではなくなってしまいました。どうしてもお求めということであれば、生娘を伺わせますが、そのう」
言いにくそうにもじもじとしている村長の姿を見て、俺はすべてを察した。
そういう風習の村なのだろう。
「ああ、やっぱりそっちの意味でのお風呂? そこまでしてくれなくていいよ、大丈夫だから」
正確には相手がいなくてここのところ溜まっており、あまり大丈夫ではなかったが、だからといって恩を着せて女を要求したところで満たされはしないだろう。愛のない行為は空しいだけである。
とはいえ、これで血塗れ姿でしばらく滞在しなければいけないのは確定である。
「せめて湯の用意はさせましょう。お気に召しましたらお使い下さいませ」
「お、そりゃありがたい。お相伴に預かります」
聞きなれない言い回しだったのか、両手を合わせた俺に一瞬怪訝な目を向けたが、村長は席を立つと、小屋の外へと先導してくれた。
小屋の外に出ると、村の実情が一目で分かる。
ちょろちょろとか細く流れる川に沿って、木の板と屋根を組み合わせただけの粗末な小屋が並ぶ。風雨にさらされた小屋は、どれも腐りかけているのか黒っぽく変色していた。
俺の出てきた村長の家からは川を挟んで反対方向に、石を積み上げただけの竈がある。台所は共有のようだ。
竈の近くには、さほど広くない畑があり、見知らぬ植物が等間隔で植えられていたが、まだ芽吹いたばかりだ。
小屋の総数は二十ほどであり、恐らくは人口も五十人に満たないであろう。
(倹しい暮らしだなあ)
どれほど貧しくとも、最低限の衣食住は保証されていた日本とは、やはり違う。
失礼な表現ながら、こちらの世界の底辺は、何とか生きていくので精一杯なのだろう。
逆境まみれの暮らしであろうに、俺に先導する村長の顔は、痩せこけながらも殺人蜂を退治できた喜びに満ちていて、足取りは軽い。人は貧しいと強くなるのだろうか。
「ムームー、お客様だ。村はずれの殺人蜂の巣を退治して下された」
案内されたのは、やはり慎ましい小屋である。日本で暮らしていた俺の家の、ほんの一部屋であってもこれより大きい。安いビジネスホテルの一室と大差ない狭さである。
入り口には、ドアすらない。蝶番がついていたのか、上下にそれらしい抉れた形跡があったので、元はちゃんと扉があったのだろうが、壊れて取れてしまったのだろう。簾で代用しているようだ。
「こちらの家でお休み下さい。ただいま、湯をお持ちしますので」
「お邪魔しまーす」
おそるおそる簾をくぐると、やはりというか、小屋の中は外見より更に狭かった。普通、家というものは、狭く見えてもいざ暮らしてみると広く感じるものだが、この小屋は逆である。
四畳間ぐらいしかない狭い小屋の奥の方には、いくつかの食器と鍋が床置きにされている。水が染み出てくるのか、小屋の隅には丸めた布が押し込まれているが、腐っているのか異臭を放っている。
中央には人が寝置きするらしき薄い布が敷かれているが、やはりあちこちに染みがあった。掛け布団も、敷き布団もないようだ。
「お客様――?」
灯りすらない小屋の中央には、誰かが寝ていたようで、俺が立ち入ると上半身だけを起こした。
弱々しい声は女性のものだったが、べったりとした茶髪が寝乱れていて、元はドレスであったろう服は汚れきって茶色くなっている上に裾が擦り切れてぼろぼろだった。
(――っ)
彼女の顔を見て、俺は息を飲んだ。俺から見て顔の右半分が、こぶし大に腫れ上がっていたからである。彼女の左目は、腫れのせいでほとんど塞がってしまっていた。
「失礼しました、見苦しいものをお見せして」
俺の様子を見て、彼女は恥じ入るように顔を背けた。腫れた顔半分が、俺に見えないように。
容姿に驚いたことを気取られるとは、俺としたことが失態である。
「その、傷は?」
「殺人蜂に刺されました。三日前のことです」
彼女が、唯一殺人蜂の被害を受けた村民だとムール村長は言っていたっけ。
無事な方の顔からすると、整った容姿であったろうに、無残に腫れ上がって見る影もない。
「村の恩人様、よろしければお相手致します。お代は結構ですので。顔も、している最中は手で隠しておきますので」
顔半分を片手で覆い隠しながら、残った手で俺を寝所へと導く彼女である。俺の手に触れた彼女の手は、火が点いたように熱い。
「いやいやいや、すごい熱だよ、寝てなって」
「身体が熱いだけですので、平気です。村の男衆の相手をするのが、仕事ですし。顔が気になるなら、見えないように後ろからなさりますか?」
言うや否や、四つん這いになって汚れた服の裾をまくり上げる彼女であった。
「うん、気持ちだけ有難く貰っておくよ。でもごめんね、抱きたいのは山々だけど、蜂にあちこち刺されて俺も血だらけなんだ。また今度、頼めるかい?」
なるべく彼女の自尊心を刺激しないように言葉を選んだつもりだったが、しばらく四つん這いのまま固まっていた彼女は、床に突っ伏して泣き出した。
「やっぱり、この顔じゃあもう、誰も私を抱こうと思わない――」
震える声でさめざめと泣く彼女である。
個人的には病人を抱きたくなかったということもあるものの、衛生面がより強く気になったのだが、それは言わないでおこう。追撃をかけるのも不憫だし。
「お湯でございます――やや、お客人、どうされました。やいムームー、大事なお客様だと言っただろう。伽ができないなら、畑仕事に回ってもらうぞ。分け隔てはできゃせんのだ」
「すいません、すいません――」
「ああ、いいよいいよ。先にお湯が欲しかっただけだから。また後で来てくれるかい?」
取ってのついたバケツのような陶器を、村長の手からもぎ取る。
俺のせいでこの子が怒られているみたいで、居心地が悪い。
「ほら、起きて」
村長が去ってしまってから、俺は陶器の縁にたたまれていた布に湯を浸して絞った。湯はまだ熱く、床に置いたバケツからはほかほかと湯気が立っている。
ムームーという名の彼女の上半身を左手で支え、右手に持った布で顔を拭ってやる。腫れている部分には触れなかったが、無事な方の顔半分は、涙で溶けた汚れが面白いように落ちた。
「そんな、いけません。私が致します、後ろを向いてくださいませ」
しばらく為すがままにされていた彼女は、あるときふっと我に返り、俺の手から布をもぎ取った。抵抗するのも彼女への負担が大きいかなと思い、素直に渡す。
「辛くなければ、背中を拭いてもらっていいかい? 無理しないでいいから、しんどかったら寝てていいよ」
仕事を任されたのが嬉しかったのか、ほんの少し笑顔を取り戻した彼女は、くるりと背を向けた俺を見て、布を取り落としてしまった。息を飲む気配が伝わってくる。
そういえば、彼女に見せていたのは、ほぼ無事な正面側だけだった。ワイシャツの背中側は、血で染まってしまっていたはずだ。
「ごめんごめん。今脱ぐから」
べったりと背中に張り付くワイシャツを脱ぎ捨てて上半身裸になると、ちょっと爽快だった。もっと早く脱いでしまえばよかったかもしれない。
「血は平気? 苦手なら自分でやるから言ってね」
いえ、大丈夫です、と呟いて、彼女は俺の背中をごしごしと擦りはじめた。
すぐ汚れてしまうのか、頻繁に湯に浸して布を絞っている。
「穴みたいな傷が、たくさんあります。これ、ひょっとして、蜂の?」
「うん。殺人蜂にめっちゃ刺されてさ。防具着てくるべきだったね」
ははっ、と笑って場を和ませようとしてみたのだが、彼女が笑った気配はない。
「蜂に刺されたって言ってたの、嘘じゃなかったんですね――私を抱きたくなくて言ったんだと思ったのに。でもどうして? 私みたいに腫れてない」
「俺さ、毒とかには強いんだ。君には悪いけど、俺にとってはただ針で刺されて痛いだけさ」
彼女はそれきり押し黙って、布で俺の身体を擦り続ける。同じく蜂に刺されたのに、彼女だけがあんな風になってしまった不平等を感じさせたかもしれないので、俺は話題を変えることにした。どうも先ほどから、裏目に出てばかりである。
「村長からの扱い、悪くないかい? 男衆の相手をするのも大変な仕事だろうに。
君が顔を怪我してから、手のひらを返したみたいに見えたけど」
「村長のムールは、私の父です。身内だから、厳しく扱わないといけないんです。村長が率先して嫌な仕事をしてるから、大きな決断に村のみんなが従ってくれるんです」
ごしごしと背中をこすりながら、ムームーはぽつりと呟いた。
「誰だって、村のみんなに使いまわされる女になんてなりたくないです。誰もやりたがらないから、私が立候補したんです。父の立場からしてみれば、自分の家にいい年の女がいるのに、他の家から強制的に指名して出させると、恨みが残りますから。初めて客を取る晩に、父は私に頭を下げてくれました。それでいいんです」
彼女の話を、俺は黙って聞いていた。背中を擦る音と、時おり湯に布を浸して絞る音が、狭い小屋の中に響いている。
「ケツはいいや、恥ずかしいし」
彼女がズボンを下ろそうとしたところで、俺は止めた。尻も血まみれだが、どのみち街に帰ったら一度風呂に入ろうと思っているのだし、目立たない後ろ半面はそのままでいいだろう。ワイシャツと違って、通勤用の黒いズボンは血の色が目立ちにくい。
「あら」
ふとした拍子に、彼女の手が俺の股間に触れた。ここのところ、刺激に飢えていた下半身は、そんな些細な接触ですら反応してしまう。触れて明らかに分かるほど、ズボンの前は張っていた。
「その――触れるのがお嫌なら、口で致しましょうか?」
いや、そこまでしてくれなくても、と言いかけて、俺は口を噤んだ。
彼女にとって、これは仕事であり、男性の相手ができるかどうかは、自身の商品価値に関わるのである。
下半身が反応しているのに求められないとあっては、かえって彼女が傷つくのではなかろうか。
「嫌でなければでいいんだけど――お願いしていい?」
嬉しそうにはい、と笑顔で答え、彼女はいそいそと俺のズボンを下ろし始めた。
「お客人、巣の解体が終わりました、確認して頂いても?」
小屋の中を覗きにきた村長は、下半身をさらけ出した俺と、股間の前に膝をついたムームーの姿を見て、にかりと笑った。村長としては、村の女が俺の接待に成功してご機嫌なのかもしれないが、俺としては気まずい。
ちなみに事後であり、溜まりに溜まった俺のほとばしりを受けて、ムームーが咳き込んでいる最中である。
「ああ、ご苦労さん。全部売ればいくらぐらいになるかな?」
巨大な巣からどんな素材が取れるかはわからないし、相場も知らない俺である。
「へへ、あの女王蜂、巣にかなり蜜を溜め込んでましたんで、器に十二杯も取れました。蜂の子もぷっくらと肥えてるのが三十匹ほど。諸々で、多分ですが100,000ゴルドは下りませんや」
日本円にして二十万か。人間一人の値段としては、安すぎるかもしれない。
「村長、提案があるんだが。ここに、殺人蜂から取れた魔石がある。五十個はあるだろう。女王蜂の魔石と合わせて、100,000ゴルドにはなると思うんだが――これと、蜂の素材全部。これらと引き換えに、ムームーを連れて帰りたいんだが」
俺の背後で、当の本人であるムームーが驚いた気配が伝わってくる。
「へえ、そりゃ願ってもない話ですが――よろしいんで?」
「ああ。それじゃあ交渉成立だ。素材は好きにしてくれ」
即決とは思わなかった。値上げ交渉をされれば、多少の現金は付け加えるつもりでいたし、逆に村の一員だから、とか自分の娘だから、と断固拒否されれば大人しく引き下がるつもりだった。
「こっちとしても、いきなり畑仕事をさせても使い物になりゃしませんし、その顔じゃあもう客も取れないと諦めてたとこなんでさ、助かります」
背後で、ムームーが息を飲む気配が伝わってきた。
表情からうすうす察していたが、この村長は、下卑ている。
読み書きができ、礼儀作法もあるのに、仕種がどことなく品がない。
ムームーの話によれば、元は聡明な村長であったらしいから、貧すれば鈍すで、苦しい生活が少しずつ彼から余裕を奪ったのかもしれないし、彼だけの責任ではないのかもしれない。
しかし、彼がもはや、ムームーを娘ではなく、村を構成する要素の一つとしか見ていないのは明白だった。
「じゃあ、行こう、ムームー。大事な品があれば、持っていこう。もうここには来ないから」
彼女の手を引いて歩き出しても、彼女はまだ夢見心地のようで、ふわふわと視点が定まっていない。
途中、村長の家に寄って、預けていた長剣を腰に吊る。殺人蜂を斬った血糊がそのままだったから、家に帰ったらこれも掃除しないといけない。
「あの村では、君は幸せになれないよ。忘れろとは言わないが、忘れた方がいい」
村を出てからも、後ろ髪を引かれているのか、時おり振り返って村の方を見る彼女に、俺はそう告げた。
しかし、何だろうな。
もう女については満足したと先週までは思っていたのに、やってることは日本にいたころと変わらない。早速、家族が一人増えてしまったではないか。
汚れたワイシャツはムームーの家に脱ぎ捨ててきたので、今の俺は上半身裸である。加えて、連れの女は全身汚れた病人である。足取りは確かなので、本当にただ熱があるだけなのだろうが。
「まあ、そんな成り行きもあるわな」
呟きながら草原を歩く異装の俺たちを、向かい風が撫でていく。爽やかな風であった。




