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レクトとウルリケ  作者: やまだのぼる


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35/44

お母さま

 

「こっちよ、レクト」

 先日、エメリアに注意されたときと同じ植え込みの陰から、ウルリケが手招きをしていた。

 ひどく嬉しそうに笑顔を浮かべている。

 ここ最近になるまで、レクトが見たことのなかった表情だ。

 以前のウルリケはいつも、もっと理知的に笑っていた。

「どうしたんだい、ウルリケ」

 レクトは周りを窺いながら、ウルリケに近付いた。

 この間のようにエメリアに見付かったら、ひどく怒られるはずだ。今度こそ管理人のマイアにも知らされてしまうだろう。

 そうなったら、ヴィルマリー先生からどんな説教を食らうことか。

「見て、ほら」

 だがウルリケはレクトの心配などお構いなしに、彼の面前で嬉しそうに指で空中に文字を書いてみせた。

「レクト、おめでとう」と読めるその文字は、前回と違ってすぐに崩れることなくその場に留まり続けていた。

「すごいね。またうまくなってる」

「そうでしょう」

 ウルリケは微笑むと、その手に炎をともす。二人の顔が、炎に赤く照らされた。

「あ、だめだよ」

 慌ててレクトは声を潜めて手を振った。

「また誰か来ちゃう。怒られるよ」

「誰か来たら、魔法で黙らせちゃえばいいのよ」

「え?」

「ほら。こんな風に」

 ウルリケが自分の顔の前で手をすうっと横に引いた。

 どういう意味だい。

 そう尋ねたつもりだったが、レクトの声は聞こえなかった。

 あれっ。

 ウルリケ?

 レクトは口をぱくぱくと動かした。

 これ、どうなってるの。

 喋れないよ。

 慌てるレクトの顔を見て、ウルリケはくすくすと笑った。

「ごめんなさい」

 そう言って、もう一度、今度は逆の方向に手を引く。

「うわっ」

 声が戻ってきた。

 レクトはしばらく喉を押さえて瞬きを繰り返したが、それからようやく尋ねた。

「今のも、魔法なの」

「緘口の術」

 ウルリケは言った。

「声が、風を震わせなくなるのよ」

「驚いたよ」

 レクトは言った。

 すごい魔法だ。

 だがそれよりも、ためらわず自分に魔法を使ったウルリケが、少し怖かった。

「そんな魔法まで使えるようになったんだね」

「もうきっとあの三年生よりもうまいわよ」

 ウルリケは目を細めた。

「あの乱暴な女よりも」

 それがエメリアのことだというのは、レクトにもすぐに分かった。

「そうかもしれないけど、でも黙らせるっていうのは」

 レクトがなおも心配そうな顔をすると、ウルリケは、

「分かったわよ」

 と言って仕方なさそうに笑った。

「あなたがそんなに心配なら、消すわ」

 ウルリケが灯の魔法を消すと、周囲は再び闇の中に沈んだが、レクトはほっとした。

 屈みこんで、ウルリケに身体を寄せる。

 なるべく小さな声で話さないと。

「また魔法が上達したんだね。今日は、それを見せてくれるために僕を呼んだの?」

「それもあるけど、お祝いをしようと思って」

「お祝い?」

「だって、今日はレクト、かっこよかったじゃない。だから」

 急にウルリケが腕を絡めてきて、レクトは、

「う、うわ」

 と情けない声を上げた。

 ウルリケが少し哀しそうな顔をする。

「私に触られるのは嫌?」

「い、嫌じゃないけど」

 レクトは首を振る。

「ちょっと驚いたんだ」

 ふふ、とウルリケは笑う。

「レクトったら、魔法も使わずにラウディを負かしてしまうんだもの。素敵だった」

 ウルリケにそう囁かれて、レクトはどう答えたらいいのか分からなかった。顔が真っ赤になっていることだけは間違いない。

「あ、ありがとう、ウルリケ。あの、僕」

 そう言いかけてから、ふとウルリケの言葉に引っかかりを覚える。

 魔法も使わずにラウディを。

 魔法も使わずに?

「君は魔法を使ったの?」

「少しだけ」

 ウルリケは蠱惑的に微笑んだ。

「泥だらけの道があったのよ。そこを抜けるときに、身体に薄い膜を張っておいたわ。そのおかげで汚れずに済んだのよ」

「走りながら、そんな魔法を使ったのかい」

 レクトは目を見張る。

 すごい。

 ウルリケは、本当にもう三年生よりも魔法が上手いのかもしれない。

「まあね。大したことじゃないわ」

 ウルリケは髪をかき上げて、上目遣いにレクトを見た。

「レクト。あなたにだってすぐに使えるようになるわ」

「僕が?」

 ウルリケの吐息がかかりそうな距離。レクトはどぎまぎして、うまく頭が働かない。

「どういうこと?」

「あなたにも紹介してあげる」

 ウルリケの唇が、艶めかしく動いた。

「お母さまを」



 お母さま。

 一体どこからどんな女性が姿を見せるのかとレクトは身構えた。

 だが、ウルリケは小さな箱を取り出した。

 黒い金属製の箱だった。

 表面には何やら複雑な模様が彫り込まれている。

 寮の窓から漏れる光だけでは、その細かい模様までは良く見えなかった。

「それは……?」

「お母さまよ」

 ウルリケは答えた。

「お母さま?」

 レクトの胸の中に、何とも名状しがたい恐怖が湧き上がってくる。

「その、箱が?」

「箱?」

 ウルリケは小首をかしげた。

「何を言ってるの、レクト」

 それからウルリケは小箱を自分の口の前まで持ち上げた。

「ほら、お母さま。この子がずっと話していたレクトよ」

 小箱に甘えたような口調で話しかける。

 レクトはそのウルリケの姿を、声もなく見つめた。

「……ええ。そうなの。彼、今日すごく頑張ったのよ」

 何だ、これは。

 ウルリケが小箱と会話をしている。

 だが、小箱から何か声が聞こえてくるわけではない。

 何なんだ、いったい。

 レクトはごくりと唾を呑み込んだ。

 何が何だか分からないが、これはきっと良いものじゃない。それだけは分かった。

「ねえ、お母さま」

 鼻にかかる甘えた声でウルリケは言った。

 そんな声を彼女が出すのを、レクトは初めて聞いた。

「レクトにも、魔法を教えてあげてもいいでしょう」

 そのとき、箱がかたりと小さく揺れたのをレクトは見た。

 何かが入っている。

 あの箱の中には。

「いいの?」

 ウルリケが弾んだ声を上げた。

「やったあ。ありがとう、お母さま。大好き」

 ウルリケは何かに憑かれたような目でレクトを見た。

「レクト。この学院の授業なんてもう受ける必要ないわ」

「え?」

「さっきの私の魔法、見たでしょ? 魔法なら、お母さまが全部、ここの授業なんかよりももっと分かりやすく教えてくれるわ」

「そ、それは」

 そうなのかもしれない。ついこの間まで何の魔法も使えなかったウルリケの、この目覚ましい上達ぶりは、ただ事ではない。

 だけど。

 レクトは、ウルリケの持つ薄気味の悪い箱を見た。

 これは、少なくとも絶対に、ウルリケのお母さまじゃない。

「簡単よ、レクト」

 ウルリケがレクトの耳元で囁く。背筋がざわりとした。

「お母さまに、自分の名前を伝えればいいだけ。あとは、質問に答えさえすればいいの。それだけでどんどん魔法が使えるようになるわ」

 名前を告げる。

 ただそれだけでいいのか。

 それだけで、あんなすごい魔法があっという間に。

 一瞬、レクトの心は揺らいだ。

「それだけでいいの」

「そうよ。簡単でしょう」

 ウルリケは頷く。

「他の子たちみたいに、無駄な授業を受ける必要なんてもうないのよ。お母さまもそう言っているわ」

 だが、ウルリケのその言葉がレクトを思いとどまらせた。

 違う。

「ねえ、ウルリケ」

 レクトは身体を起こして、自分の腕に絡めていたウルリケの腕を掴んだ。

「やっぱり、僕ら」

「しっ」

 ウルリケが急に唇に指を当てて忌々しそうな顔をした。

「またあの女だわ」

「えっ」

 振り返ると、確かに植え込みを揺らしながら誰かが近付いてくるところだった。

 あの体格、歩き方。

 あれは、三年生のエメリアだ。

「レクト、じっとしていて」

 そう言いざま、ウルリケが魔法を使った。

 彼女の魔力に包まれる感覚。それと同時に、二人の姿は消えた。

 姿消しの術。

 二人のいた場所に来たエメリアは、不審そうな顔できょろきょろと周囲を見回している。

 魔力によって周囲の景色に溶け込んだ二人の姿は、彼女には見えていないのだ。

 ウルリケとレクトは手を繋いだまま、足音を忍ばせてそっとその場を後にした。

 離れたところでレクトが振り向くと、エメリアは眉をひそめて鼻の頭に皺を寄せ、鼻をひくつかせていた。


 闇は、臭いを伴うと聞いたことがある。


 三年生のクラス委員の言葉が蘇った。

 レクトは、ウルリケからそんな臭いは感じなかった。

 だけど、もしかして。

 それはもう、僕も闇に取り込まれかけているからなのだろうか。

「今日は邪魔が入っちゃったから、また明日ね」

 ウルリケがそう言って部屋へと帰っていった後、レクトはどうすればいいのか分からず、廊下に立ち尽くした。





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― 新着の感想 ―
[一言] エメリアが貴族嫌いな訳って出てましたっけ? 犯魔物じゃなくて犯小箱でしたねーーー。 誰かさんが置いたのかしらーーー。
2023/07/15 07:15 退会済み
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