呼びかけ
「遅れてすまなかった、レクト」
アインは、なおも生き物のように震え続けている小箱を光の糸で押さえつけながら言った。
「君が見たというこれについて、図書館でずっと調べていたんだ。やはりこれは僕の予想通り、エルオン紋の小箱だ」
「おい、そんなことよりも」
エメリアが乱暴に口を挟む。
「こいつ、意識が戻らねえぞ」
エメリアはウルリケを抱きかかえていた。ウルリケはぐったりとしたまま、ぴくりとも動かない。
「なんとかしねえと」
「ああ、そうだな」
だが、頷いたアインは小箱にかかりきりで、とてもウルリケを助けられるようには見えなかった。
レクトはウルリケの血の気の無い顔を覗き込む。
「ウルリケ、しっかりして」
「共鳴が起きている」
不意に、レクトの背後で涼やかな声がした。
いつの間にか、金髪の男子生徒がそこに立っていた。
三年二組のクラス委員。名前は確か、ウォリス。
「宿主を奪われかけて、その箱が強引に共鳴を起こそうとしている。ウルリケの人としての本能の部分が、それを防ごうと抗っているところだ」
なぜそんなに詳しいのか。
そして、どうしてそんなに落ち着き払っているのか。
レクトには疑問だらけだったが、今はそんなことを考えている暇はなかった。
「何とかしてください」
レクトは叫んだ。
「ウルリケが、ウルリケが死んじゃう」
「何とかするのは、君だ」
ウォリスはあくまで冷静な口調で、レクトに言った。
「僕にはどうしようもない」
あまりに突き放した言い方だった。
「え、そんな。ぼ、僕」
レクトは言葉に詰まる。
「僕だって、できることならどうにかしたいけど、でも」
「というよりも、君にしかできない」
ウォリスはウルリケの傍らに膝をつく。
「エメリア、ここを代わろう」
そう言って、顎をしゃくってアインの方を示す。
「アインを手伝ってやってくれ。あの箱は、もう少し暴れるぞ」
「あ、ああ」
エメリアがアインの方へと駆けていくと、ウォリスは彼女の代わりにウルリケの身体を支え、
「さて」
と言ってレクトの顔を見た。
近くで見ると、ウォリスはぞっとするほどに整った顔立ちをしていた。暗がりで陰影がくっきりとしているせいで、まるで神話の人物の彫刻か何かのようにさえ見えた。
「レクト。いいか」
ウォリスはそう言って、ウルリケの右手を持ち上げ、レクトの方へと差し出す。
「しっかりとこの手を握れ」
レクトは言われた通り、ウルリケの手を握る。
冷たかった。
ぐったりとしたウルリケの顔を見ていると、レクトにはもう彼女が死んでしまったのではないかとすら思えた。
涙で視界が滲む。
まだ、泣いちゃだめだ。
ウルリケは、僕が助ける。
どうすればいいのかは、分からないけど。
とにかく、僕が助けるんだ。
「ウルリケの魔力を感じるんだ」
ウォリスは言った。
「それに自分の魔力の波長を合わせろ。それから強く念じるんだ。戻ってきてほしい、と。そうすれば、きっと届く」
「魔力の波長を合わせるって」
そんなこと、やったこともない。
レクトは途方に暮れた。
「どうやるんですか」
「ウルリケの魔力は、あの箱に強引に引き出されたせいで今、ひどく弱っている」
ウォリスはちらりとアインの持つ小箱に目を向けた。
「だが、ウルリケの身体の中にはまだごくわずかに魔力が残っている。感じるだろう、その波のような動きを」
「え、ええと」
レクトはウルリケの手を通して彼女の魔力を感じ取ろうとした。
だが、その冷たい手からは、彼女が今まさに生命の危機に瀕しているのだという実感以外、何も感じられなかった。
焦れば焦るほど、ウルリケの手の冷たさだけが際立ち、レクトの心までも凍り付かせた。
だめだ。これじゃあウルリケが。
「助けてください」
レクトは思わず弱音を吐いた。
「誰か、僕の代わりにやって。僕じゃ無理だ、お願いだからウルリケを助けて」
「それは無理だ」
ウォリスの回答は、やはりにべもなかった。
「ウルリケと魂の結びつきのある人間でなければ、呼びかけても意味がない。だから僕やアインではだめなんだ。レクト。君でなければ」
ウォリスはウルリケの手を握るレクトの手に自分の手を重ねた。
ウォリスの手もまた、冷たかった。
「この学院で最も彼女の信頼を得ていたのは、君なのだろう。それなら、自分を信じろ」
「でも」
レクトは縋るようにウォリスを見た。
「何も分からないんです。どうやって魔力を感じ取ればいいのか。僕、まだ一年生だから」
「君はノルク魔法学院の生徒だ」
ウォリスは言った。
「そのことにもっと自信を持て。その程度のことができない人間は、この学院に入ることはできない。君にその能力が備わっていることは証明されているんだ」
「だけど」
「レクト」
エメリアと二人で箱を押さえつけているアインが、顔だけをレクトに向けて叫んだ。
「ウォリスの言う通り、今この世界でウルリケを救うことのできる人間は君一人だけだ。それは、すごいことだとは思わないか」
「すごいこと」
「そうだ」
アインは声に力を込めた。
「世界に唯一無二の結びつきだ。君たちの今まで築いてきた友情は、こんな箱なんかに負けるのか。こんながらくたに舐められたままでいいのか。見せてやれ、君たちの本当の強さを」
僕らの強さ。
僕らの友情。
その言葉に、レクトの脳裏に元気なウルリケの姿が蘇った。
オリエンテーションの時の、最初は少し冷たかったけれど、だんだんと笑顔を見せて、最後には素直な気持ちまで伝えてくれたウルリケ。
他のクラスメイトには冷たいのに、レクトと話をするときだけは表情を緩めてくれるウルリケ。
障害物競走で最下位だったレクトを優しく労ってくれたウルリケ。
あの箱に心を支配されかけていたのに、レクトを一番信頼していると言ってくれたウルリケ。
“お母さま”に逆らってでも、レクトを殺したくないと言ってくれたウルリケ……
レクトは大きく息を吸い込んだ。そうすると、さっき草に思い切り締め付けられた胸が少し痛んだが、気にしなかった。
もう一度、レクトは自分の握るウルリケの手に精神を集中した。
クラスメイト達に見せる、冷たくてそっけない態度のウルリケ。
そのちょっとした隙間に、彼女の柔らかい部分を見付けた時の胸の高鳴り。
ウルリケの可愛さは、僕だけが知っている。
いつも、ウルリケを見てきたから。
それと同じように、レクトはウルリケの消えかけた魔力を探した。
ウルリケのことを思いながら探すと、その微かな波を自然と感じ取ることができた。
それがウォリスの言った、波長を合わせるということだったが、レクトにそこまで考える余裕はなかった。
ただウルリケのことを思い、そして、探し当てた。
「よし、いいぞ」
ウォリスが静かに言った。
「波長が合ってきた」
ウルリケ。
消えてしまいそうな弱々しい波に、レクトは呼びかけた。
帰ってきてよ。
もうすぐ運動競技会だ。僕ら一緒に障害物競走に出るんじゃないか。
「念じろ」
ウォリスは淡々と言った。
「君の素直な思いをぶつければいい」
「ぐっ」
アインの呻き声がした。
がたがたがた、と乱暴な音がして、レクトの集中は乱れた。
アインたちの押さえている箱が、暴れるように震えていた。
エメリアがアインの手の上に自分の手を重ねて箱の蓋を押さえつけているが、それでも箱は揺れる。
光の糸の何本かが、ぶちんぶちんと弾けるように切れた。
「魔力の練り込み不足だ、アイン」
ウォリスは薄く笑ってそう言うと、レクトに向き直る。
「あんなものは放っておけ」
ウォリスは左手に灯の術の炎を出し、目を閉じたままのウルリケの顔を照らした。
「レクト。他の何も気にするな。ウルリケのことだけを考えろ。君にしかできないことをしろ」
「はい」
自信に満ちたウォリスの言葉に、不思議と覚悟が決まった。
レクトはもう一度、大きく息を吸った。
汗まみれの手でウルリケの手をしっかりと握り直すと、目を閉じる。
ウルリケ、聞こえるかい。
心の中でそう呼びかけた。
帰ってきてよ。
君がいなきゃだめだ。
僕の学院生活は、君と一緒に始まったんだから。
手を通して、ウルリケの魔力の震えが伝わってくる。
僕はまだ何の魔法も使えないけど。
でも、これからきっと使えるようになるから。
君に追いついてみせるから。
だから、一緒に頑張ろう。ウルリケ。
君がいなきゃ、だめなんだ。
どれくらいの間、そうやって呼びかけていただろうか。
実際にはそれほどの時間は経っていなかった。だがレクトには途方もなく長い時間に思えた。
「……レクト」
ウルリケの声に、レクトは目を開けた。
ウルリケが青ざめた顔を微かに綻ばせていた。その目がレクトを見つめていた。
「私、悪い夢を見てた」
ウルリケはどこかぼんやりとした口調で言った。
「死んだお母さまが出てきた気がするけど、その後身体からどんどん力が抜けて、何にも分からなくなったの。何も見えなかったし、何も聞こえなかった。すごく怖かったけど、でも、あなたの声だけが聞こえたの。こっちだよって教えてくれた」
ウルリケが、くしゃっと泣き笑いのように顔を歪めた。
「ありがとう、レクト」
三年生たちみたいに、ここで何か気の利いたセリフでも言えたらきっとかっこいいんだろうな、とレクトは思った。
でも、レクトの口から出てきたのは気障なセリフではなく、情けない嗚咽だった。
「よ、よかっ……ウルリケ、ほんとに……」
泣きながら言葉に詰まるレクトを見て、ウルリケも涙をこぼした。
「レクト、本当にありがとう」
「ウルリケ……」
レクトはウルリケの手を握りしめる。
「アイン、成功だ」
ローブの裾を払って立ち上がったウォリスが、そう告げた。
「さすがはノルク魔法学院の一年生だな」
「ああ。こっちも静かになった」
アインが箱を持ち上げてみせる。ちょうど、エメリアが彼の手の上から自分の手を下ろすところだった。
エメリアも額に汗を滲ませていた。
「レクト、ありがとう」
アインは言った。
「もう少し遅かったら、この箱ごと僕の手もエメリアに握り潰されるところだった」
「ふん」
エメリアはにこりともせずに鼻を鳴らした。
「別に今からでも遅くないぞ。試してみるか」




