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望月素新 1

 ぱちりと目を開けると、雲ひとつない青い空が広がっていた。

 すぐにでも起き上がろうと思っていたが、吸い込まれそうに雄大な青天から、しばし目が離せなかった。


 ここ最近は、私も仕事やら家庭の困窮やらであくせく生きてきたから、空を眺める余裕なんてなかったなあと、私はのどかな気持ちになる。


「そっか。私、死んだんだ」


 この深く遠い空を眺めているとなぜか、自分が死んでしまったのだという実感が湧いてきた。

 もう、家族に会えはしないのだ。苦労していた母も、あんなことをしでかした父も、土建屋のちょっとバカっぽいけど親切で気のいいお兄ちゃんたちも、恩義ある社長も、こっちの世界にはいないのだ。


 目尻に涙がにじんだ。一筋の雫が頬をつうっと伝うのを、私は青空を見上げたまま拭いもしなかった。


「んっ」


 しばらく大の字で空を眺めていた私は、寝転がった体制から足を上げ、反動で勢いよく立ち上がった。

 

 地球にいたころ、この体勢から、手を使わずに起き上がれるのがちょっとした自慢だったものだ。


「へぶっ」


 勢いがつきすぎて、起き上がるどころか半回転して草むらに顔面から落ちた。勢いが良かったので鼻の頭が痛い。感傷とは打ってかわった物理的な痛みで涙をにじませながら、私は立ち上がった。

 

「そっか。身体能力が上がってるから、いつもと違うのか」


 私はポニーテールに結った頭をぱっぱと払ってから、袖についた草を払おうとして――私が着ているものが、地球でお世話になった、土建屋の制服であることに気がついた。ガスや水道の作業員が着ているような、上下とも黄土色の簡素な作業服。


 女性用の制服なんて用意していない職場だったから、私はいつも私服のシャツとかで仕事をしていた。一人だけ違う服で仕事をするということが、なんだか仲間外れの象徴のようで、私は内心、あの無骨な作業服を着たいと思っていたのだった。


「神様の心遣いかな。これだけは有難く貰っておきます」


 ぺこりと、私は青空にお辞儀をするつもりで頭を下げた。

 私たち転生者は劇の出演者らしいから、観客もどこかで観ているだろう。


 私は、まるでここを歩けと言わんばかりの、遠くの街並みへと続く道を歩き始める。起き上がった草むらからすぐのところに、左右に伸びていた綺麗な道だ。しっかりと石畳で舗装されて、馬車が二台も並んで通れそうな広い道。


 ファンタジーの世界だと言っていたから、舗装の行き届いていない土の道を予想していただけに、少し驚いた。予想よりも文明が進んでいるのかもしれない。


(首都のそばだからかな?)


 遠方の街に行けば、私の想像していたような未舗装の道路なのかもしれない。


 真っすぐ首都へ続く道を歩きながら、ふと私は背後を振り返ってみた。 


 平地に作られた道は、左右を膝丈ほどの草原に囲まれて、これまた真っすぐどこまでも続いている。


 ぐっと目を凝らすと、はるか先で、石積みをしている何人かの作業員の姿が見える。豆粒どころか、砂のように小さな小さな人影を、しかし私は全身まではっきり捉えることができた。彼らにとっての作業服なのか、すっぽりと頭からかぶるローブのような一枚布の服を着て、服の前を汚しながら石積みをして街道を作っていた。


「本格的に常人離れしてるなあ、私」


 あの作業場まで、一体何キロあるのだろう?

 空気が澄んでいて遠くまで見渡せるのだとしても、いくらなんでも見えすぎだ。 

 砂のように小さくなった人の全長を、くっきりと服装まで見分ける私の視力は一体いくつあるんだろう。取得した特典の中にある、視力強化の恩恵であることは疑いようもない。


「それに、これ」


 どれぐらい早く動けるのか試そうとして、試しに何もない虚空にジャブを放ってみた。いつだったか、同僚と笑いながら同じことをしていた土建屋のお兄ちゃんを真似してみたのだが――扇風機みたいなぶうんという風切り音を立てて、ランマーみたいに素早く腕が動いた。ちなみにランマーとは、道路工事で地盤を緩めるために使われる、上下に激しく動くドリルみたいな機械の名称である。


 あたしは二の腕をぷにぷにとつまんでみた。作業場に行くお兄ちゃんたちとは似ても似つかない、細くて筋肉の少ない腕だ。こっちの世界に来てから色が変わったのか、なめらかな白い肌だ。

 

 どう考えても、ボクサー顔負けのマシンガンジャブを繰り出せるような腕ではない。運動らしい運動をしていない、ひょろっとした腕だ。


「これがレベルの恩恵か。すごいなあ」


 数値だけで見れば、私の敏捷は修正値込みで57で、平均男性の6倍近い。

 この身体は、地球人類の最高峰のスペックを備えているようだ。


「ま、使わないに越したことはないんだけどね」


 神様から貰った特典には、この肉体も含まれるだろう。なるべくなら、身体能力を活かさない仕事をしたかった。頭脳だけで何とかなるような、事務系の仕事がいいかなとも考えたが、それはそれで異世界言語・記述という全転生者にただで配られた特典を活用しているようで気が進まない。


 読み書きがなくて、身体を使う仕事でもなくて、やりがいのある仕事。

 そんな都合のいい仕事がほいほい転がってるかどうかはともかく、探してみるだけは探してみよう。もっとも、夜の仕事だけは御免だった。十三歳の身空で、まだ肌を売りたいとは思わない。 




「大きいなあ、さすが首都。といっても、他の街の様子なんて知らないんだけど」


 考え事をしていたせいか、すぐに首都の入り口へは辿りついた。

 広大な城壁都市である。強化された視力を持ってしてもどこまで続いているかわからない高い壁、大きな城門。


 開かれた門の天井は逆U字型のトンネルのようになっていて、馬車の四、五台は積み上げても通れるほどに高い。やはり横にも広くて、大きめの馬車がすれ違えるほどだ。


「通行料は500ゴルドだ、すぐ取り出せるよう準備しておくように。現金がなければ魔術紋を刻印する。その場合は別の列に並ぶように」


 魔術紋、と聞いて私は首を傾げる。日本で暮らしていたころには縁のなかった魔法と、初めての対面であった。


 私は悩む。


 作業着のお腹のあたりには、元々ポシェットのような収納があって、そこから硬貨が触れ合う音がする。おそらく、神様から特典としてもらった2,500,000ゴルドとかいう通貨が入っているのだろう。

 500ゴルドぐらいならば難なく捻出できてしまうが――しかし私は、極力このお金には手を付けたくなかった。これは自分で稼いだお金ではない。転生者同士の戦いに巻き込まれるようなことがあれば仕方なく使おうと思っていた予備のお金である。入場料も、可能ならば自らの手で稼ぐべきだった。


 私は意を決して、魔術紋を刻印するとかいう別の列に並ぶ。


 しばらく悩んだが、私の前に並んでいるおじさんに声をかけ、魔術紋とは何なのかを聞くことにした。


「手の甲に、判子ぐらいの小さな印を刻むんだ。借りた金を返さなかったら、その刻印が燃え上がって火傷になり、皮膚に痕が残る。その痕が一つでもあると、社会的な信用がなくなるから気を付けるといい。兵士とか役所とかの公的な仕事には一切就けなくなるし、借金もできなくなるからね」


 細く引き締まった、浅黒い筋肉のおじさんは快く答えてくれた。城壁の外に畑を持つ農夫らしい。もみあげからあごまで繋がった短い髭は、ほとんどが白髪で、精悍な顔に刻まれた皺とあわさって実に渋い。


「お金を返したら、その刻印の痕っていうのは消してくれるのですか?」


「一度期限が過ぎてしまったら、痕を消す方法はないね。期限内に金を返しさえすれば、魔術紋は跡形もなく消えるから大丈夫だ――しかし、珍しいね。城門の外に出るのは初めてかな? 魔術紋を知らないなんて」


「あはは、色々事情がありまして」


 私は笑って誤魔化す。彼も、それ以上は突っ込んで聞いて来なかった。


「そんなことより、その服装が何なのか教えてもらってもいいかね? 見慣れない服装で、気になっていたんだが」


 彼は私の全身をじろじろと眺め回した。興味津々といった体で、いやらしい感じはしない。


「これは、作業着ですよ。軽くて破けにくい上に、ポケットが多くて収納が多いんです。かいた汗もすぐ乾くし、とても良い物ですよ」


 吸汗速乾の、半袖作業服。これを買い出しするために、何度も作業服屋に足を運んだものだ。 


「ほう。それが本当なら、すごいものだ。どこで売ってるのかね?」


「ええと、どういえばいいかな。非売品なんです。故郷の人が作ってくれたんですが、もう手に入らないものでして」


「そうか、ぜひ一着買ってみたかったのだが――聞くが、譲ってくれる気はないかね?」


「申し訳ありませんが、売る気はありません。思い出の品でして」


 残念そうに、彼はがくっとうな垂れた。短く刈り込んだ頭は白髪の方が多く、もう初老だろうに、どことなく動作に愛嬌があるおじさまである。 


「それにお金もないんでしょう? でなきゃ、この列に並ぶはずありませんし」


 500ゴルドが払えるなら、普通の列に並んでいるはずだった。

 魔術紋を刻印するための列は歩みが遅く、並んでいる人々の目付きにも、たまに剣呑なものがある。身なりも、浮浪者のようなぼろぼろの布をまとっていたり、喧嘩でもして負けたのか、顔面を腫らして下帯一枚しか身にまとっていない若者など、様々だ。


 その中にあって、このおじさまの邪気のなさは際立っている。


「いやあ、財布を忘れて出てきちまってな」 


 がはは、と脳天気に笑うおじさまであった。こういう、渋みのある明るい大人を、私は好きである。


「そういえば一つ聞きたいのですが、中に入ったら仕事を探したいのですけど、心当たりありませんか? 役所にでもいけば日雇いの仕事とかありますかね?」


「なんだ、嬢ちゃんは身寄りがないのか?」


「ええ。今晩泊まるところもないですし、持ち合わせもなくて」


 彼の口調は、いつの間にか砕けてきていた。そしてそれが、まったく気にならない。表情に険のない人物を選んで話しかけたつもりだが、私の目は間違っていなかったようだ。良い話し相手になってくれている。


「冒険者ギルドで取り扱ってるのは、道を作ったり石を積んだりする力仕事ばかりだからなあ。嬢ちゃんの細腕じゃ辛かろう。街の掃除みたいな楽な仕事は、早朝になくなっちまうし。おっしゃ、働き先はわしが紹介しよう。これも何かの縁だろう」


「いいんですか? ありがとうございます」


 思わず笑顔がこぼれた。こんなにすぐ生活の目処が付くとは思わなかった。なんという幸運だろう。


「あ、でも水商売はちょっと」


「何言ってやがる。真っ当な商家だよ――お、順番が来たぜ。先に行ってるから、追いついてきな」


 握りこぶしぐらいの鉄の塊を番兵が差し出し、机に置いたおじさまの手に押し当てる。うっすらと鉄の塊が光り輝いたかと思うと、その光が収まったころには、おじさまの手の甲には十円玉ぐらいの赤い魔方陣めいたものが付けられていた。これが魔術紋というやつなのだろう。


 ひらひらと手を振りながら、おじさまは一足先に城壁の中へと消えていく。






 首都に来るのは初めてだと告げたところ、おじさまは道すがら街の全体図を説明してくれた。


「草原の街グラスラードや鉄火街フラマタルなんかもそうなんだが、ここ首都ピボッテラリアにも中央に川が一本通ってる。と言っても、遠くステュクス山脈から流れてきた川だから、あまり綺麗じゃないんだがな。専ら下水を引くのに使ってるよ。まあその、川を中心にして東側に公的な機関が集中してて、西側は商店街とか住宅地が多いな。なんでそうなったかわかるかい?」


 ふるふると私は首を横に降った。この世界の常識なんて知るわけがない。


「東側が、大陸の中心に近いからさ。あっちは魔物の出現頻度が高いから、兵士が必要になるだろ。そういう兵士の宿舎とかのそばに役所ができたりして発展したのが東側、逆に安全に住む土地として発展したのが西側だ。俺と嬢ちゃんが入ってきたのも西門さ。西門の外は農地とかになってて、俺もそこに畑を持ってるのさ」


 おじさまは、腰に吊った鎌を、見せ付けるようにぽんぽんと叩いてみせた。


 平民の一般的な私服であるらしい一枚布のトーガではなく、おじさまは土色のシャツに股引きとエプロンという、気合の入った農夫姿である。


「着いたぜ、ここだ――ちょいとごめんよ」


 おじさまのコネがあるという商家は、西門から二十分ほども歩いた、ビジネス街めいた一画にあった。このあたりの建物は、商店街や住宅街のそれと違い、総石造りや煉瓦張りの立派なものも珍しくなく、しかもほとんどが四、五階建てぐらいある巨大なものだった。

 道行く姿も、紫色のトーガに襟巻きをしていたり、金銀の指輪などを身につけた身なりの良い人々が多く、鎌や種籾の入った袋をぶら下げた農夫姿のおじさまがぶらりと立ち入るには似つかわしくないことこの上ない。


(良かった、仰々しくないところで)


 おじさまが立ち止まった建物は、赤い屋根に漆喰で白く塗られた壁の、三階建てぐらいの建物だった。他の区域のそれと比べるとこれでもじゅうぶんに立派なものだが、このビジネス街に建ち並ぶ重厚感の強い建物の中にあっては、まだ小市民的というか、圧迫感のないものである。


 私の職場になるかもしれない場所があまりにも立派なところでは萎縮してしまいかねなかったので、ほど良い立派さに私はほっとする。


 建物の二階あたりから、道の上空に突き出されるように鉄細工の看板が掲げられていて、そこにはふちから液体を溢れさせている壷の絵と、「カナン商会 事務街支部」という屋号が描かれている。


「すまんが、ライオット様を頼めるか?」


 おじさまが大きな両開きの木の扉を開けると、カウンターのような仕切りの奥にいくつもの机が並んでいて、十人以上もの人々が歩いたり、椅子に座って書類と格闘していたりした。


 そのうちの一人がおじさまの姿を認め、部屋の隅にある階段から二階に向かって声を張り上げた。

 

「ライオット様、お客様です。シュテファン様がいらっしゃってますよ」


 なるほど、確かに顔が効くらしい。農夫姿にも関わらず、従業員から様付けで呼ばれている。


「おじさま、シュテファンって名前なの?」


「おう、そういえば言ってなかったな。わしの名前はシュテファンだ。このカナン商会の、会長の長男の世話係をしていた。この支部を任されているのが、わしが世話をしたその長男でな」


「さて、いくらなんでも四十は離れていそうなお嬢さんを連れてくる人を知り合いとは呼びたくありませんが。じいや、今日は一体何事です? まさかいい歳をして恋煩いの相談ですか?」


 いつの間に階段から降りてきたのか、カウンターの奥から一人の男性が進み出てきていた。理知的な瞳に眼鏡モノクルをかけた、涼しい印象を受ける若い男性である。この世界にも美容院があるのか、カジュアルな短めの茶髪だが、軽薄そうな印象はなく、やり手のビジネスマンのような空気を漂わせている。


「おう、ライオット様。わしが辞めてから半年になりますが、変わりありませんかい?」


 ばしばしと元主人の肩を叩くシュテファンおじさまだった。ずいぶん距離感の近い主従である。


「いたっ、痛い。やめてください馬鹿力で叩くのは。相変わらず野蛮ですね。いまさらですが、なぜ父はあなたを僕の世話係にしたんでしょうね。知性の欠片も感じられない」


「何言ってんですか、おねしょの掃除まで人にやらせといて。ライオット様みたいな自分の殻にこもりがちな根暗には、世話役はわしで適任ですよ」


「はあ、相変わらず、色々と最悪ですね。で、今日の用は一体何ですかじいや」


 そうだったそうだった、と言いながら、シュテファンおじさまは私の背後から両肩をつかみ、ずいっとライオット氏の方に押し出した。


「何十分か前に会ったばかりなんですが、このお嬢さんと馬が合いましてね。事情があって色々言えないことがあるらしいんですが、ここで雇っちゃもらえません?

宿も手持ちの金もないそうです」


 シュテファンおじさまの説明を聞くなり、皺を寄せた眉間を揉み始めるライオット氏だった。しばし、私を見つめながら彼は考え込む。


「いいでしょう。要件はそれだけですか?」


「お、いつになく即決ですな。普段なら他商会から派遣された盗諜者の疑いがどうのこうの、難しいことを言うのに。さては好みでしたか? これはわしもいい仕事をしましたなあ」


「相変わらず品がないですね。茶でも出そうかと考えてましたが、いらないようですね?」


「普段なら頂くとこですが、生憎畑仕事の帰りであちこち汚れてましてね。これから風呂でも入って、麦酒エールでも呷ろうと思ってますよ」


 はは、とライオット青年は爽やかに笑う。その笑顔に悪感情はなかった。本当に仲が良い主従のようだ。


「隠居生活を満喫してるようで何よりです。畑には何を?」


「麦っていうのも面白みがないんで、トマトの苗を植えました。もう先月の話なんで、今は草刈りと水やりだけなもんで楽ですわ」


「実が成ったら、持ってきてください。かわりに酒でも出しましょう。最近取り扱いはじめた葡萄酒の蔵元が、いい酒を卸してくるんですよ」


「ライオット様の商売も順調なようで何よりですな。見習い明けでいきなりこの支部を任されたのに、売り上げも良くなったって聞きましたし」


「小手先の改善しかしていませんよ。今にもっと大きなことをして見せます。もちろん、堅実に足場固めはしないといけませんがね」


 うんうん、と頷くシュテファンおじさまも、息子を見るように目を細めていた。割り込むのも不粋かと思い、しばし二人の会話に耳を傾ける。


「ほれ、女性を待たせるとはライオット様もまだまだ未熟ですな。そんなだから浮いた話の一つも出てこないんです。老体はとっとと退散しますので、後は任せましたぞ?」


「浮いた話がないのは、守りが堅いと言って頂きたいですね。巨大商会の跡継ぎって立場、何かと苦労が多いんですよ? 付き合う女性の身辺調査は怠るなって親父がうるさいんですから」


「なんです、またいい所に連れてって欲しいんですかい? いけませんよ、独り立ちしたなら女遊びぐらい一人でやって頂かないと」


 だんだんと男同士の会話になってきていて、ライオット青年は苦笑した。


「最近はそれどころじゃないほど忙しいんですよ。最近は馴染みのあそこにも行けてないですし」


「お、そうでしたかい。そいつは申し訳ないことをした、ご迷惑でしたかい? 何なら嬢ちゃんの面倒、こっちで見ますが」


「他ならぬあなたの頼みです、お安い御用ですよ。仕事の合間を見て身の振り方まで考えておきます」


「そう言ってもらえると助かりまさあ。それじゃあ長居しても悪いんで、このへんでおいとましときます」


「ええ、もういい歳なんですから身体にはお気をつけて。飲みすぎはダメですよ」


 手を振り振り、シュテファンおじさまが去ってしまうと、ライオット青年は私の方に向き直った。


「さて、現状の確認です。泊まる宿も、手持ちの金もない。しばらくここで働いてお金を稼ぎたい、これで間違いありませんか? シュテファンの紹介とはいえ、働く以上は怠けさせるわけにもいきませんし、公私の区別は付けて頂かないと困りますが」


「はい、そこは大丈夫です。厳しく指導して頂いて構いません。よろしくお願いします」


 深々と頭を下げると、ライオット青年は少しだけ目尻を細めた。

 こちらへ、と彼が先導するのを追いかけ、店内の階段を上がる。


「事務所の二階は、私の居住する寝室と、部下たちの仮眠室、会議室と物置となっています。一階は入り口すぐが事務仕事をするための空間で、それ以外に応接室、トイレ、台所ですね。本業である商会の事務に関しては手出ししないでください。当面は雑用と掃除をしてもらいます」


 二階はライオット青年の自宅を兼ねているということもあり、大半が彼の使用スペースだったが、それでもコンビニなどより一回り大きい事務所のことだから、それ以外の部屋も多い。


 彼は一列に並ぶいくつもの扉のうち、最も奥のそれを開けた。三畳ほどの狭い部屋に、縦長のベッドが一つと、枕元から手を伸ばせるように小さな机が一つ置かれている。


「本来は仮眠室として使っていますが、こちらをあなたの部屋として使ってください。同じ階で私が寝起きしていますので気になるかとは思いますが、部屋には鍵をかけられますので。狭くて恐縮ですがね」


「いえ、とんでもありません。ありがとうございます」


 安定した宿を無料で貸してもらえるなど、素晴らしい待遇だと思う。

 雑用や掃除は日本にいたころも仕事としてやっていたし、期待に応える働きをしてみせなければ。


「ところで一つよろしいですかね。自分のことを語りたがらないそうですが」


「はい、なんでしょう?」


 彼が信用できる人物であれば、地球から転生してきたということを打ち明けてもいいとは思っていた。

 しかしまだ早い。お互いの人物を見極めてもいないのだ。この段階で素性を追及されてしまっては、言葉を濁して誤魔化すしかないと、私は腹をくくった。


「お名前、よろしいですか? まだ伺っておりません」


 私は赤面した。自己紹介を忘れるなど、何としたことだろう。

 そういえば、シュテファンおじさまにも名前を伝えそびれているではないか。


「ソアラです。呼び捨てにして頂いて構いません」


「ソアラさん。良い名前です。これからよろしくお願いしますね」


 こちらこそ、と頭を下げながら、良い名前だと言われたことについて考えた。

  

 素新という、まるで当て字のような強引な名付けが、私はいまいち好きではなかった。しかも名前の由来は、父が当時憧れていた自動車のブランド名だと言う。


 そんなものを娘の名前に付けないで欲しい、と苦情を言ったことがあるが、母によると、太陽という意味もあるからいいと思ったのよ、などと諭されて黙り込んでしまった記憶がある。


 なるほど、素新ではなくソアラ、と横文字にすると、この世界にはぴったり合っているような気がした。

 

 ライオット青年の、良い名前ですという言葉が再び思い出される。

 生まれて初めて、自分の名前が好きになれそうだった。

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