お母さま
「こっちよ、レクト」
先日、エメリアに注意されたときと同じ植え込みの陰から、ウルリケが手招きをしていた。
ひどく嬉しそうに笑顔を浮かべている。
ここ最近になるまで、レクトが見たことのなかった表情だ。
以前のウルリケはいつも、もっと理知的に笑っていた。
「どうしたんだい、ウルリケ」
レクトは周りを窺いながら、ウルリケに近付いた。
この間のようにエメリアに見付かったら、ひどく怒られるはずだ。今度こそ管理人のマイアにも知らされてしまうだろう。
そうなったら、ヴィルマリー先生からどんな説教を食らうことか。
「見て、ほら」
だがウルリケはレクトの心配などお構いなしに、彼の面前で嬉しそうに指で空中に文字を書いてみせた。
「レクト、おめでとう」と読めるその文字は、前回と違ってすぐに崩れることなくその場に留まり続けていた。
「すごいね。またうまくなってる」
「そうでしょう」
ウルリケは微笑むと、その手に炎をともす。二人の顔が、炎に赤く照らされた。
「あ、だめだよ」
慌ててレクトは声を潜めて手を振った。
「また誰か来ちゃう。怒られるよ」
「誰か来たら、魔法で黙らせちゃえばいいのよ」
「え?」
「ほら。こんな風に」
ウルリケが自分の顔の前で手をすうっと横に引いた。
どういう意味だい。
そう尋ねたつもりだったが、レクトの声は聞こえなかった。
あれっ。
ウルリケ?
レクトは口をぱくぱくと動かした。
これ、どうなってるの。
喋れないよ。
慌てるレクトの顔を見て、ウルリケはくすくすと笑った。
「ごめんなさい」
そう言って、もう一度、今度は逆の方向に手を引く。
「うわっ」
声が戻ってきた。
レクトはしばらく喉を押さえて瞬きを繰り返したが、それからようやく尋ねた。
「今のも、魔法なの」
「緘口の術」
ウルリケは言った。
「声が、風を震わせなくなるのよ」
「驚いたよ」
レクトは言った。
すごい魔法だ。
だがそれよりも、ためらわず自分に魔法を使ったウルリケが、少し怖かった。
「そんな魔法まで使えるようになったんだね」
「もうきっとあの三年生よりもうまいわよ」
ウルリケは目を細めた。
「あの乱暴な女よりも」
それがエメリアのことだというのは、レクトにもすぐに分かった。
「そうかもしれないけど、でも黙らせるっていうのは」
レクトがなおも心配そうな顔をすると、ウルリケは、
「分かったわよ」
と言って仕方なさそうに笑った。
「あなたがそんなに心配なら、消すわ」
ウルリケが灯の魔法を消すと、周囲は再び闇の中に沈んだが、レクトはほっとした。
屈みこんで、ウルリケに身体を寄せる。
なるべく小さな声で話さないと。
「また魔法が上達したんだね。今日は、それを見せてくれるために僕を呼んだの?」
「それもあるけど、お祝いをしようと思って」
「お祝い?」
「だって、今日はレクト、かっこよかったじゃない。だから」
急にウルリケが腕を絡めてきて、レクトは、
「う、うわ」
と情けない声を上げた。
ウルリケが少し哀しそうな顔をする。
「私に触られるのは嫌?」
「い、嫌じゃないけど」
レクトは首を振る。
「ちょっと驚いたんだ」
ふふ、とウルリケは笑う。
「レクトったら、魔法も使わずにラウディを負かしてしまうんだもの。素敵だった」
ウルリケにそう囁かれて、レクトはどう答えたらいいのか分からなかった。顔が真っ赤になっていることだけは間違いない。
「あ、ありがとう、ウルリケ。あの、僕」
そう言いかけてから、ふとウルリケの言葉に引っかかりを覚える。
魔法も使わずにラウディを。
魔法も使わずに?
「君は魔法を使ったの?」
「少しだけ」
ウルリケは蠱惑的に微笑んだ。
「泥だらけの道があったのよ。そこを抜けるときに、身体に薄い膜を張っておいたわ。そのおかげで汚れずに済んだのよ」
「走りながら、そんな魔法を使ったのかい」
レクトは目を見張る。
すごい。
ウルリケは、本当にもう三年生よりも魔法が上手いのかもしれない。
「まあね。大したことじゃないわ」
ウルリケは髪をかき上げて、上目遣いにレクトを見た。
「レクト。あなたにだってすぐに使えるようになるわ」
「僕が?」
ウルリケの吐息がかかりそうな距離。レクトはどぎまぎして、うまく頭が働かない。
「どういうこと?」
「あなたにも紹介してあげる」
ウルリケの唇が、艶めかしく動いた。
「お母さまを」
お母さま。
一体どこからどんな女性が姿を見せるのかとレクトは身構えた。
だが、ウルリケは小さな箱を取り出した。
黒い金属製の箱だった。
表面には何やら複雑な模様が彫り込まれている。
寮の窓から漏れる光だけでは、その細かい模様までは良く見えなかった。
「それは……?」
「お母さまよ」
ウルリケは答えた。
「お母さま?」
レクトの胸の中に、何とも名状しがたい恐怖が湧き上がってくる。
「その、箱が?」
「箱?」
ウルリケは小首をかしげた。
「何を言ってるの、レクト」
それからウルリケは小箱を自分の口の前まで持ち上げた。
「ほら、お母さま。この子がずっと話していたレクトよ」
小箱に甘えたような口調で話しかける。
レクトはそのウルリケの姿を、声もなく見つめた。
「……ええ。そうなの。彼、今日すごく頑張ったのよ」
何だ、これは。
ウルリケが小箱と会話をしている。
だが、小箱から何か声が聞こえてくるわけではない。
何なんだ、いったい。
レクトはごくりと唾を呑み込んだ。
何が何だか分からないが、これはきっと良いものじゃない。それだけは分かった。
「ねえ、お母さま」
鼻にかかる甘えた声でウルリケは言った。
そんな声を彼女が出すのを、レクトは初めて聞いた。
「レクトにも、魔法を教えてあげてもいいでしょう」
そのとき、箱がかたりと小さく揺れたのをレクトは見た。
何かが入っている。
あの箱の中には。
「いいの?」
ウルリケが弾んだ声を上げた。
「やったあ。ありがとう、お母さま。大好き」
ウルリケは何かに憑かれたような目でレクトを見た。
「レクト。この学院の授業なんてもう受ける必要ないわ」
「え?」
「さっきの私の魔法、見たでしょ? 魔法なら、お母さまが全部、ここの授業なんかよりももっと分かりやすく教えてくれるわ」
「そ、それは」
そうなのかもしれない。ついこの間まで何の魔法も使えなかったウルリケの、この目覚ましい上達ぶりは、ただ事ではない。
だけど。
レクトは、ウルリケの持つ薄気味の悪い箱を見た。
これは、少なくとも絶対に、ウルリケのお母さまじゃない。
「簡単よ、レクト」
ウルリケがレクトの耳元で囁く。背筋がざわりとした。
「お母さまに、自分の名前を伝えればいいだけ。あとは、質問に答えさえすればいいの。それだけでどんどん魔法が使えるようになるわ」
名前を告げる。
ただそれだけでいいのか。
それだけで、あんなすごい魔法があっという間に。
一瞬、レクトの心は揺らいだ。
「それだけでいいの」
「そうよ。簡単でしょう」
ウルリケは頷く。
「他の子たちみたいに、無駄な授業を受ける必要なんてもうないのよ。お母さまもそう言っているわ」
だが、ウルリケのその言葉がレクトを思いとどまらせた。
違う。
「ねえ、ウルリケ」
レクトは身体を起こして、自分の腕に絡めていたウルリケの腕を掴んだ。
「やっぱり、僕ら」
「しっ」
ウルリケが急に唇に指を当てて忌々しそうな顔をした。
「またあの女だわ」
「えっ」
振り返ると、確かに植え込みを揺らしながら誰かが近付いてくるところだった。
あの体格、歩き方。
あれは、三年生のエメリアだ。
「レクト、じっとしていて」
そう言いざま、ウルリケが魔法を使った。
彼女の魔力に包まれる感覚。それと同時に、二人の姿は消えた。
姿消しの術。
二人のいた場所に来たエメリアは、不審そうな顔できょろきょろと周囲を見回している。
魔力によって周囲の景色に溶け込んだ二人の姿は、彼女には見えていないのだ。
ウルリケとレクトは手を繋いだまま、足音を忍ばせてそっとその場を後にした。
離れたところでレクトが振り向くと、エメリアは眉をひそめて鼻の頭に皺を寄せ、鼻をひくつかせていた。
闇は、臭いを伴うと聞いたことがある。
三年生のクラス委員の言葉が蘇った。
レクトは、ウルリケからそんな臭いは感じなかった。
だけど、もしかして。
それはもう、僕も闇に取り込まれかけているからなのだろうか。
「今日は邪魔が入っちゃったから、また明日ね」
ウルリケがそう言って部屋へと帰っていった後、レクトはどうすればいいのか分からず、廊下に立ち尽くした。




