23 合従連衡 その10-4
23 合従連衡 その10-4
「おっちゃん、あれ、彼処!」
天幕を飛び出した陸と姜は、見た。
句国兵たちが上げる気炎の先に、大きく掲げられた剛国王弟・烈の軍旗が確かにはためいているのを。
――王弟・烈。
突然の豪雨のような猛烈さで現れた剛国軍に、姜の頬が固く引き締まる。
「剛国軍め、予想よりも到着が早い。いや、流石は騎馬の民の国、剛国王弟・烈と褒めてやるべきか」
「おっちゃん、何を糞余裕ぶっこいてんだよ」
姜から受け取った小さな布切れを胸元に押し込みながら陸が叫ぶと、其れはそうだ、と姜は苦笑する。
姜の元に馬を引いてきた兵士が、緊迫した面持ちを隠そうともせず、お早く、と声を掛ける。
剛国軍はたった一万騎でしかないが、その強さは一騎闘千であるのは骨身に染みている。
備国王を囚えた、と言う勝利に酔いしれて気分が高揚しているからこそ感じずにいられるだけで、句国兵は誰も皆、疲労の極地に居る。
――まずい。
疲れ果てて集中力と持続力が心許ない句国兵など、大した戦もしていない剛国軍の相手にもなるまい。
数を頼みに3~4人で束になって剛国兵に斬り掛かったとしても、自軍の兵らは苦もなく返り討ちにしてしまうだろう。
――いかん、此のままではじり貧だ。
折角、此処まで来たのだ。
句国が蘇る瞬間を、陛下の御霊に備国王の首を捧げる瞬間を見届けさせてやらねばならん。
姜は、己の決心の遅さを悔みながら、だが一縷の望みを託す少年の背中を押して厩に走った。
訝しむ陸を前に、緊迫の面持ちの仲間に命じて自身に与えられた騎馬の中から脚の強そうな駿馬を素早く選び出させると、毟り取るようにして手綱を取る。
「ともあれ陸よ、時間が無い。早く郡王陛下の追って行くが良い」
「け、けどよぉっ!」
まるで餌場を巡って争っている獣たちのような喧騒が、徐々に近付いて来ている。
一刻の猶予もないのは、陸にも分かる。
分かるが、実行に移せるかどうかはまた別問題だ。
こうして剛国軍との戦が始まってしまった今、姜たちを置いて行ける訳がないではないか!
聞き分けず、赤子のように膨れ面をしてみせる陸に、姜は強い表情をしてみせる。
「行け! 分からぬのか! お前に我が句国の命運が掛かっておるのだ! 我らの心配は無用だ! 克殿と杢殿が加勢に来て下されさえすれば形勢は逆転する! 行くのだ、陸!」
「けど、おっちゃん! おっちゃん達がこんな大変なのによ、俺、皆を置いて行けっこねえよ!」
「余計な事など考えずに行け、行かんか!」
「行けねえ! 俺、行けねえってばよおっ!」
泣きべそをかいて地団駄を踏む陸と、眦をきりきりと釣り上げて怒鳴る姜の耳に、句国兵の悲鳴が届いた。
「句国の将軍よ! 何処におる! 我が王に句国王の軍旗を寄越せ!!」
剛国軍の怒号に句国兵の怒号が被さる。まるで、滝壺の中で掻き混ぜられている水流と爆音のようだった。
「えぇい! いい加減に聞き分けいっ!」
業を煮やした姜は、陸を小脇に抱えると共に騎馬に飛び乗った。
其の姜に、仲間たちが剣を投げるようにして手渡す。
柄を握った姜は間髪入れずに、うわっ!? と叫んで手足をばたつかせる陸を抱きかかえたまま、馬の腹に一蹴り入れる。
後ろ脚で立ち前脚を高々と掲げて一際高く嘶いた馬は、姜の命令に従って瞬足を見せた。
入り乱れて始めた句国兵の駐屯地は、夜襲の備えが万全で無かった事もあり、剛国軍に押されて既に敗色を濃くし始めている。
戦場を経験している陸だが、此方に部がある勝ち戦が濃厚な場にしか身を置いていない。
当然、独特の死の気配と言う物を、負け戦に落ちる直前特有の濃厚な血みどろの世界を知らない。
言い表しようのない気に呑まれ、意識せぬまま、ごく、と喉を鳴らし身を震わせた。
乱戦の最中にあって二人乗りで而も敵も味方も無視をして騎馬を走らせる姜を、剛国軍の手に掛からぬようにと句国兵たちは自然と盾となった。
最も長く国王に仕えた歴戦の猛者、最も深く国王を愛し愛された強者である大将軍・姜を、兵士たちもまた愛し、魂を尽くして支えたいと望んでいたからだ。
だが、其れが仇となった。
★★★
――此の様な事態の最中で、斯様に守られる者には、何事か在る筈。
ぎらり、と目を光らせる者の正体は――
そう、王弟・烈だ。
戦に生き、戦にこそ至上の価値を見出す漢は、野生動物もかくやばかりの凄まじいまでの本能と嗅覚とで、駆け抜けようとする騎馬の存在を感じ取る。
そして其れが、句国の大将軍・姜であると半瞬置かずに看破した。
手にした大槍を頭上で、ぶん、と回転させると、ぐん! と腕を突き出して鋒を馬上の姜の背中に向け、大喝する。
「待てぃっ! 其処な奴! 貴様、句国大将軍・姜だな!?」
返答はない。
が、其れが答えであった。
ふん、と烈は鼻息を荒くした。兵士たちに守られて、大将軍が落ちようとしている。
とすれば、理由は只一つしか無い。
「貴様が持っている句国王の軍旗を寄越せ!」
肩越しに、ちら、と姜が烈を見やった。
何処か憐れむような、そう何故か哀しむような視線だった。
――おのれ、此の私を慢侮するというのか! 句国程度の国の将が、此の、剛国王弟・烈を!
烈の躯の熱は更に上昇し、灼熱と化した。
「貴様ぁ! 止まらんかあ!」
烈は怒りのままに、腕を肩から大きく回転させた。
ぐん! と限界まで引っ張られた腕は柳の枝のように撓り、ぶぅん! と唸りを上げて槍を飛ばした。
槍は、其のまま姜の背中に突き立った。
★★★
「……ぐ、ふっ……」
自分を抱き締めている姜の異変に、陸は直ぐに気が付いた。
「おっちゃん!?」
「……ぬ……ぐ……」
陸が叫ぶ間にも、鈍い音が姜の背中で上がる。
苦悶の表情を浮かべながら、だが姜は微かな呻き声は漏らしながらも痛みに耐え抜いている。
――此処で意識を飛ばし陸諸共落馬などしては、元も子も無くなる。
駄目だ、陸は今や此の句国の希望其の物だ。
死なせぬ、死なせてなるものか!
「……其の方には……陛下の、元へ……何としても、たどり……着いて、もらわねばなら……ぬうっ!」
「――へっ?」
額や顳かみに油汗が浮かべて玉にしながら、目を見開いている姜の背中で、どす、どす、と何かで叩かれているような鈍い音が続けて響く。
音がする度、姜の屈強な身体が前後左右に傾いだ。
「おっちゃん!!」
手綱を握っている姜の拳が蒼白となり、ぶるぶると震えている。
陸も、克や竹たちからしごきを受けている。年齢に似せぬ力量がある。
だから、姜の背中に矢が次々と射掛けられているのだと分かってしまった。
青ざめながら叫ぶ陸に無言のまま手綱を譲った後、姜は、無骨な手で優しく少年の頭を撫でる。
「……父ちゃん……母ちゃん……」
ぼそ、と陸は呟いた。
こんな時だと言うのに、何故か陸は、故郷に残してきている両親と妹、そして共に悪さをして遊んだ喧嘩仲間を思い出してしまった。
ずん、と胸が疼く。
「……陸よ……」
「おっちゃん、駄目だ! 無理すんじゃねえよ! 逃げよう、此のまんま逃げるんだ! おっちゃんこそ下がって怪我の手当しねえといけねえよ!」
「――行け!!」
叫ぶなり、姜は無理矢理、手にしていた剣を陸に握らせた。
そして馬の尻に鞭を入れると、其のまま吹き飛ばされるような格好で馬から降りた。
いや、降りる、というよりは半分は痛みで半分は失血で意識が飛び、転がり落ちた、と言った方が正しいだろう。
受身の姿勢を取れず、無様に地面に叩き付けられた姜の口内から、血の飛沫が飛んだ。
「おっちゃん!!」
「陸、止まるな! 行けぇっ! 我らの為を思うなら振り返らずに行って呉れ!」
叫び様、姜は群がってきた剛国軍の一人に狙いを定めると、地面を蹴って飛んだ。
全体重を乗せた肘鉄を、剛国兵の顳かみに喰らわせる。
悲鳴を上げた剛国兵が、ぐるり、と黒目を回転させるのを見た陸は、糞ったれえぇっ! と分厚い雲に覆われた天に向かって吠えた。
「ちっくしょう! 行ってやる! 行ってやるよ!」
涙に湿った声が疾駆する馬が生んだ風に舞う。
陸は振り返りながら、姜に向かって叫び続ける。
「だから、おっちゃん死ぬなよ! 克兄ぃと杢さんが助っ人に来るまで、絶対絶対、死ぬんじゃねえぞ! 男と男の約束だぞ! 破ったら許さねえからな、おっちゃん!」
少年の姿が瞬く間に小さくなるのを見送りながら、姜はもう一度だけ、行け、陸よ……、と呟いた。
★★★
激しく脳を揺さぶられ平衡感覚を無くし、気を失って白目を剥いて舌をだらりと零しながら上体を揺らめかせた兵士から、姜は剣と槍を奪い取った。
そして、容赦無く相手を騎馬の上から蹴落とした。
どさり、と音を立てて地面に這った剛国兵に、冷たい一瞥を呉れた姜は、脳天に早速奪った槍で一突きしてとどめを刺す。
「……次はどいつだ……? ……死にたい奴から、名乗り出るがよい……」
瀕死と思われた男に、此方の兵士を叩き伏せて騎馬まで奪うという思わぬ逆襲に出られ、むん、と剛国軍が復讐心に色めき立つ。
騎馬の蹄が、じりっ……じりっ……、と地面を擦る音が、此の喧騒の只中にあっても周囲に響く。
時間を掛けて姜を取り囲んでいた剛国兵だったが、ある瞬間、目配せをし合った。
と同時に、わっ! と腕を振り上げて姜に向かって殺到する。
「掛かれ!」
「奴を仕留めて陛下への土産の一つにしろ!」
「国を奪われ王を倒された程度の国の兵など、恐るるに足らず!」
「……そうか、貴様たちは名乗りを上げるか……」
姜を中心にして、酸鼻な血の嵐が舞った。
背中に幾本もの矢を受けながらも、姜の戦闘能力は些かも失われていない。
いや寧ろ、高まっていると言えた。
凄まじい集中力は、剛国軍の僅かな動きも見逃さない。
まるで此処まで数多の戦場を共にしてきたかのように、姜が手にしている槍は主人に成り代わって咆哮を上げる。
姜を倒して陸を追おうとする剛国兵は、槍が一つ吼える毎に叩き伏せられて行く。
「死に損ないを前に何をしているかっ!」
剛国兵の間に、焦燥感が募って行く。
その僅かな隙を見逃す姜ではなかった。いや、死に瀕して感覚全てが研ぎ澄まされているからこそ、突く事が出来た、と言えるだろう。
「えぇい! 誰か此奴を止めろ!」
散々に暴れ回る姜の耳に、次々と血みどろの肉塊と化して行く剛国兵の小山を突き崩すかのような、どよめきが届いた。
兵士たちを左右に割って現れた若い将兵は、味方の兵士たちから畏怖の対象である事が姜にも伝わる。
「見苦しいぞ。貴様ら其れでも兄上の兵たる名乗りを許されし誉れ高き剛国兵か」
血塗れの、まるで襤褸屑のようななりで佇む姜を、将兵は眸を眇めて顎を刳るようにして、ふん、と嘲り笑った。
「ほう、敗戦の最中にあっても身を以て小僧を逃がすとは。大将軍よ、いやに余裕があるではないか」
姜を取り囲む兵を後退らせた将兵は、烈だった。
★★★
喉の奥から、血と、酸味と刺激臭のある吐瀉物が迫り上がって来る。
だからであろう、荒くなるばかりの息は苦い味しかしない。
――剛国兵如きの前で、句国の将として、醜態を晒せぬ。
陛下の御名を辱めてなるものか。
強い自尊心から、姜は耐える。
だが、一息吐く毎に心の臓は不平煩悶を訴えるかのように痛みを発し、視界は白く霞んで行く。
ぐるぐると眼の前の男が回転しているのは、其れが血を失い過ぎているからだと悟った姜は喘ぎつつも、ぶるん、と勢い良く頭を左右に振った。
そんな事で意識が明瞭になるという確証はない。
寧ろ、かえって目眩を酷くするようなものなのだが、ぐらつく意識を踏み留まらせるには、気合を入れるしかなかった。
姜が目に見えて衰弱していっている、と知った烈は、ふん、と嘲笑した。
「無様なものだな、句国の大将軍ともあろう者が」
「……」
「最も、醜態を晒しても、仕えるべき君主は既に亡いからな。恥を覚えずにおられて良かったではないか」
普段の姜であれば、玖を持ち出されれば途端に我を無くしている処だ。
前後を忘れて烈に飛び掛かる筈だ。だが、どんなに揶揄されても嘲笑されても、姜は怒りを露わにしなかった。肩と胸を激しく波打たせながら、ただ静かに、じっとりと烈を睨む。
鼻白むような小僧ではない烈だったが、面白みの無い奴だ、と短く舌打ちした。
「さて、では改めて問うとするか。大将軍・姜。あの小童に何を渡した、何を命じた」
「……」
「句国王の軍旗……では、無いな。あそこに翻っておる」
烈が顎を刳った先には、高々と掲げられた玖の大軍旗が確かに空に我を示さんとばかりに翻っている。
「吹けば飛ぶような寄せ集め兵の溜り場でしかない句国軍が奇襲を受ける理由など唯一つ」
流石に云わずとも分かるな? と烈は嗤う。
姜は答えない。
そう、理由は一つしか無い。
見逃した処で大局に何の支障も来さぬ、軍勢とも呼べぬ句国軍を襲うだけの価値があるのは、偏に、句国王・玖の大軍旗が在るからだ。
軍旗を奪い我が物とすし、剛国が最後の最後に完全な勝利を手にしたと宣言する為に此処にやって来たのだと烈は酔いしれながら続ける。
「国王の軍旗を奪われては、最早、句国に先はない。無論、後にも何も残ってはおらぬがな。だが風前の灯火であると知りつつも、敢えて晒し続けるのは、矜持か? 其れとも、意地か? 何方にせよ、数の上でも実力の上でも蹴散らされるのは必定であろうに、貴様らは慌てる様子を見せずに掲げ続けるのは、援軍が来るからであろう?」
烈の誘導に、しかし、姜は乗らない。
いや、答えようにも、既に姜の肉体も精神も、言葉が滑らかに発せられない処にまで追い詰められていた。
ようよう、姜の生命の灯火が風前まで来た、と気が付いた烈は、弓を力強く構え直した。
ギラリ、と双眸が光った。
容赦無く射抜かんと意思を込めた眼光だ。
「だとすれば、一体何故、小僧を逃した」
ぎゅ、と弦の音を立てて番えられた鏃の先は、姜の胸を的として定められている。
しかし、姜は動じない。
ふしゅう、ふしゅう、と唇から風穴から空気が漏れているかのような音を上げつつ、烈を睨む。
「何を目論んでいる、答えろ」
「貴様に答える義理はない、剛国の王弟よ」
吐き捨てる姜に、馬鹿めが、死を目前にして恐れで狂ったか、と烈は高く嘲笑った。
「貴様こそ、のんびりとしておって良いのか? 私のこの余裕が何を意味しているのか、分からぬというのであれば、剛国王もとんだ不肖の弟を囲っておるものよ」
姜の言葉に、烈の哄笑がぴたり、と止んだ。
黒目が、ぎゅるり、と回転して眼前の血に塗れた句国の将軍を睨んだかと思うと、弓弦が、びん! と高い音を立てた。
どすり、と肉を裂く音が周囲に響く。
近距離から矢を受けたというのに、だが姜は、微塵も動じずに立っている。
ひく、と烈の頬が痙攣を起こした。
間髪を容れずに矢を番えると、姜に向かって放つ。
ぶすり、と矢は再び姜の肉の上に突き立った。
鋭い鏃は肉を断ち切っただけでなく、体内で骨を粉砕している筈だ。
だが、姜は一向に堪えぬ、とばかりに涼しい顔付きをしている。
とうとう、烈の怒りが爆裂した。
「おのれ、きっさまぁ!」
次々に矢を番えては、姜に目掛けて矢を放った。
遂に、背負っていた靫が空になる。
其れでも、姜は表情一つ変えず、目を見開いて仁王立ちをしたままだ。
「貴様たちの矢を寄越せ!」
苛ついた声で怒鳴る烈の剣幕に恐れをなした家臣たちが、反射的に矢を差し出す。
こんな処でこんな男に拘わっている場合ではない、とっとと軍旗を奪い、そして王城に向かわねばならぬというのに、と誰もが思いながらも烈に意見が出来ない。
「喰らえ!」
一際、大きく弦を引いて放った矢が、ひゅおっ! と空を切る音を奏でた。




