運動競技会
運動競技会の日が来た。
ウルリケは、あの事件の翌日こそ授業を欠席して一日静養したが、それからは普段通り登校していた。
レクトは心配していたが、ウルリケの体調は特に悪くは無さそうだった。
だが、その態度には、大きな変化があった。
今までほとんどレクトにしか見せることのなかった柔らかい表情を、ほかの生徒たちにも少しずつ見せるようになったのだ。
取りつく島もなかった冷たい態度が改められ、積極的とは言わないまでもクラスメイト達に徐々に歩み寄る姿勢が見られるようになった。
ケリーやデルマはその変化に戸惑った顔をしていたが、ライマーをはじめとする男子生徒たちは、「ウルリケって可愛いんだな」などと騒ぎ合った。
周囲と打ち解けようという姿勢さえ見せれば、ウルリケの美しく聡明な美点は誰の目にも明らかになるのだ。
ウルリケのその変化は、レクトにとってはとても嬉しく、そして少しだけ寂しいことだった。
別に最初から自分だけのものだったわけではないが、ウルリケの良さがみんなのものになっていくような寂しさ。
でも、それでいいんだ。
レクトはそう思い直す。
ウルリケが授業を休んだ日、いつにもまして集中して授業を受けたレクトは、放課後になると張り切ってウルリケの部屋を訪ね、自分で取ったノートを頼りにその日の授業の解説をした。
途中何度か、才媛のウルリケらしい鋭い指摘が入ってレクトがたじたじになる場面もあったが、それでも解説を終えるとウルリケは笑顔で「よく分かったわ。ありがとう」と言ってくれた。
その笑顔さえ見られれば十分だった。
大役を終えたレクトは、寮の外に出て大扉の前で、ある生徒の帰りを待った。
その生徒に尋ねてみたいことがあったからだ。
運動競技会。
一年生三クラス合計48名の生徒が校庭に集う。
教師による指示の後、さっそく競技開始となった。
まずは、障害物競走だ。
「一番注意しなけりゃならねえのは、三組のリッケンってやつだ」
障害物競走に出る生徒たちを集めてそう言ったのはラウディだ。
「あいつはブロキア人らしい」
そう聞いて、何人かが、ああ、と声を上げる。
「あのすごく背の高いやつか」
「足、速そうだもんな」
中原の西、険しいジェバの山々を越えた地に住まうブロキアの民は、独自の習俗とすらりと長い手足を持つことで知られていた。
一年生に一人だけ飛びぬけて背の大きい生徒がいることは、レクトも知っていた。
そうか。彼はリッケンという名前なのか。
三組の方を窺うと、一目見ただけでその生徒がどこにいるのかが分かる。
他の生徒よりも頭一つ分以上高いからだ。
確かに、足が速そうだ。
「とにかく抜群に速いんだってよ」
ラウディが言った。
「三組じゃダントツだそうだ」
「大丈夫よ」
そう言ったのは、ベルティーナだった。
「あんなに大きければ、植え込みには潜り込めないでしょ。普通の道を走るだけなら、どんなに速くたって」
その言葉に、ライマーとジルコが頷く。
「おう。俺たちに任せてくれ。なっ、ジルコ」
「ああ。俺たちも練習したからな」
二人で頷き合う。
どうやら、二人ともすっかり“ネルソンルート”を身に付けたようだ。
「俺たちは他のクラスの奴らの注意を引き付けて走る」
ラウディは言った。
「だから、お前らはできるだけ早く植え込みを抜けてゴールしろ」
「分かった」
ジルコが頷く。
「レクト、お前もな」
ラウディは言った。
「頼むぜ」
「うん」
ラウディが僕に、頼むぜ、だって。
レクトは表情にこそ出さなかったが、内心驚いた。
ラウディだって僕にそんなことを言いたくはなかっただろう。
それでも言った。
それは、勝ちたいという強い意志の表れだ。
「絶対、勝とう」
レクトの言葉に、ラウディが頷く。
「よし」
それで一気に高まった緊張感は、モリスの「僕も、できるだけ頑張るよ」という穏やかな言葉で和らいだ。
「そうね。やれるだけのことをやりましょう」
ベルティーナが微笑む。
「ねえ、レクト」
レクトのシャツが後ろから引っ張られた。ウルリケだった。
「無理しすぎて、怪我しないでね」
すっかり血色の戻ったウルリケが、心配そうな表情を浮かべていた。
「あなたって、大人しそうに見えてけっこう無茶するから」
「そうかなあ」
「うん。だから、気を付けて」
「分かったよ」
しばし見つめ合って微笑むと、ラウディが、
「おらあ、いちゃついてんじゃねえ」
と喚いた。
「スタート地点に行くぞ」
障害物競走は、大方の予想通りの展開となった。
三組のリッケンが、その長身を生かして序盤から快調に飛ばす。
ラウディを含む数人の生徒がそれに必死に食らいついていったが、リッケンにはまだまだ余力がありそうに見えた。ラウディたちはいかにも分が悪かった。
道の途中に突然現れた飛び石の障害もその長い脚で軽々と飛び越えて、リッケンは最初のチェックポイントの石碑に真っ先に辿り着いた。
植え込みの陰のネルソンルートを走るライマーたちよりも先という、驚異の速さだった。
それに何とかついていったのだから、ラウディもまた練習よりも格段に速いペースで走っていた。
このままリッケンの独走になるかと思われたが、次に現れた障害で展開が分からなくなった。
地面すれすれに張られた網を潜り抜けるその障害は、長身のリッケンには厄介だったからだ。
長い脚を窮屈に折りたたんで網の下を這っているうちに、ラウディが追い付いた。
「背が高くて不便なこともあるんだな」
憎まれ口をたたいて、ラウディがトップに躍り出る。
ラウディは歯を食いしばって走ったが、続いて現れた壁上りの障害で再びリッケンに抜かされてしまう。
植え込みの迷路の中のボルーク卿のチェックポイントに着いた時には、ラウディは息も絶え絶えだった。
遥かに実力の勝る相手と無理に競り合ったがゆえの、完全な飛ばし過ぎだった。
リッケンは迷路を出るときに道を間違えて少し手間取ったが、ラウディにもそこで逆転する余力はもうなかった。
勝利を確信した3組のエースがゴールに向かって走る。と、そこに二人の小柄な生徒が飛び出した。
「いけえ!」
リッケンの背後でラウディが叫んだ。
「あとは任せたぞ!」
出てきたのは、ライマーとジルコだった。
「えっ、どこから」
リッケンの戸惑った声を聞いて満足そうに笑ったラウディが、力を使い果たしたように後退していく。
三人が競り合う展開となった。
新手の出現に混乱した様子のリッケンだったが、やはりその身体能力は圧倒的だった。
一足ごとに前に進む距離が違う。
ライマーたちが競り合えたのは、ごくわずかな間だけだった。
当然のようにリッケンが先頭に立つ。
ライマーが必死にその背中を追うが、ジルコは徐々に引き離されていった。
三人はそのままの位置関係で、最後の障害である深い霧の中に飛び込んだ。
ここを出れば、もうゴールは目の前だ。
大きく振る自分の手もまるで見えないほどに深い霧の中を、生徒たちは走った。
そして、霧から最初に飛び出してきたのは、リッケンではなかった。
かといって、ライマーでもジルコでもなかった。
霧の中でリッケンを抜かしてレースの先頭に躍り出たのは、ウルリケだった。
それに一拍遅れてリッケンが霧の中から姿を見せる。
とんでもない番狂わせに、校庭のゴール地点で見守っていた生徒たちから歓声と悲鳴が上がった。
「ウルリケ、あと少し!」
「頑張れ、ウルリケ!」
ハイデとレオンが叫んでいる。
「リッケン、負けるな!」
「走り抜けろ!」
三組の生徒たちも声を嗄らして叫ぶ。
リッケンが前に出ようとするが、ウルリケも速かった。リッケンは長い時間ラウディと競り合ったことで意外なほど消耗していた。
結局、二人はほとんど同時にゴールに飛び込んだ。
わずかな差だったが、一位はウルリケだった。
一組の生徒たちから、大きな歓声が上がる。
「噓だろ、リッケンが負けるなんて」
「相手、女だぜ」
三組の生徒たちが呆然としたように話し合っている。
その間に、ほかの生徒たちが続々とゴールしてきた。
ライマーやジルコからだいぶ遅れて、レクトがベルティーナと競るようにしてゴールする。
全力を尽くしたラウディは、そのさらに後ろだった。
「ウルリケ、君が一位だったのかい」
盛大に喘ぎながら、レクトはウルリケに声を掛けた。
「ええ。そうみたい」
ウルリケが微笑む。
「やっぱり君はすごいや」
どうだ、見たか。
自分のことでもないのに、レクトは他の生徒たちに自慢して回りたい気分だった。
見ろ。ウルリケはこんなにすごいんだぞ。
誇らしい気持ちと、やっぱり僕なんかとは違う世界の子なんだなと実感せざるを得ない切なさ。
複雑な気持ちを抱きながら、それでもレクトは笑顔を作った。
「おめでとう、ウルリケ」
「ラウディが頑張ってくれたおかげで、好きに走らせてもらえたから」
そう言って微笑むウルリケの足元は泥で汚れて真っ黒だった。そのことが、レクトには嬉しかった。
ウルリケが誰に命令されることもなく、自分の意志で一生懸命に走った証拠だ。
「レクトこそ、最後まで頑張ったわね」
ウルリケはそう労ってくれた。
「お疲れ様。かっこよかったわ」




