チーム
「ウルリケ、あなた本気で走ったの?」
ウルリケが敗北を認めても、ベルティーナはまだ不満そうだった。
「私、相手に手を抜かれるのが一番嫌いなのよ」
「手を抜くなんて、そんな」
ウルリケは静かな表情で首を振る。
「一生懸命走ったわ。そんなことより、一番は誰なの?」
「一番はレクトだ」
ライマーが自分のことのように胸を張った。
「ラウディに勝ったんだ」
「うそだろ」
「そんな、まさか」
ウルリケよりも先に反応したのは、ジルコとエダーだった。
信じられないという顔で、レクトとラウディを交互に見る。
それが嘘ならば、真っ先にラウディが吼えるはずだ。だが、ラウディは何も言わなかった。悔しそうな顔でそっぽを向いている。
それで、二人も何が起きたのかを悟った。
「ど、どうして、そんな」
「レクトなんかが」
「やっぱりね」
満足そうに頷いたのは、ウルリケだった。
「レクトなら、それくらいのことはできると思っていたわ。おめでとう、レクト」
「ありがとう、ウルリケ」
レクトが恥ずかしそうに答えると、ウルリケはにこりと微笑む。
「そんなに土だらけになって、葉っぱ塗れになって、それでも頑張ったのね。かっこいいと思うわ」
ウルリケの言葉に、生徒たちは改めてレクトの姿を見た。
レクトは髪の毛に葉っぱや蜘蛛の巣を付け、靴だけではなく手も膝も真っ黒だった。
他の生徒も障害として出現した泥道のせいで足元は汚れていたが(特に、転んでしまったエダーはひどいことになっていたが)、レクトの場合は、全身が汚れているのが特徴的だった。
「どういうことだよ……」
当惑したように、ジルコが呟く。
「ウルリケ、あなたもしかして」
不意にベルティーナが尖った声を出した。
「泥で汚れるのが嫌で、そんなに遅かったの?」
「え?」
ウルリケの反応は鈍かったが、みんなの視線は彼女の足元に集まった。
言われてみれば確かに、ウルリケの靴はほとんど汚れていなかった。
「まさか」
ウルリケは肩をすくめる。
「そんなことないわよ」
「でも、靴がそんなにきれいだなんて、おかしいわ」
ベルティーナは、令嬢らしからぬ自分の泥だらけの靴を指差す。
「ほら。普通はこうなるのよ」
「そう言われても」
ウルリケは小首をかしげた。
「真剣に走ったわ」
「見損なったわ」
ベルティーナの声は、怒気を含んでいた。
「あなたは、やるときはやる人だと思っていたのに」
いや。それはおかしい。
それに気付いたのはラウディだった。
ベルティーナが怒っているのは、ウルリケが足元を汚すのを嫌がって、泥道をよけて通ったと思っているからだ。
だが、ライマーに道を間違えさせられたせいで最後尾に落ちたラウディが、ウルリケを抜いたのは、泥道を過ぎたところだった。
ラウディの目の前で、障害の泥道をウルリケは少なくともほとんどみんなと同じ速さで走っていた。
それなのに、靴が全く汚れていない。
そんなことがあり得るのか?
「僕が勝てたのは」
ラウディの心の中の疑問を遮ったのは、レクトの言葉だった。
「植え込みの隙間を、チェックポイントまで一直線に突っ切ったからなんだ」
「隙間を一直線に?」
ベルティーナが目を丸くする。
「どういうこと?」
レクトがネルソンに教わったルートを説明すると、みんなが呆気にとられた顔をした。
「道を無視して、最短距離を走ったのね」
ベルティーナが呆れ半分驚き半分の顔で言う。
「でも、そんなことをしていいの?」
「道を通らなきゃいけないとは言われていないから。ヴィルマリー先生にも注意はされなかったよ」
レクトはそう言うと、ライマーを見た。
「隙間はすごく狭いんだけど、ライマーなら入れる」
「ほんとかよ」
ライマーが嬉しそうに言う。
「それから、ジルコ。君も」
「え?」
驚いたようにジルコが顔を上げた。
「俺?」
「うん。植え込みを傷つけるわけにはいかないから、隙間に入れる人は限られてるんだ。でも、身体の小さい二人ならきっと入れる。足の遅い僕よりも、もっと早くゴールできると思う」
「それ、教えてくれるのか」
ライマーが嬉しそうに言う。
「いいのかよ、レクトだけの秘密の作戦じゃなくて」
「だって本番じゃ、僕だけ速くたって仕方ないじゃないか」
レクトは言った。
「僕ら全員で一つのチームなんだから」
その言葉に、ラウディが虚を突かれたようにレクトを見た。
「敵は、2組と3組だ」
レクトは自分の言葉に力を込めた。
「勝つためなら、秘密でも何でもないよ」
驚いた顔のまま、声も出ない様子のジルコ。
「そうだよな。俺たち、チームだもんな」
納得したようにライマーが何度も頷く。
「……そうよね」
毒気を抜かれたように、ベルティーナも同意した。
「レクトの言う通りね。相手は2組と3組だものね」
「さすがレクトだわ」
ウルリケが小さく手を叩く。
「見据えているものが違うわね」
「いや、別にそんな」
さすがにレクトが照れて口を挟むと、不意にラウディが、へっ、と笑った。
「面白くねえな。それじゃ俺たち身体の大きいやつは、まるっきりお前らのために囮になってやるみてえなもんじゃねえか。真面目に走るのがばからしくなるぜ」
「ラウディ、それは」
ライマーが何か言いかけたのを無視して、ラウディはレクトを見た。
「だけどまあ、お前らみたいな連中じゃ誰にも警戒されねえから、囮にもならねえか」
「え?」
「だからよ」
ラウディはなぜか顔を赤くして、苛立ったように言った。
「俺は他のクラスの連中と競り合って堂々と走るから、お前らはそのせこい抜け道ルートでさっさとゴールしろって言ってんだ」
「それって、つまり」
「うるせえな」
ラウディは腕を振り回した。
「ジルコ。お前、その近道を通って俺に負けたら承知しねえぞ」
「あ、ああ」
ジルコがぎこちなく首を縦に振る。
「そうね。私も、植え込みの中を通るのはちょっと無理だし、どうせなら普通の道を走りたいわ」
ベルティーナもそう言って、レクトに微笑んだ。
「囮って言い方はどうかと思うけど。他のクラスの注意は私たちに引き付けるから、レクトたちは一気にそこを抜けてゴールして、驚かせてあげて」
「ありがとう」
「いいのよ」
ベルティーナは普段の彼女の快活な笑顔を見せる。
「私たちのクラス全員で一つのチームだもの。ね?」
「そうそう。お礼を言うのは俺たちの方だぜ。こんなすげえ作戦を教えてもらえるなんてさ」
ライマーがジルコの肩を抱く。
「な、ジルコ」
ジルコは相変わらず気まずそうな顔をしていたが、小さく頷いてレクトを見た。
その目にはもう敵意はなかった。
代わりにどこか畏れのような色が浮かんでいた。
「その……ありがとな、レクト」
ああ、そうか。
レクトは思った。
世界って、こうやって変えるのか。
自分の力で誰かを変えるんじゃなくて。
自分が変わることで、見える景色が変わるんだ。
けれど、板の塗り替え競争の練習が終わり、コイン集めの練習になると、やはりレクトはいつものレクトだった。
ようやく一匹だけ捕まえた蝶が赤みを帯びた銅貨に変わると、レクトはため息をついた。
「コイン集めじゃ相変わらずだな」
ラウディが意地悪な笑みを浮かべてそう言ったが、それ以上は何も言ってはこなかった。
「お前の分まで、俺たちが捕ってやるからよ」
ジルコがおずおずと言った。
「お前は気にすんな」
いつの間にか、クラスが一つのチームという感覚が芽生え始めていた。
そのきっかけはレクトの勝利であり、その後の彼の言葉だ。
「何だかいい感じね」
ハイデが嬉しそうに言った。
「レクト。あなたが勝ってくれたおかげね」
練習が終わった後、レクトはライマーとジルコを連れて庭園を歩き、植え込みに隙間がある場所について詳しく教えた。
寮への帰り道で、レクトはこの学院に来て今まで感じたことのない充実感を味わっていた。
ネルソンさんにお礼を言わないと。
小柄な三年生の無邪気な笑顔を思い浮かべて、そう思った。
それに、コルエンさんとキリーブさんにも。
だが、それとは別に、心が落ち着かない原因があった。
「今日の夜、寮の外のあの場所に来て」
練習の後で、ウルリケがそう囁いていったからだ。




