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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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23 合従連衡 その6-2

22 合従連衡がっしょうれんこう その6-2



 祭国と禍国の連合軍が陣取る城のほぼ真北にある城に入っていた備国軍は、今、蜂の巣を突いたかのような騒々しさの只中にあった。


「思い知らせてやるぞ、存分に、負けの味を噛み締めるがいい」

 舌舐めずりをせんばかりになって、弋は目の前に聳える山を睨み、そして呵呵と笑う。

「陛下、準備が整いました」

 甲冑をがちゃがちゃと鳴らしながら、家臣がやって来た。

「おう、そうか」

 御苦労、と答えた弋はまだ祭国軍と禍国軍の軍旗が翻っている山腹を睨んでいる。


 ――奴ら、此処まで一度も奇襲すら仕掛けて来なかったが。

 何処まで図太い神経をしておるのか。

 其れとも、柵に相当な自信が在る故に動かぬのか。

 愚王め、何を考えておる。

「よもや、全くの無策とかいう戯けた話ではあるまいな?」

 ――いや、実は、そうなのかも知れんな。

 天帝に御大層な宿星を授けられたと占われたのが、間違いであったのさ。

 ふふん、と弋は鼻でせせら笑う。

 そして、空を見上げた。

 相変わらずの曇天続きだったが、此の数日はまだ、日中に陽射しの暖かみを感じられる。特に今日は、汗ばむほどの暑さが舞い戻っていた。とは云うものの、日が傾けば途端に冷たい風が吹き出すのであるが。


 泰然自若とした姿を晒す山を、ふっ……、と弋はまた嘲り笑った。

 ――のんびりと構えておるがいい、愚王め。

 自分たちはやられはせぬ、というその過信、今夜、粉々に砕いてやろう。

「では、日が完全に沈んでから始めよ!」

「ははっ!」

 弋が命じると、家臣は短く礼を捧げ、もと来た道を駆け戻っていった。



 ★★★



 備国軍の兵糧を預かる部隊は、此れまで経験した事がない忙しさに追われていた。

 備国軍に於いては、軍の食事は1日2食と定められている。兵糧もであるが薪の節約する為、食事は極力日中に取らせている。

 だから此の時間帯から煮炊きを始めるなど、稀なのだ。しかも上官から、竈の数を最大限に増やして煮炊きをせよ、と彼らは命じられていた。

「煮炊きが終わる時刻は、人定にんじょうの初刻頃となるかな?」

「そうなるか。珍しいよなあ」

 つまり、夜食となってしまう。

 見張り番なら兎も角として、全軍を一気に賄う量を用意させるのだ。尋常では無い事くらい、戦闘を主にしない彼らにも分かる。


「なあ、おい。こんな時間にこんなに飯を炊かせて、陛下はどうするお積もりなんだろうな?」

「そうだよな、こんな時間から食事の用意をさせるって事は今までなかったろう?」

「さあな、俺たちみたいな下っ端に、分かる訳がねえだろうがよ。下手に口を出してもどやされるだけだ、気にするだけ、無駄だ無駄無駄」

「そうそう、黙って従っていりゃあいいんだよ、俺たちみたいなのは」

 言われて、疑問を口にした男は引さがった。

 そもそも、議論をしたかった訳ではなく、自分の胸の内の不安を口にして晴らしてしまいたかっただけだ。

 だが、思いもよらず、同じように感じている仲間が多いのだと知って、男はほっと安堵の吐息を零した。

「何方にしろ、決戦が近いの……のかな?」

「だとすると」

「だとすると……?」

 ごく、と男たちの喉が鳴った。


「もしかして陛下は、夜襲を掛けられる御積りなのか……?」

 男たちは顔を見合わせた。



 ★★★



 日が沈むと同時に、備国軍の陣営から大量の煙の筋が空に登りだした、と芙と入れ替わりになって戰の元にやってきたすいが知らせに来た。


「まるで、狼煙のようだな」

 萃と共に登る煙を確かめた優は、呆れた口調で零した。

 敵陣から登っているのは、当然、炊飯を行っている竈からの煙だ。

「奴らは馬鹿か? 其れとも、隠す気などないのか?」

 ――しかし、此れで馬鹿息子の読みが完全に当たった事になるな。

「此れでは、勘ぐってくれと言っておるようなものだね」

「陛下」

 後からやって来た戰が、含み笑いをしながら此方をちらり、と盗み見る。兵部尚書、どうだい? と言いたげだ。

 ふむ、と優は口をひん曲げた。

 ――読みが当たったからといって、喜び、褒めてやるには値せん。

 戦に勝てるかどうかは、また別の問題だからだ。

 だが、敵の出方をある程度予測しながら動くのと、不意打ちを喰らうのとでは、勝敗が逆転するだけの差が生じる。


 当初、戰も優も数で勝る備国軍は軍を二手に分けるもの、と読んでいた。

 山腹に伏兵を置き、此方が敗走中に前方に飛び出て行く手を塞ぐ。

 そして前方と後方から挟み撃ちとし、壊滅状態へと追い込む。

「最終的には、僭越ながら陛下と私めを生け捕りとし、禍国に向けて宣戦布告を行う際の書状代わりに処刑した遺体を塩漬けにして送り付ける、辺りが備国王の考えついた策であろうかと」

 優の読みは、そのものずばり、弋の策だった。

 つまり其れは、普遍的であり最も勝率の高い戦い方であるから採用されるもの、という見方が一致していた訳だ。


 しかし基本的に、真も優の読みと代わり映えはしない。

 だがその奇襲別働隊を此方の意のままに動かし、戦況を有利に働かせる為の駒とする、というのが真の策だった。

 芙から渡された木簡に記されていた策に目を通した時、優は息子の性格の悪さというか物の見方の歪み具合を再確認したものだった。


 ――馬鹿息子のように性格が捻じ曲がっておらねば、斯様な策は思い付くまい。

 しかし、この捻じ曲がり具合があればこそ、戰は此の怒涛の戦漬けの日々を見事な勝利で切り抜けて来られたのだ。

 認めてやらねばならぬ、と頭では理解しているのだが、何故か真を前にすると悪態が口を突いて出てきてしまう。

 ――兎に角、とっとと戦に勝つ事だ。

 勝てば、どれだけ真の頭を小突こうとも、冗談に紛らわせられる。


「では、兵部尚書。此方も動く。全軍に指示を出して呉れ」

「はい、陛下」

 笑ってしまいそうなのを堪えている戰に、優は仏頂面で礼拝を捧げた。



 ★★★



 狭い盆地内に祭国、禍国、備国の軍勢が犇めいているとは思われない、静かな、そして暗い夜だった。

 時辰にして黄昏の正刻を僅かに超えた頃。

 備国軍は一斉に夜食を取り始めた。

 五穀粥だったが、祖国での毎日の質素な食事は一汁一菜もつかない事を思えば、たかが粥でも米が入っているだけで、ご馳走の部類と云えた。

 兵士たちは夢中で粥を喉の奥に放り込み、一粒たりとて残すまいと椀の底を引っ掻き、舐め回す。

 浅ましい行為であるが、彼らの祖先の基本は本能のままに侵し、奪い、食べ、満足を得る事だ。彼らは根幹に流れているものに忠実に生きているに過ぎなかった。



 夜食を取り終えると、いよいよ、隊列を組み直して備国軍は夜陰に乗じて動き出した。

 備国軍の総数は実に11万近く、平原で此れだけの規模の軍勢を一度に動かした礼は過去にない。

 正に、大軍勢だった。

 元々、句国に侵攻した備国軍でも5万という大軍だった。

 其処に、本国から呼び寄せた軍勢を加えて、騎馬4万歩兵3万、総数7万の大軍となった。

 加えて、属国化した句国の領民を根刮ぎ動員していた。

 戦に負けたからこそ、国境守護に軍を割く必要がなくなったとはいえ、騎馬3万弱、歩兵1万弱という動員数は文字通り句国の民を滅ぼしかねなかった。

 然し乍ら、彼らは逆らう事を許されない。

 叛意を見せれば一族郎党皆殺しの憂き目に合うからだ。

 だが従ったとて、まだ少年の身の息子や孫に囲まれて敬われているべき老人まで狩り出されてしまうのだ。何方にしろ、同じ事だ。

 此れからの季節は麦を育てねばならないし、冬に備えて炭や薪も作らねばならない、男手は幾らあっても足りないと云うのに、此れでは来年の春を迎えられなくなってしまう。

 句国の領民たちの恨み辛みは、日に日に高まっているのであるが、備国兵たちは彼らのそんな態度を楽しんでいる素振りさえ見せていた。


「奴ら、何という愛国心の無さだ。こうなると、臭国王が哀れでならんな」

「全くだ。其処までして生にしがみ付くなど、我らでは到底、考えられぬわ」

 嘲り笑う備国兵たちの横で、まるで霊鬼のように痩せ細った句国の領民たちは虚ろなで睨むのがやっとだった。

 今回の夜食も、正規の備国軍は五穀粥であったが、句国兵たちは粥の上澄みを掬い取って更に湯で割った白湯に近いものしか与えられなかった。

 従軍してからというもの、句国の領民たちは満足な食事を取っていなかった。

 無理矢理徴兵され食事も満足に与えられずに酷使されている領民たちは、栄養失調から倒れる者が続出していた。

 互いに腕を貸し合って這いずり回るように必死に生き延びようとしている句国の領民たちの間に、更なる怨嗟が漂い始めていたが、備国軍は鼻から問題にしていなかった。



 ★★★



「鶴翼の陣の1陣を担わせるのに充分な軍勢ではないか」

 上機嫌で、弋は馬上の人となっていた。重い夜気に静かにしている軍旗を盛大にはためかせる時こそが、郡王・戰の死時だ、と意気込んでいる。

 其の、弋が巡らせた備国軍の策とはこうだ。

 今、盆地に向かっている軍の陣形は、当初の策の通りに鶴翼の陣とする。

 其の総数は、7万とする。

 連合軍が疲労困憊となり、身動きが叶わなくなった瞬間に両翼の部分となる隊を大きく脈動させ、包囲陣へと変形させるのだ。

 そしてその策を成功させる為に、句国の領民のみで編成させられた軍が必要となる。

 引っ掻き集めた句国軍の軍旗を多数押し立て、より目立つようにしており、此の句国兵の内訳は騎馬が2万に歩兵1万となる。


 尤もらしく頷きながら弋が独りごちると、陛下、と家臣が袖を引くように傍に擦り寄って来た。

「何だ?」

「陛下、句国の奴らなぞを中央に配置して、良いものでありましょうか?」

 奪い取ったばかりの国の兵を使役するのに、良い顔をしない家臣は当然いた。だが、弋は彼らを簡単に黙らせた。

「良い。いや、必ず、句国軍を中央の先頭に置くのだ。さすれば、肝が小さい臭国王と盟友であった愚王めは句国の領民どもは討てぬ、と躊躇逡巡するに決まっておる」

 にやり、と嗤う弋を前に、家臣たちは背中に冷たい物を感じながら平伏した。

 弋の容赦の無さは備国軍の強さ其のものであると言ってよい。

 だが、この冷徹さは、勝利の内に在るからだ。

 一度、誰かの不手際により劣勢に立たされるような事があれば、彼の呵責は瞬時に此方に向く。

 ごくり、と家臣たちは喉を鳴らす。

 生き延びる為に必死にならねばならないのは、句国の領民たちだけでなく、備国軍も同様であった。


 そして、備国軍は7万を超える大本隊とは別に、別働隊を用意していた。

 此方は、約3万の軍勢、句国が1万に備国から2万、機動力を重視した騎馬隊となる。

 此の3万の軍勢は、山中を超えて連合軍が陣取る山の背後を突く。

「穴熊のように逼塞しておる奴らの尻を叩いてやるのだ。慌てふためいて、奴ら、穴から飛び出して来るぞ」

 喉を鳴らして嗤う弋に、家臣たちは、おお! と大きく感嘆の声をあげ互いに拳を天に向かって振り上げる。

 そして続いて、追従の笑い声を上げたのだった。



 ★★★



 城を出て2時辰程が経過した。

 渡河を終え、盆地に到達する頃、視界が極端に悪くなりだした。

 既にしかも曇天なのだから当然であるのだが、敵に気取られぬように松明も付けていない中、まるで空を閉じ込めている雲が地表にも降りてきたのではないかと錯覚する程の視界の悪さだった。


「えぇい、止まれ、止まれ!」

 弋は腕を激しく振りながら、苛々した声音で叫んだ。備国軍は動きを一旦止める。

「何だ……此れは……?」

 白い煙のようなものが、もうもうと湧き上がり、容赦無く身体に纏わり付いて来る。

 見る見るうちに視界を悪くしていく其れは、まるで雲の海のように重く盆地に広がっていった。

「何だ? 鬱陶しく視界を遮ってくる此の白い物は? えぇい、煩わしい。誰か! 此れが知っておる者はあるか?」

「陛下、此れは霧と申すものだそうです」

「なに、霧、だと?」

「は、平原では、地域により発生する天候や季節には違いますが、よく目にするものらしいのですが……」


 頭を下げる家臣に、ちっ、と弋は舌打ちをしてみせた。

 乾燥が激しい毛烏素砂漠では、靄や霧の発生率は極めて低い。一生の内でも出会う方が稀であり、弋も30を大きく超えた年齢の今の今まで、にした事がなかった。

「……ふむ、霧……と云うのか、此れが」

 戸惑いながら、弋は呟いた。白い物体の名前が知れたとは言えども、天候や季節に左右される代物では弋もどうしようもない。

「今、何時だ?」

「はい、あと2刻程で、平旦の正刻になります」

「むう、そうか……」

 句国に陣取ってからまだ数ヶ月しか経ってはいないが、体感的に感じる太陽の動きから、日出の正刻辺りまで待たねば完全に日は昇るまい、と弋はざっと計算していた。


 ――そろそろ山に向かった別働隊が連合軍の背後から攻め入られる地点に到達する頃合いだ。

 寝込みを襲われた連合軍が、慌てふためきながら下山し、無秩序に盆地に到達した処で鶴翼の陣にて迎え討つ、という策が、此れでは機能しなくなってしまう。山手でも此の霧とやらが発生して視界が悪ければ、別働隊が奴らを此方に追い落とせまい。

 家臣たちも弋と同意見らしいのは、吐かれる息の苦さから分かる。

「陛下、如何に致しますか」

 戸惑いに揺れる家臣の声が、霧に隠されて行く。

 ほんの半間ほど先ですら、重苦しい白い霧に阻まれ、全く見えない。

 この視界の悪さは、毛烏素砂漠で味わう砂嵐とはまた違い、此れまでの経験が通用しない。

 いや霧だけならば、然程問題視しない。

 ――霧がなんだ。湯気のようなものを恐れてなどせんわ。

 が、霧が発生する半時辰前頃から、急速に空気が冷え込み始めていた。

 冷たく刺すような、そして時には家畜の生命を意図も簡単に奪う冷気には馴れている。

 然し此の、平原の此の湿気を含んだ冷え・・と云うのは、句国を支配してから、実はずっと苦しめられているものだった。

 砂漠にある本国では疾うの昔に冬が来ている時分だ。

 此れから半年近くは厳しい寒さの冬期が続く。冬場の寒さを知っているのだから、雪さえ振らねば平原の微温い気候など、と侮っていた。

 ざっと周囲を見渡した弋は呻いた。

 乾いた寒さには耐えられても、湿った冷たさに備国兵は苦しめられている。

 戦いの前だというのに疲れから呻いている兵たちの中、唯一、まともそうな顔付きをしているのは、句国兵だった。


 ――句国の気候が斯様に鬱陶しいものであったとはな。

 まるで、臭国王其のものではないか。

「全く、死んでからも絡んでくるのか。糞煩い臭国王め、冥府で泣きっ面を晒しておればよいものを」

 ちっ、と弋は舌打ちをしたが、次の瞬間には決断を下していた。

「仕方があるまい。此の場で、暫し留まる事とする。今の内に充分に休息を取らせ、指を暖めさせて戦に備えさせよ。別働隊に使者を送り、少なくとも盆地側の霧が晴れるまで攻撃を控えるように命令せよ」


 弋の命令は至極最もで、的を得たものであった。

 だが、弋は最も大切な事柄を見落としていた。

 其れを此の後、備国王・弋は此の時の決断を全身全霊で激しく後悔するのであった。



 ★★★



 盆地を埋め尽くした白い霧は、山肌にも纏わり付くようにして発生していた。

 当初、揚揚と山中に飛び込んで見せた備国軍であったが雲の波を縫うようにして歩き続けているうちに、次第に士気が下がり始めた。

 勇ましく喚き散らしていたそれが、どんどんとじめじめとした愚痴っぽいものに取って代わり出す。


「適わんな。何という視界の悪さだ」

 備国兵の一人がげんなりしながら呻いた。脚元だけでなく、全方向に気を配って進まねばならないのは、精神力を奪われていく。

「まだ空は明るくならんのか」

「本当に、祭国軍の城に迫っているのか」

 疑念を口に出すと、目の前に広がる白い物体と同様、じとじととした寒気を帯びた重い物が心の縁に固まっていく。備国軍は顔を見合わせた。


「おい、貴様ら、本当にこの道で正しいのか?」

 先導を申し渡している句国兵たちを睨むが、彼らは押し黙るばかりだった。だが其れが肯定を意味するのだと分かるからこそ、余計に苛立ちが増す。

「この、白い雲のような物は一体何だ?」

「はい、霧と申します」

「霧だと?」

 眉を顰めながら、備国軍は眼前の進路を塞いでいく霧を忌々しそうに睨んだ。そうこうする間にも、視界は狭まり、目の間に立ち木が迫るまで気がつけない始末となった。

「霧だか何だか知らんが、此れだけ視界が悪くては適わん。えぇい、進軍を一旦止めろ、止めろ!」

 誰ともなく叫ぶと、備国軍の脚は止まった。


「本隊からの伝令兵はないのか?」

「こんなに視界が悪くては、辿り着けぬのかもしれんぞ?」

「……確かにな」

 指示のないまま進軍を止めるのは気が引けるが、視界を奪われたまま急斜面の中を進むのは危険すぎる。

 夜が明ければ、幾らか先が見通せるようもなろう、其れまで此処で、辛抱強く待つしか無いだろう。

「仕方が無い。此処で暫く休息を取ろうではないか」

「うむ、仕方あるまい」

 誰かが提案すると、其処彼処でほっとした安堵の吐息が溢れた。

 実際に危険を感じてもいたが、何と言っても湿気の在る寒さというものに備国軍は辟易していた。

 夜食を取って出発したというのに、山岳を行く間にあっと言う間に腹の中は空になってしまった。

 身体が指先から震えて来る。

 空きっ腹と寒さに、体力が根刮ぎ奪われて行くのを犇々と感じていたのだ。

 砂漠地帯でも、寒暖の差が激しい地域に住んでいる備国軍は、寒さに体力を奪われると次第に判断力が奪われ、継いで次第に精神が蝕まれて行くと知っていた。

 無理な行軍はすべきではない、と誰もが思っていた処だった。


「そうだ、休息を取るべきだ」

「この視界では、敵も動くまい」

 口々に賛同しながら、備国軍はその場でなし崩し的に休憩を取る事になった。

 出来れば身体を温める為に湯を飲みたい処であるが火を起こす訳にはいかなかった為、馬上で其のまま休む者もあれば、馬を降りると思い思いの場所に腰を下ろす者と様々だ。

 そして、休息を取る、となると気が緩み疲労が蓄積していたと気が付かされたのか、備国兵たちは大きく息を吐き出し、ぐったりと項垂れるようにしている者もある。うつらうつらし始める者さえ出始めていた。

 同様に、休息時間を得た句国兵は、だが備国軍とは違っていた。

 直ちに、食べ物を口に入れ始めたのだ。

 とは云うものの、夜食でさえ上澄み液のようなものしか与えられかなったのだから、そんなに大層なものではない。

 携帯に向く揚げた粟餅に山羊の乳を発酵させて天日干しにして乾燥させた奶酸ないさんくらいなもので、備国兵たちが目溢しした事実からも分かるように、実に粗末な物だ。


「見ろ、句国兵たちを」

「犬が残飯をあさっておるようだ」

「全く、浅ましい奴らだ」

 嘲笑う備国軍を無視し、句国兵たちは目を血走らせて、携帯食を取り続ける。

 馴れているからこそ、急激な冷気の溜り場となっている山間に居る恐怖を知り尽くしているからだ。

 兎に角何でも良いから喰え、と句国兵たちは、僅かな食料を分け合って口を動かし続けていた。



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