終章 新句国王・戰 その4
終章 新句国王・戰 その4
そろそろ、夕暮れ刻が近付いてきていた。
其れでも、祭国と禍国、そして句国の連合軍の速度は落ちない。
宛ら絶え間無く落ちる瀑布の水の如くに、只管、進み続ける。
豪雨の最中のように、馬の蹄の音は鳴り響く。加えて、怒号が其処此処で起こっている。喧騒が止まぬ中、真が乗っている馬車に、するりと風が舞うように音も無く乗り込む影があった。
「真殿」
「……」
闇のように気配を感じさせない影が、真に声を掛ける。
「真殿」
「……」
影は真の傍に寄り、膝を付く。
「真殿」
「……」
三度声を掛けても、真からの返事は無い。
板の上に背中を丸くして俯せになり、うんうん唸ったかと思えば、手桶を引き寄せて黄色い液を吐いている真は、返事をする余裕など全く無さそうだった。
「真殿……」
呆れた、と言うよりは予想通り過ぎて言葉も無いのだろう、やれやれと言いたげな視線を向けて来る影の正体は、無論、早足の二つ名を誇る芙である。
憔悴し体力を消耗きっている真だったが、だが芙が来たと知ると、其れでも気力を振り絞った。
鼻に付く酢のような異臭を放つ手桶を抱えながら、芙に向かってよろよろと片手を挙げようとしている。
「仕方無いお人だ。無理はするなと、散々っぱら陛下に念押しされていただろうに」
「……いや……です、ね、芙……め、めいれ……い、を、くだ……す、ひと、というのは……現状を……しら……な、い、から、こそ……おきら……く、に、あれ、やこれ、やと……もの申す……の、です……よ……」
「……真殿」
「……言わ……れて、です、ね……はい、わかり……まし、た……と、すぐにじっ……こう、できる……の、であれば……努力……など、ひ、つ……よう、ありま……せん、よ……」
「其れはそうだが、此れは如何にもと言うか:
芙は顔を顰めながらぼやきかけた。
しかし其れ以上は口にせず、肩を使って溜息を吐きながら真の手から乱雑に手桶を奪い取ると、無理矢理、横にさせた。
明らかに目の焦点が合っていない。
一度、耳を悪くしてからというもの、真の酔い方は悪い方に拍車が掛かっている。
下手をすると、此の身体を横たえるという行為にすら、目眩を起こして気分を悪くするのだから始末が悪い。
傍にあった手拭いに竹筒の水を染み込ませて、閉じられている目蓋の上に置いてやると、真は、ほっ……、と心底安堵に浸った様子で吐息を漏らした。
「……句国の……王城の……ほ、うは……どう……なって、います……か……?」
「薙と蘭からの連絡によれば、剛国王が異腹弟たちの鼻っ柱を殴りつけて、陛下に頭を下げるよう、納得させたようだ」
「そう……です、か……」
「陛下の出迎えには、王弟・斬を寄こす気らしい」
「……そ……う、です、か……では、趙どの、に……た、のんだ、事、は……?」
「其れも手配済みだ。茹と、地理に長けた萃にも助力するよう命じてある。心配は要らない」
「……はい、ありが、とう……ござ、い、ま……す……さす、が、に……芙……です、ね……」
「無駄に喋らない方がいい」
溜息を吐きながらぞんざいに答える芙に、真は青い顔で絶え絶えに応じながら身体を起こそうとして失敗し、結局、横倒しに転倒して、うんうん唸りながら丸くなった。
身悶えしている真を前に、芙はまた、深々と溜息を吐く。
「まだ横になっていた方がいい。揺れている中で無理に身体を起こそうとしても、目が回るだけだぞ」
「いえ、でも……しかし、です、ね……」
「いい加減にしろ、真殿。手間が増えるばかりで敵わん。命令なら寝転がってでも出来る。体力が無いと自覚しているのなら此方の言う事は素直に聞け」
「……は、い……ですね……」
芙が幾分、芝居掛かって眉を吊り上げながら語気を強めると、流石に真も顔に手拭いを張り付かせたまま、……済みません……、とぼそぼそと口の中で謝り、頭を下げて更に身体を縮こめる。
「だが、あの王弟・烈が黙ってはいないだろう。どうせ陛下にちょっかいを仕掛けて来るに決っている」
「おや……烈でん……か、も、芙にかかる……と、酷い、言われ……よう、ですね……」
「茶化している場合か。……で、どうするつもりだ?」
「いえ。心配……為さらずとも……たぶん、大丈夫……だと、思います、よ……」
「大丈夫、とは?」
猫のように丸まっている背中を擦ってやりながら芙が問うと、真は手拭いをずらして、にこ、と肩越しに笑ってみせた。
★★★
「……斬殿下を……寄こして来た、と……いう、事は……烈殿下、が……折れた……という、証拠……です、から、ね……」
「あの烈が、そんな簡単に引き下がるか? 俺はとてもそうは思えんが」
確信をもって答える真に、芙はまだ半信半疑だ。
「……信じ、られませ、ん、か……?」
「今まで、散々っぱら横槍を入れられ事有る毎に毒を吐かれているのだがら、当然だ。寧ろ」
「……寧ろ、何だと? 斬殿下を背後から殴り倒して取って代わる位、平気でやりかねんのが王弟だろう――と、言いたい訳ですか、芙は?」
ごろり、と素直に仰向けに寝直した真は、はっとするほど、一本、筋の入った声をしている。
「大丈夫ですよ」
「……」
「剛国も、いえ闘陛下は馬鹿ではありません。毛烏素砂漠での勢力争いに勝利を収めた蒙国が、何れ、崑山脈を越えて平原に大挙して押し寄せる時期も近いのです。戰様と共に禍国をも敵に回すか、其れ共、句国王の地位を戰様に呉れてやり、蒙国の生きる防波堤とし尚且、禍国の勢力を殺ぐか、何方を選ぶかと問われた時、剛国は後者を選択したのです」
「……真殿」
「で、ある以上、剛国は戰様の御味方として暫しの間、動かざるを得ないのは必定である――と闘陛下に説得されれば、烈殿下も首を縦に振り、従わざるを得ません」
「だろうか?」
未だに芙は半信半疑のようで、軽く頭を振っている。
「真殿の策は、何時も通りに烈が怒り心頭のまま動いて貰う事を前提に練っているだろうが」
「当初の予定通りに行かなくなる恐れが出るようであれば、其れは其れで困りますが」
「だろう? どうする?」
「どうもしなくても、烈殿下は斬殿下にくっついて来られますよ」
「……ついて来るだけで済むか?」
片眉を跳ね上げ、まだ訝しんでいる芙を余所に、大丈夫ですよ、と言いながら真は余裕たっぷりに笑う。
「芙が思っているような妄動にまでは、今回、烈殿下は及びませんよ――其の前に、戰様の御都合に良いように」
「片が付く?」
言葉を奪った芙に、はい、と真は頷いてみせる。が、芙は肩を竦めて息を吐いた。
「真殿の策だから信用はする。が、どうにも俺は、あの馬鹿の一つ覚え殿下が嫌いだ」
――馬鹿の一つ覚え殿下とは、此れはまた上手い事を言いますね、芙。
堪らず、真は吹き出した。
「ですが、芙。其処までは愚か者ではない、と少し位は認めて差し上げないと。流石に、いつまでも直情径行な小僧殿下扱いばかりしていては、烈殿下に悪いですよ」
――直情径行小僧殿下とは、真殿も、言う程悪いと思っていないだろうが。
上手い事を言い合っている場合か、と芙はまた呆れた。
「其れは其れだ。剛国王と斬王弟はまだ多少なりとも信じてやってもいい。が、俺は烈を信じてやる気は毛頭無い。いや、許してやる気もない」
珍しく、未だに根に持った嫌疑と嫌悪をすっぱり口にする芙に、真は苦笑しきりだった。
勿論、此処は烈よりも斬に来てもらった方が、何かと都合が良いのだから、疑って気に病んでばかりいては時間と精神力の無駄というものだ。
と、真はむくり、と上体を起こした。
額からずり落ちてくる手拭いを抑えながら、笑っている。
「……処で、芙」
腰を落ち着けた芙に、そんな事よりも、と真が首を伸ばしてきた。
表情から、何が聞きたいのかを察した芙は手で制すると、ごそごそと懐を探る。
「大丈夫だ、無事に見付けた」
言いながら芙が両の腕を差し出す。
土気色に変色はしているが、見事な錦織の布の塊を前にすると、真は眸を見張った。
そして、ぐっ……、と腹から迫り上がって来る何かを押し留めるかのように、顎を上げる。
いや、実際に、胸は一杯になっていた。
「此れが……句国の六撰の御璽――」
真の声が掠れ、裏返っている。
事実を口する以外出来ない程の感動が湧き上がって来たのは、真だけでなく芙も同様だった。
任務を遂行している最中は、感動らしい心の動きなど然程無かった。
寧ろ、此れまで通り変わらず淡々としていた。
こんな印璽の一つや二つで国がどうなるかなど笑止、とすら思っていた――と言うのに、どうだ。
いざ、感動に打ち震える真を前にすると、事の大きさと、歴史の大渦に己も放り込まれたのだ、と云う当事者としての昂ぶりに全身が支配される。
「芙、有難う御座います――此れで」
真の声が、涙で湿り気を帯び出していた。
「此れで、戰様は、名実一体『王』を名乗る事が出来ます」
涙ぐみながら、何度も何度も頭を下げる真に、いや、と芙は短く応えると、布を閉じてある組み紐を解きに掛かった。が、真は芙の手の上に自分の掌を重ねて止めた。
「何故、止める、真殿。此の璽綬は」
「芙。申し訳無いのですが」
不満気に眉を顰めてみせる芙に、真は柔らかな笑みを浮かべながら、首を横に振る
「戰様の前で解きたいのです」
「……そうか」
言われてみれば、真の心情として、当然だった。
璽綬を包んである錦を、じっ……と真は見詰め続けている。
――どんな思いが心中に渦巻いているのか。
此処までの艱難辛苦に満ちた長き年月か。
其れ共、哀れな死を迎えた盟友との懐かしき日々か。
其れ共。
新たなる道程を築く綺羅を放つ希望の日々か。
芙は、手の上にある包と、そんな真を何度も何度も見比べた。
「では、急いで陛下の元に行こう」
「……はい、ですね……。早速、戰様の処に参りましょう」
だが真は、腰砕け状態でまともに立ち上がれない。
「……真殿」
「……あは、はは、は、どうも、興奮し過ぎて腰が抜けてしまったようで……」
芙は一つ肩を竦めると、もたもたしている真を立たせてやると、笑いながら、腕を肩に担いで歩く手助けを買って出た。
★★★
「……済みません、芙、何時も助けて頂いてばかりで……」
「いや」
「有難う御座います――では、参りましょう」
無理矢理腹に力と気合いを入れた真の声音に、芙は苦笑する。
――此の笑みだ。
何があろうと陛下を押し上げる気が漲っている、此の笑みだ。
肩に真の身体の熱と鼓動を感じながら、芙は思った。
蔦に草としての技の限りを仕込まれた芙たちも、最下層に生きる者だ。
そんな芙たちにとって、現実と理想の間で魂に擦り傷を負い、進んでは後退を繰り返しの藻掻きの中で苦しもうとも、結局、理想を選ばざるを得ない真という男は、見捨ててはおけない存在だった。
無論、真を其処までにするには戰という存在が不可欠だが、もしかしたら俺たちも、とそう思わせるだけの希望の星となりつつある真と戰に、芙は此の時改めて、懸けてみる気になった。
――思えば、御二人との出会いも可笑しなものだったが。
数多の戦乱の中を草として生きてきた自分たちに、初めて対等に接し手を伸ばした――いや、珊の口調を借りるなら、見付けて呉れた、と言うべきなのか。
人の世の影に沁み入るようにしか生きられない一座の者たちに、表通りの明るさと風の朗らかさを教えて呉れたのは戰であり、其の彼に引き合わせて呉れたのは、他の誰でも無い、同じ様に星すら仰ぎ見る事を許されずに生きていた真だ。
此の二人に与し、命運を共にすべく生きようと定めたのは、一座を鍛え上げた主である蔦だが、記憶にすら残らぬ幼子の時分の己を拾った蔦と今の自分が同世代になっていると言う事実に、芙は一瞬、唖然とする。
つまり、蔦の後継者としての行末が見えてきた今、芙は、腸が捩じ切れるように、強烈に願うようになった。
――何時までも、主様の命令に依って生きるのではなく、俺も、自身の心に真正直に従って生きてみたい。
実は此れまでの戦いに置いても、芙たちは蔦の命令から大きく逸脱し、真と戰に肩入れしてはしていたが、気が付かぬ振りをしていた。
仕事の範疇を大きく超える動きをするなど、草として生きる者にとっては死に直結する事であり、自分が下の下の細作であると周囲に言って回っているようなものだからだ。
だが改めて、己の意思を確認した芙は、心に誓いたくなった。
此処までの戦に、一番多く従軍してきたのは、真殿でも陛下でもない、俺だ。つまり、俺にしか出来ない。
――陛下と真殿。
御二人が臨む空は、如何なる色をしていたのか。
流れる雲と共に歩んだ大地の潤いは、如何なるものだったのか。
――俺が後世に伝える役目を担いたい。
此の先の戦も、全て眸にするであろう俺にしか出来ない。
何という事だ、最高の仕事ではないか。
其れは、此れまで仲間の、特に妹分の珊を幸せにしてやりたいと云う以外、望みらしい望みも持った事がない芙が生まれて初めて心に抱いた、野望とも言えぬ、小さな希望だった。
★★★
芙が目的の品を手にして戻ったとの連絡が入り、行軍は一旦止められた。
天幕を張る時間は惜しかったが、流石に持ち帰った『物』を思えば仕方無い事だった。
克と杢が指示を出すと彼らの部下たちは実に手際良く且つ簡捷な動きで、あっという間に天幕を建てていく。
「陛下」
優が幕を引き上げつつ頭を下げると、戰は一つ頷き、先頭になって中に入る。
続いて主だった者、先ずは優、そして克、杢、そして最後に真と芙とが続く。竹は、此の短い時間を最大限に有効活用して休息を取る事が出来るように指揮を始めた。
幕が閉じられると、小さな影が現れた。
陸だ。
天幕の周辺を、陸はまるで忠犬宜しく、ぐるぐると徘徊し始める。見張りを自ら進んで買って出たのだ。
此れまでの陸であれば、何故自分も中に入れないのか、仲間外れにするつもりなのか、自分だって陛下の部下で仲間だ、入れて呉れ、入れろ、入れねえか糞野郎! と大いにごねて周囲の者の手を煩わせたであろう。
が、今の陸にはそうした気配は一切無い。
姜が凄絶な最後を遂げてからというもの、陸は、力量不足であるから相手にされぬのを子供の我儘で其れを認めず、大人の世界に無理矢理入り込もうとしていた己を自然に恥じるようになっていた。
「芙、御苦労だったね」
「早速ですが、皆に詳しく話して呉れませんか」
真が促すと、芙は仲間4人と趙の現状を短く、然し的確に伝える。
句国王妃・縫が姜に託した六撰の御璽を無事に捜し当てたと聞き及んだ克と杢、そして誰よりも優の顔に力が漲る。
――とうとう、陛下が平原に立たれる!
感慨無量とは此の事だ、と熱血漢の克は全身で語っており、杢の苦笑を誘っていた。
だが、其の杢とて傍から見れば五十歩百歩だった。握り拳が、赤く滾っている。
もっと言えば、彼らの嘗ての上司である優は、此の慶事の歓びを野獣のように吠えて表しそうになるのを必死で堪えていた。
「良くやって呉れたね、芙」
陛下、と優が強い口調で嗜めるが、戰は聞く気が更々無いのは態度が示していた。
芙の隣で同じ様に跪いている真は、両の手で包を更に包んでいる。
愛おしむような慈愛を注いでいるかのような仕草からは、手を有蓋の梪の代わりにしているように見える。
「真、陛下に御渡しせよ。御璽を検めねばならん」
優が命じると、真は眸を伏せつつ両の手を差し出そうとした。
だが、戰は微笑みながら其れを止める。
「開かなくていい。いや、此処で開くべきではない、と言うべきかな」
「陛下?」
「璽綬を開くのは、句国王城であるべきだろう」
「陛下、しかし……」
優は眉根を寄せた。
姜の言葉が真実であるのかどうかを、此処で確かめねばならない。
芙が錦を開かずに持ち帰ったのは褒めるべきであるが、此れが果たして真実、句国が所有している璽綬であるかどうかは、見てみねば分からない。
即位を見定める剛国王の眼の前で、奸計から国を守る為の偽造品であったならどうするつもりなのか。
「大丈夫だ、兵部尚書。姜は勿論、句国王も、そんな腹黒い漢ではないよ」
「陛下、然し乍ら敢えて申し上げます。陛下はお甘い。句国大将軍にとって、純粋に陛下に心服しての行為から託したものであったとしても、句国王までもがそうであるなどと、誰にも断言出来ませぬ。確認して然るべきです」
「兵部尚書」
「禍国軍を率いている兵部尚書として、私は引き下がる訳には参りません。句国王の遺訓が無いまま剛国王を見届役とし禅譲を行うのであれば尚更、王の大軍旗と璽綬を揃え天意は陛下に有りと示さねばなりません」
若い戰たちに苦言、と言うよりは多くの禍国兵たちが密かに懸念している事を、優はずばりと口にする。
項垂れるようにし頭を下げたまま、おやおや、と真は苦笑した。
――流石と言いますか、久しぶりに父上らしい暑苦しい御高説ですねえ。
4年前、句国を討て、と代帝・安に命じられた頃、真は戰が得た腹心の臣であり仲間たちが若者ばかりで構成されているのに懸念を抱いていた。
自分だけでなく、皆、戰の希望を叶えようとする策しか打ち出さないからだ。
真っ向から、と言うよりも問答無用の頭ごなしに否定の意見から入る事が出来る人物、早い話が憎まれ役が居ない国は、何れ足元をすくわれるものですが、其れにしても父上は解り易過ぎる意見の仕方ですよね。
御璽を手にしながら苦笑している真とは反対に、背後に従っている芙は明白にむっとしている。
真の父親でなければ、後で膝裏に蹴りの一つも入れて転ばせてやる処かもしれない、と云う顔付きを隠しもしていない。
「兵部尚書、確かに其の方の立場からすればそうだろうね」
優に言わせるだけ言わせた戰の笑みは、其れでもまだ和んでいる。
「陛下」
「兵部尚書の言い分は最もだ。だけどね」
戰は立ち上がると、跪いている真に近付き、差しだされている手の上に自らの手を重ね合わせた。
「裏切られているようであれば、私は所詮其処までの漢でしか無い。天帝が我に定めし宿星は覇王である、とは騙りであろうと嘲り笑われるだろう」
「陛下、其れは違います。御認識を検められるべきです」
「いや、兵部尚書。私は人を信じて此れまで生きてきた。逆に言えば私は、人を信じる以外、何もしていない、と言って良いだろう。財となる家門も派閥も何も持たなかった私が、唯一持ち得たものと言えば、人を信じる才能、此れだけだ。此れだけ多くの仲間と友に恵まれた。なのに、私が持つたった一つの徳を自ら捨てろ、と兵部尚書は言うのかい? 其れこそ言語道断だろう。天帝の意に叛する行為とは言えないか?」
「……陛下」
優は溜息を吐きながら、首を左右に振った。
そして不意に、優は、じろり、と真を睨み付ける。
睨まれた真は、軽く肩を竦めながら、素知らぬ振りで視線を外す。
が、内心は笑いを堪えるのに必死だった。
――流石に父上。良くお解りですねえ
真、お前が陛下にこう言え、と要らぬ入知恵をしよったな――と優の眸は物語っていた。
★★★
優の前に座る戰は笑っている。
何時も通りの笑顔だ。
つまり、人誑しの笑顔だ。
「……仕方ありませぬな」
深い溜息を吐きながら目を閉じて頭を振り、優は敗北を認めた。
「此の場で使った時間の分は取り戻すぞ、杢、克、よいな?」
「はい」
「無論です」
杢と克は嬉しそうに優からの命令に礼を捧げる。
どんなに出世しようとも、戰を主とせんと心に定めようとも、二人にとって優は、此の世で唯一人頭の上がらぬ、そして尊敬する上官なのだった。
「では当初の予定通り句国の城を目指す! ――だが、其の前に」
立ち上がり掛けた杢と克は、互いに顔を見合わせる。
優が何を言い出すつもりでいるのか、分からないらしい。
「陛下」
「何だい、兵部尚書」
こんな時でもまだ、許す、と上からものを言わない戰を、優はほんの一瞬、眩しそうに見上げた。
「陛下は六撰の御璽を誰から受け取られる御積りであらせられますか」
優の言葉に、もう一度、杢と克は顔を見合わせ、跪いていた芙は垂れていた頭を勢いよく上げた。
其の話に、最も最後まで抵抗を示していたのは優だが、最終的には渋々ながらも納得した筈ではないか。
いよいよ句国王として即位する晴れの瞬間が目前に迫って来たと言うのに、今更蒸し返してどうする気なのだ、という心配と疑念を隠しもしない。
「どういう意味だい?」
「恐れ乍ら陛下は、句国王より正しく禅譲を受けし践祚の儀典であるとの宣下を、同盟国とされる証として剛国王に御任せになる御積りであらせられますが」
そうだが、と戰が応えるより先に、優は語気を強めて言い放ち睨んで来た。
「なりませぬ」
「……兵部尚書」
「天帝への寿詞、そして即位の礼の宣命使は、陛下が最も愛しておられる家臣が担うべきかと存じ上げます。いえ」
「兵部尚書」
「此の兵部尚書、承服致しかねます。と言うよりも、許せませぬ」
其の場に居た全員が、いや此の場に居ない者が優の言葉を耳にした時、誰しもが、己に其の役目を託せ、と彼が迫っているのだと思った。
兵部尚書である己が率先励行して禍国より叛したのだと内外に知らしめる事こそが肝要であると考えるのは、彼の立場と性格からも至極当然と言える。
それに戰自身が主となる軍を多く率いて祭国から離れている今、下手に本国の皇帝を刺激して、禍国が露国や東燕が結び遠交近攻に出られては困る。戦えば負けはしないだろう。
だが、被害は大きくなる。
そうなれば喩え平原を統べたと言えど、全土に理想である王道を施くのには、長い時間が掛かるだろう。
崑山脈以西に広がる砂漠を支配下に収め一大帝国を築き上げつつある蒙国を思えば、今、時間は金よりも重く尊い価値のあるものだと認識すべきだ。
優の力強い眼光からは、彼の意思がひしひしと伝わって来る。
「兵部尚書。では、誰に任ぜよと貴殿は言うんだい」
暫しの沈黙の後、戰が問うと、待っておりました、と優は笑うと、胸を張り立ち上がった。
何をする気だ、と訝しむ克と杢、芙たちに目もくれずに、真の前にどかりと腰を下ろした優は、ずい、と腕を伸ばした。
思わず知らず仰け反る真だったが、御璽を持つ己の手に、父の両手が掛けられるのを知ると、目を見開いた。
「ち……父上……?」
「真、お前がせよ」
戸惑う真に追い討ちを掛けるように、野太い声が命じた。
「わ、わた、し、が……?」
「そうだ」
「此の――星知らずの私に……?」
「そうだ!」
「『もの』でしかない私にやれ、と」
「そうだ!!」
「父上は、そう――仰られる、のですか?」
「そうだ! お前以外に」
思わず口籠り訥弁になる真の態度が煮え切らぬものに映ったのだろう、優は今度は肩をがしりと掴むと、激しく息子を揺さぶった。
「誰がおる!! 言えるものならば言ってみよ!」
「……ち、父上……」
「陛下の初陣の時からお傍に仕え来たではないか! 最も長く、そして陛下の勝利に誰よりも貢献してきたのは、お前ではないか!」
「……父上……」
「お前以外の一体誰が相応しいと言うのだ! 誰の名を挙げる気だ!? 誰か他に思い当たると言うのであれば、言え、言ってみよ!」
「……」
「どうだ、真! 黙っておらんで言えるものなら言ってみせよ! だが、言った側から貴様の其の思い違いが正されるまで殴ってやるから心して口を開け!」
「……」
揺さぶられながら、真は助けを求めて戰を見た。
しかし、戰は笑う――と云うよりも微笑みながら親子を見詰めるばかりで手助けする気配はまるで無い。
「お前がやらねばならんのだ、真」
「……父上……」
しかし、と真が続けようとすると、優は頭ごなしに怒鳴り付けた。
「此の大戯け者めが! 己で己の言葉に責任を持てぬのであれば、人として生きたいなどとほざくのではないわ!」




