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望月素新 生前

 望月素新もちづきそあらの人生は、中々に壮絶なものであった。享年は十三歳である。


 彼女が生まれ育ったのは、関東平野の最南端、神奈川県に位置する港町である。

 江戸時代末期に、黒船の来航やら鎖国やらで一躍脚光を浴びたらしいその土地はしばらく造船所として栄え、敗戦とともに寂れて田舎になった。


 素新の生誕とほぼ時を同じくして造船所も閉鎖されてしまったこの土地は、娯楽施設の少ない場所であった。平成の時代にあっては、若者はみな街から電車に乗って北上し、繁華街の横浜や米軍基地のある市の中央に繰り出すのだ。


 しかし、彼女はほとんどそんな遊び方をしたことがない。する余裕がなかったと言ってもいい。


 ある日を境に、彼女の人生は一変した。

 働き盛りの父が、職を失い、家族は貧困に陥ったのだ。父は仕事のストレスで、心を病んだのである。

 

 父母ともに健在な家庭ではあったが、収入のほぼすべてを彼女の父に頼っていたので、たちまち一家は困窮した。若くして年上の女性を妻にした彼は給料もそこまで高くなく、貯蓄も乏しかったのだ。


 彼女の母の浪費癖もあったかもしれない。普通の家庭と比べれば慎ましい小遣いの範囲内で金を使っていただけだから、それを浪費と責めるのは酷かもしれないが、若くして子を一人抱えての生活には余裕がなく、貯金は少なかった。


 彼女の母は、ちょっとしたお嬢様だった。といっても、中流階級で丁寧に育てられた箱入りの娘というに過ぎないが。

 そんな彼女は、年下の男の熱烈なアプローチを受け入れ、嫁ぎ、母となった。


 夫が心を病み、引き篭もるようになってから、家計の一助となるべく彼女は働きに出たが、上手くいかなかった。家事に遺漏はない主婦ではあったが、専業主婦の座に胡坐をかいていたので、世間の機微はわからなかった。

 

 職については、人間関係が辛いと言い、最初はすぐ辞めてきたりもした。

 家計が切羽詰ってきてからは鬼気迫る形相になりながらも働いた。


 子供ながらに、両親の様子がうすうすとわかっていた素新そあらは、なぜ夫を、彼女にとっては父を捨てないのかと聞いた。それほどに、母に溜まっていく労苦が目に見えたのである。


 彼女の母は、娘に心配をかけていたことに気づき、最初は苦笑した。それでも、今まで食わせてきてくれた父を追い出し、国の世話になってのうのうと生きる気はないと、きっぱりと言い切った。それ故に娘に苦労をかけると言われても、妙にほっこりした気持ちで素新は受け入れたものだ。


 素新は、自らの意志で、中学生の身でありながら働き口を探し始めた。十二歳のころである。

 

 いまどき、そんな幼い子を働かせたがる会社はない。新聞配達であれ、牛乳配達であれ、昔は苦労する子供の働き先、その象徴であったものだが、ここのところは社会の目も厳しく冷たく、どこも素新を雇おうとはしなかった。


 見かねた彼女を、自分の会社の元に拾ってくれたのは、近所に住んでいた土建屋の社長だった。ほとんど面識のない男である。年は四十の半ばを過ぎた、素新から見れば近所のおじさんでしかない。


 彼との出会いは、素新がまだ小学校の高学年にもなっていない数年前に遡る。

 当時、彼女は男友達と混ざってキャッチボールや野球で遊んでいた。異性を意識する年齢ではなかったが、身体能力や腕白さで劣る彼女は、いまいち同い年の男の子たちと遊んでいても面白くなかった。


 本当は、野外で遊びまわるグループではなく、携帯ゲーム機で遊ぶグループに入っていきたかった。しかし、素新の父は、ゲームは家でやれ、外では身体を使って遊べ、が持論だったので、外にゲーム機を持ち出して遊ぶ子供たちの輪に手ぶらで入っていきづらく、仕方なくボール遊びをする子らの中で遊んでいた。それが原因で、彼女は父を恨んだこともある。


 あるとき、ボール遊びの最中に、あらぬ方向に飛んだ玉が近所のおじさんの家の鉢植えを割ってしまったことがあった。


 何万もする盆栽とかではなかったようなのだが、大切にしていた鉢だったらしく、彼は激怒して素新たちを追い回した。


 素新はうまいこと逃げ切れたものの、そのおじさんに顔を覚えられてしまっていた。家まで怒鳴り込んでくることはなく、しかし近くを通りがかれば厳しい目で睨んでくるので、その道は迂回し、通らないようになっていった。

 

 中学生になり、父が病んで経済難に陥ってしばらくしたある日のこと、素新はふらふらと家路を歩いていた。

 中学生でも就ける職というものが見つからず、途方に暮れた学校の帰り道で、無意識のうちに素新は、普段通らない最短距離を選んで家へ帰ろうとした。


 よほどひどい顔をしながら素新は歩いていたらしく、珍しく表情に険のない鉢割れのおじさん(素新は内心そう呼んでいた)に呼び止められ、聞かれるままに彼女は事情をぽつぽつと話した。母が苦労していること、父が病んでいること、自分は仕事を探そうにも、学業に影響が出るからと学校が許可を出してくれないこと。


 素新としては、学校には行けなくても良かった。学校に行っていたはずの時間で、働きたかった。 

 

 いくら公立の中学校とはいえ、給食費は払えない、満足な文房具も取り揃えられないのでは、学校には居づらかった。家族が最低限食べていける金額は彼女の母が稼いでいたが、学費までとなると厳しかった。


 実際のところ、捻出しようと思えば、学費ぐらいは出せたかもしれない。

 ただ単純に、今まですべてを取り仕切っていた彼女の父が病んでしまって、それらの手続きがほったらかしになっていたに過ぎなかったのだから。


 しかし、どれほど学校に居辛かろうと、素新は母に金の無心だけはすまいと心に決めていた。

 彼女はなんだかんだ父が嫌いではなかったから、そんな父を愛している母の姿も、正しいものとして受け入れることができた。協力しようと思ったのだ。生活が厳しい中で、娘である自分から金銭難を訴えることが母を苦しめるならば、例え学校で白眼視されようとも耐えていようと素新は思った。それが間違ったことかはともかく、彼女はそう決めた。


 素新が幼いころにボールをぶつけて鉢を割った近所のおじさんは、棟梁と呼ばれていた。

 近くの口さがないおばさんたちからは、「土方の」を付けて、棟梁と呼ばれていた。いわゆる、小さな建築系事務所の社長である。


 そのおじさんが雇ってやると言ったとき、素新は半信半疑であった。

 鉢割れの一件があったから、後ろめたさもあり、あまり良い感情を持っていたわけではないし、向こうもそうだろうと素新は思っていた。彼女を働かせるとしても、学校に通達もしないのだから児童の違法雇用である。


 社会が法で動いていることぐらいは素新にもわかっていたから、なぜそこを侵してまで自分を雇ってくれるかも彼女にはわからなかった。


 しかし、実際におじさんは、事務仕事の担当として素新を雇ってくれた。事務とは言っても、小さな会社である。書類を整理したり、備品を買出ししたり、お茶を汲んだり、そんな雑用をまかされていた。給料は日払いで、封筒に入った現金を帰り際に毎日渡された。もちろん、名目上は「お手伝い」に対する「お小遣い」であるから、給与明細などというものは入っていない。


 最初は、厳しく感じたように思う。それでも、土方のお兄ちゃんらが親身に面倒を見てくれ、親方もあれはあれで考えがあって厳しいんだよ、などと慰めてくれたり、実際に働く彼らを見て、社会一般の基準で言うと、驚くほど自分が甘やかされていることに気づいていくにつれ、やがて素新は、親方と呼ばれる近所のおじさんに親愛の情を抱くに至った。下心や打算ではなく、純粋な善意で彼女を雇ってくれたことが彼女にも伝わったのである。




 無理心中を図った父を、素新が恨めしく思わなかったかといえば、否であった。




 一人で死ねばいいものを、なにも家族まで道連れにすることはなかろうと、死の瞬間に思った。

 

 素新の父は、彼女と母を刺し、事切れた母と息も絶えだえな素新をこたつの中に押し込め、サラダ油や、使い古しの油入れの中身をすべて布団にぶちまけ、火を付けて蒸し焼きにした。


 半ばパニックになっていたのだろう。挙句の果てに、彼は逃げ出した。

 自分がどうやって死ねばいいかわからなかったのかもしれないし、単純に怖くなって逃げたのかもしれない。恐らくは、素新が苦しみの末に死んだ後も、生き延びていることだろう。


 それを、心の中で素新は許さなかった。すでに父ではなく、彼と心の中で呼んでいるのもそのためだ。せめてちゃんと無理心中をやり遂げ、自分も死んだならば納得が行くのに、と素新はため息がわりに吐血した。


 とはいえ、彼をそこまで追い詰めた原因の一つは、家族にもあるかもしれない、と彼女は思った。自分たちが弱さを打ち明けられる家族であり、彼の心の支えになれたならば、彼は思いつめることはなかったかもしれないと、素新は薄れ行く意識の中で考えた。


 もちろん、大部分の責任は、彼に由来するものであり、擁護の余地はない。しかし、心を病むまでに追い詰められた彼がしでかした凶行に、一定の理解は示す度量ぐらいはあると素新は思いながら、火にくるまれていった。

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