箱
どうしよう。
僕は、どうすればいいんだろう。
ウルリケがお母さまと呼ぶ、奇妙な小箱。
あれは、持っていてはいけないものだ。
それは、レクトにも分かった。
あれはウルリケのお母さまの形見とか、そんな立派なものじゃない。
もっと禍々しい何かだ。
けれどどう考えても、レクトが頑張ってどうにかできることだとは思えなかった。
運動競技会の障害物競走とはわけが違う。
魔法の一つも使えない初等部一年生という彼の能力を、はるかに超えた事態だった。
かといって、先生に相談することは躊躇われた。
先生に告げたら最後、とんでもないことになってしまう予感があった。
もう二度と、ウルリケに会えなくなってしまう気がした。
腕に残る、昨日のウルリケの柔らかく温かい感触。
この学院を去ってしまったら、レクトが出身も身分も違うウルリケと会うことはもう二度とないだろう。
それだけは嫌だった。
僕はまだ、ウルリケと一緒にいたい。
さすがに悩みが顔に出てしまっていたようで、ルームメイトのモリスに「どうしたんだい」と心配された。
「大丈夫かい、何か困ったことでもあるのかい」
「うん……」
どうしよう。
でも、これはモリスに相談してもどうにもならないだろう。
というよりも、モリスにも話してはいけない気がした。
結局、レクトは曖昧にごまかして早めにベッドにもぐりこんだ。
ウルリケは、あの小箱に取りつかれているんだ。
きっと、あの小箱がウルリケのお母さまの振りをして、誘惑したんだ。
だからウルリケにはあれがお母さまに見えるんだ。
どうにかして助けてあげないといけない。
ウルリケの隙を見て、あの箱を壊せばいいんだろうか。
固そうな金属製の箱だったけれど、上から石でも落とせば壊せるんじゃないかな。
でも、中から何かが飛び出してきたら。
もしかしたら、僕まで取りつかれてしまうかもしれない。
あれが何なのか、僕には分からない。
ウルリケにどう影響するかも分からない。だからうかつなことはできない。
どうすればいいんだろう。
どうすれば。
翌朝のこと。
思いつめた顔をして訪ねてきた一年生の顔を見て、三年一組のクラス委員は眉をひそめた。
「ひどい顔をしているな」
「はい」
レクトは小さく頷く。鏡は見ていないが、そうだろうと思った。
昨夜はほとんど一睡もできなかったのだ。仕方ない。
「いつでも相談に乗るとは言ったが、まさか朝食前のこんな時間に来るとはさすがの僕も思わなかった」
アインはそう言うと、部屋を出てドアを後ろ手に閉めた。
「運動競技会の相談というわけではなさそうだな」
「……はい」
「聞こう」
アインは静かに言った。
「この前の場所でいいか」
その日の授業は、比較的穏やかに進んだ。
午前が三年二組の担任のフィーア、午後が三年三組の担任のデミトルという温和な教師の授業が続いたこともあったが、生徒同士の間にあったギスギスとした雰囲気も和らいでいた。
運動競技会では他のクラスに負けないよう頑張ろう、とレオンが発言した時も、拍手が上がったほどだ。
ラウディの攻撃的な姿勢が鳴りを潜めていたし、ウルリケが静かにしているおかげでケリーやデルマも機嫌がよかった。
ベルティーナはどちらかと言えば、このライバルの変貌を心配しているようにすら見えた。
レクトも午後の授業で少し居眠りをしてデミトルに注意された程度で、表面上はクラスメイトたちと同様に穏やかに過ごしていた。
しかし、内心ではずっと緊張していた。
手に変な汗をかいてしまって、ライマーに、お前の机濡れてるぜ、と不審がられるほどだった。
それは、ウルリケを誘い出さなければならなかったからだ。
ウルリケを助けるための、レクトの密かな戦いはもう始まっていた。
「ウルリケ」
放課後、レクトはウルリケに近付いてそっと囁いた。
「今日の夜、昨日の続きをしようよ」
「うん」
頷くウルリケが本当に嬉しそうな笑顔だったので、レクトの胸は痛んだ。
「いいわよ」
よかった。断られたらどうしようかと思っていた。
まずは、第一段階突破だ。
「じゃあいつもの場所でいいかな」
「あそこはやめましょう」
ウルリケの顔が不意に憎々し気に歪んだ。
「あの女が来るから」
「あ、うん」
さっきまでの表情との変化に戸惑いながら、レクトはそれでも話を合わせた。
「そうだね。じゃあどこに」
「庭園にしましょう」
ウルリケは言った。
「あそこなら、魔法の明かりもついているし、夜は生徒も来ないわ。オリエンテーションで教えてもらったベンチのところでどう?」
「うん、分かった」
レクトは頷く。
「じゃあ、夕食の後でそこで待ち合わせね」
ウルリケはにこりと微笑んだ。
「ああ、楽しみ。早く夜にならないかしら」
場所の変更を、アインに伝えなければならない。
いつもの場所ではなくなった。庭園のベンチで会うことになった。そう伝えなければ。
レクトは校舎でアインを探したが、三年生の教室にも彼の姿はなかった。
オリエンテーションのときに庭園の迷路を跳び越えて現れたフィッケという名前のひょろりとした背の高い三年生が、
「アイン? そういやいねえなあ。どこ行ったんだろ」
ととぼけた口調で頭を掻いた。
「いつもふらっとどっか行っちまうんだよ。うちのクラス委員は」
仕方ない。
寮の食堂で、夕食のときに捕まえよう。
レクトはフィッケに礼を言って、落ち着かない気持ちで寮へと帰った。
だが、夕食にもアインは姿を見せなかった。
そうこうしているうちに、ウルリケとの約束の時間になってしまった。
ウルリケに残された時間は、きっとそう多くはない。
アインはそう言っていた。
それは、レクト自身の感覚とも合致した。
今のウルリケは、本来のウルリケからどんどん離れていっている気がする。
手遅れになる前に、本当のウルリケを取り戻さないと。
約束をすっぽかすわけにはいかない。
アインのルームメイトの二年生に場所の言付けだけを頼み、レクトはランプを持って部屋を出た。
「レクト」
植え込みに光を遮られ、ちょうど庭園の照明の陰になっているベンチ。
そこにウルリケが一人で座っていた。
「こっちこっち」
弾んだ声で手を振ってくる。
「お待たせ」
レクトはウルリケに歩み寄った。
「早かったんだね」
「うん」
ウルリケが頷く。
「楽しみで、早めに来ちゃった」
その目は、夢見るように何だかとろんとしていた。
「ウルリケ、ちゃんと食べてるかい」
そう言って、レクトは彼女の隣に腰を下ろす。
「今日、夕食のときに君の姿を見なかったけど」
「食事はあんまり要らないの」
ウルリケは答える。
「そのほうが、心が研ぎ澄まされるから」
「でも、食べないと身体に悪いよ」
「レクトがそう言うなら、食べるわ」
そう言ってくれるのは嬉しかったが、それでもやっぱりレクトは、冷たかろうが厳しかろうが健康なウルリケの方が好きだった。
しばらく、他愛のない話をしつつ、レクトはアインの到着を待った。
だが、来ない。
やるだけのことはやってみると請け合ってくれた三年生の筆頭クラス委員は、まだ姿を見せない。
闇はどんどん濃くなってくる。
……仕方ない。
レクトは一度深呼吸して、覚悟を決めた。
元々は僕らの問題だ。
僕がやるしかない。
「ねえ、ウルリケ」
レクトは切り出した。
「あの箱なんだけど」
「箱?」
ウルリケがきょとんとした顔をする。
ああ、そうだ。いけない。
ウルリケの中では、あれは箱じゃないんだ。
「ええと、君のお母さま」
「ああ」
ウルリケが微笑む。
「うん。お母さまがどうしたの?」
「僕、君のお母さまに会いたいんだ」
「あ、そうね。昨日の続きをするんだったものね」
ウルリケは疑いのない笑顔で頷くと、うふふ、と笑う。
「でも、嬉しい。これでこれからはレクトと一緒に魔法の練習ができるんだね」
「うん、そうだね」
レクトは話を合わせる。
「君の勉強したかった治癒術も習える」
「治癒術は、要らないの」
「え?」
「お母さまが言っていたわ。治癒術とか薬湯ってすごく効率が悪いんですって。人のけがや病気を治すには、もっといい方法があるんですって」
「そうなんだ」
「ええ」
ウルリケは大事そうに小箱を取り出した。
レクトの目には何だか昨日よりもさらに禍々しく見えた。
「お母さま、昨日話したレクトよ」
小箱にそう話しかけるウルリケを見ていると、レクトの中では恐怖よりも悲しさが勝った。
どうして、こんなことになってしまったんだ。
ウルリケはただ、早く魔法を使いたかっただけなのに。
だがそんな気持ちは表情に出さずに、箱と会話するウルリケを見守る。
「……え?」
不意にウルリケの顔が曇った。
「どうしてだめなの? だって、昨日はいいって言ってくれたじゃない」
何だか雲行きが怪しくなってきた。
「だめなの? でも、レクトは」
ウルリケが小箱と会話しながら、ちらちらとレクトに目を向ける。目で、ごめんなさい、と謝ってくれているようだった。
「そんな」
ウルリケが目を見開いた。
「レクトはそんな子じゃないわ」
疑われている。あの箱に。
僕が“お母さま”に疑念を抱いていることを、この箱は感じ取っている。
「ええ、でもせっかくレクトがやる気になってくれたのに……」
ウルリケの声が沈む。
「私がもっともっと魔法が上手になったら、そのときはいいのね?」
ウルリケが、箱に懐柔されそうになっている。
もっと上手に、だって?
だめだ。
これ以上、ウルリケをこの箱に触れさせたらだめだ。
「分かったわ、お母さ――」
その瞬間、レクトは手を伸ばしてウルリケから小箱をひったくった。
「あっ!」
ウルリケが叫び声を上げる。
「何するのよ、レクト!」
それに答えることなく、レクトは跳ねるように立ち上がった。
どこか、遠いところへ。
ウルリケの手の届かないところへ、この箱を捨てるんだ。
レクトは箱を抱えたまま走り出した。
「レクト!」
背後からウルリケの叫び声。
ウルリケは、僕よりもよっぽど足が速い。
どこへ。
ネルソンに教えてもらったおかげで、いまやレクトの頭の中にはかなり鮮明な庭園の地図ができていた。
どこへ行けばいいだろう。
だが次の瞬間、箱が燃えるような熱を発した。
「熱っ」
思わず落とした小箱が、まるで意志あるもののように地面を転がっていく。
「くっ」
追おうとしたが、斜面でもないのに小箱は勢いよく転がっていくと、ウルリケの足元で止まった。
「私を騙したのね、レクト」
箱を拾い上げたウルリケの声は凍てつくほど冷たかった。
「あなただけは分かってくれていると思ったのに」
違うよ、ウルリケ。
僕は、君を助けたいんだ。
そう叫ぼうとしたが、声が出なかった。
レクトは既に自分が緘口の術にかかっていることを知る。
いつの間にか足元の芝生が伸びて、レクトの足をがっしりと固定していた。
ツタくくりの術。
瞬時のうちに二つの魔法を使ってみせたウルリケの力に、レクトの背筋は凍った。
「ひどいわ、レクト」
ウルリケは言った。
「お母さまが怒ってるわ。許さないって」
その目から、つうっと涙が流れた。




