17 泪 その1-1
17 泪 その1―1
鴻臚館に戻ったは良いが、栗少年は落ち着かなかった。
――姫君様の御夫君君はご無事だったのかな……?
そして右丞様は、どうなったんだろう……?
そして何よりも。
……僕……どう、なっちゃうんだろう……。
同じ部屋に居る仕人仲間たちからすら、遠巻きにされていた。
ちらちらと此方を覗き見ては、態と耳に手を当ててこそこそと何か言い合っている。
居た堪れなくなり、遂に栗少年は奥の部屋にある寝室へと逃げ込んだ。
簡素な寝台がずらりと並べられているだけの部屋だが、此れで独りきりになると、と思うと、栗少年は心細さよりも安堵を覚えた。
部屋に一つきりだけ置いてある文机に寄り、備え付けてある燭台に手を伸ばした。
この灯りは何と、蝋燭でできていた。
宗主国である禍国からの使者が逗留する鴻臚館ならではの、相当な贅沢品だった。
自分の家では見たこともない燭台の灯りを燈すと、栗少年はほっと息をついて揺らぐ小さな炎を見詰める。
暖かな仄かな輝きに暫くの間、心と魂を奪われて見入る。
――そうだ……。
懐の奥深くに仕舞いこんでいた包を、ごそごそと取り出した。
――どうしよう、これ……。
右丞様は持っていろ、と仰ったけれど。
手の平の中の小さな包を、嫌な汗を流しながら凝視する。
禍国へ帰るまで持っていろ、と命じられた。
けれどこれを持っていたら。
これを持って禍国に帰ったら。
――どうなっちゃうんだろう……。
上官である右丞の高笑い、小さな姫君の明るく屈託のない笑顔、そして彼女の良人である青年の必死な姿が、入れ替わり、浮かんでは消えていく。
ちくり、と胸が痛み、じわり、と穏やかなな光が滲む。
栗少年は、頭を強く振る。
――こんなもの。
こんなもの、ここにあっちゃいけないんだ。
僕が持っていたりしたら、いけなんだ。
戸口まで足音を忍ばせて歩いていき、部屋の外の様子をそっと伺う。
仲間の少年仕人たちの姿は、何時の間にか部屋から消えていた。時間帯から、別室に集まって帰国後の予定に花を咲かせながら、おやつをとっているのだろう。鴻臚館から出てはならない、と厳命されてはいるが、郡王・戰の禍国使節団への態度は隔てがなかった。品官の低い者に対してまでも、至極心の篭ったものだった。郡王と妃である椿姫の間に御子が誕生した折には、下働きに甘んじている身分ならば決して味わう事が叶わない、高価な祝いの干菓子が惜しげもなく振舞われた。
今回も、帰国前の無事を祈っての菓子が振舞われているのだろう。
夢中になっているらしく、栗が独り此処で引きこもりっていても逆に分け前が増えるとばかりに、気にする様子も見られない。
燭台の前に戻った栗少年は、ごくり、と生唾を飲み込む。
そして、包を燭台でゆらゆらと遠慮がちに踊る炎の上に、包を翳した。
★★★
再び産屋へと向かった芙は、あれだけの兵仗たちに守られた場を、するりと事も無げに摺り抜けて屋内に侵入した。
と、言うよりも誰も芙に侵入を許したと気が付いてもいない。
そうでなくては草としての役目は果たせないのであるが、時折、この暢気さが徒になりはしないか、と芙はひやりとしながら思うのだった。
――さて。
珊の姿を探そうとして、やめた。
今は珊に事の仔細を話しては無駄な心配を、そして余計な騒動を起こしかねない、と思ったからだ。それくらいならば、自分と主である蔦のみ方が断然良い。先程此方に来た時は、蔦と話をしようとする前に珊に施薬院に戻れ、と言われたのだが。
「主様、今は姫様と御子様の事に掛かりきりなんだよ。それに、芙だって真や克たちに頼りにされてんでしょ? また後でいいから、早く戻りなよ。主様に話すのは、もっと詳しい話になってからでも遅くないよ」
「……そうか、分かった。それなら、お前だけにでももう一度ちゃんと話しておく」
「ん」
そして台獄における自分の失態から一連の話を聞かせたところ、珊は、ありったけの誠意を込めて盛大に慰めに来た。が、妹分に心配をかけるなど、芙には許せない事だった。
――最近だんだん口喧しくなってきたな。
一座の中でも明るさと嘴の喧しさには抜きん出ていた娘だが、最近はとみにその傾向が強くなってきた。類と豊の娘である福たちと一緒に居れば、普通の娘たちと何ら変わる処などない。浮草のような流浪の民とは、誰も思うまい。
その分難しい話がしにくくなってきた、と芙だけでなく一座の仲間たちは感じ始めている事だ。闇を流離い、風に気配を消し、己を偽り、影から影へと生きる者ではなくなり始めている。
――こんな話をしたら、一体どんな反応を示すか。
元々、珊は口に出さずとも、態度と表情に言葉がぽろりと出てしまう質だ。
椿姫に心配をかけまい、として逆に気付かれて問い詰められる恐れがある。
先の話と此度の話。
憶測には違いないが真が答えを導き出したこの話は、重要度がまるで違う。今、椿姫の耳に入れて更に追い詰めてはならないのだ、絶対に。それならば鴻臚館に拘留中の使節団が帰国するまで、口を噤んでいた方が良い。要らぬ心配に、これ以上、椿姫の胸を痛めさせることはない。
――大変な敵がいるにはいるがまだ分からないから妃殿下を頼む、といえば済むだろう。
ふと、気配もないのに空気が揺らいだ。
慣れしたんだ空気の動きに、芙は自然と片膝をついて跪く。
「主様」
「芙?」
密かに声を掛けると、蔦は語尾を上げて訝しげに聞いてくる。
は、と答える事で呼吸を整えると、芙は何時ものように淡々と真が怪我を負った事実と、そして到達した敵の姿の予測を語った。
常の蔦であれば、片眉を僅かに跳ね上げる程度の事で済む。
いや、それすらしないかもしれない。
心の動揺のままに表情を動かす、という事をしない。
それが彼らの主・蔦という人物だ。
しかし、芙の予想を裏切り、蔦は眉の端を大いに持ち上げて息も荒く、怒りを顕にした。
「だからあの時、右丞を始末しておけばこのような仕儀になど……!」
胸を掻き毟らんばかりにして忿怒を押さえ込んでいる蔦は、常に見せぬ姿ゆえに、妖艶さが加わり、淫靡な美しさを漂わせた火焔となっている。
「主様の責ではありません」
芙の諌めに、いいや、芙、と蔦は愁嘆場の姫君のように激しく頭を振った。
「此れは私の責。陛下も真様も非情になりきれぬ御方。其処に付け入る隙有りと敵に遅れをとられる日がきっとくる、と分かっておりながら、このような!」
「主様……」
このように身を揉んで嘆く蔦の姿を、芙は初めてみた。
蔦は天を仰いで眉根に皺が寄るほど固く目を閉じ、荒くなる息を整え整えする。
「……真様は、今は?」
「はい、陛下が今少し話がしたい、と仰られましたので」
「ならば今の内に薔姫様にお知らせし、此方に来て頂きなされ。真様の事、無理をなさってでも家に帰りあろうと遊ばされるはず。今、身体を動かすべきではありませぬゆえ」
はい、と芙は頭を垂れた。
確かに、はいはい、といい返事をする傍から無茶をするのが、真だ。
というよりも、先の長い話し合いで、既に無茶をしている。目を離せば、この上どんな無茶の上塗りを為出かすか、わかったものではない。
その真を上手く御する事が出来る一番の手綱さばきの妙手として、彼の幼い妻以上の存在は確かになかった。
去りかける芙の背に、優しい声音がかけられた。
「芙」
「はい」
「珊にも、真殿の様子を今一度教えておやり」
「はい」
「なれど珊にはまだ、全容は伝えてはなりませぬよ?」
はい、と芙は答える。矢張、蔦も同様に考えていたのか、と芙は、何か胸に柔らかなものを感じた。
「芙、其方も感じておりゃろうが、珊、あの子は妾どもとは違う空気を吸い始めておりゃしゃるのや」
「はい」
「此方の世界に、妾どもの仲間に、引き戻してはなりませぬよ?」
聞いた事もないような優しい慈愛に満ちた蔦の声音に、芙は短く、はっ、と答える。
そして、再び空気に気配を紛れさせて消えた。
★★★
珊の姿は直ぐに見つかった。
施薬院に設えてある薬湯用の竈で、椿姫用の薬を煎じていたのだ。
薬湯は、作り置きができないわけではない。それでも、いつ目覚めるか分からない椿姫により良い物を、珊は何度も作り直しているのだ。薬草独特の重い臭いが染み付いた湯気が、しゅうしゅうと上がって部屋中に満ちている。
しっかりと煮出してから晒で漉していた珊は、ふと背後に仲間独特の気配を感じて振り返った。視界の端に芙の姿を発見し、ご苦労様、と笑いかける。
「芙、真たちとの話し、もう終わったの?」
「ああ」
そ、なら良かったよう、と言いながら晒をきつく絞る。
どんな薬湯でも効果を得る為に最後の一滴まで絞りきらねば勿体無い、というのが珊の持論だ。彼女が絞り終えた後の滓は、それは見事なまでに水分を抜き取られて、ぱさぱさの状態だ。
「……ねえ、芙ぅ」
「なんだ?」
何を聞かれるのか、とどきりとした芙に、珊は大きな眸で見上げてくる。
「真ってばさ、本当にもう、大丈夫なの?」
「あ? あ、ああ。耳鳴りはまだ酷いようだが、なんとか普通に話ができるくらいにはなってきている。もう話も終わった事だし、今頃、横になっているだろう」
「そうなの? 良かったぁ。……ん~でもさぁ」
「なんだ?」
「お爺ちゃんじゃないけどさあ、真の事だから、ほっといたらまた無理しない?」
「今、薔姫様を呼びに行かせている」
「さっすが芙だね、やっぱり頭いいねえ! いい考えだよ、姫様が傍にて見張ってたら、真も大人しくしてるしかもんね」
やっと、明るい声で珊は笑う。
しかし、何時もの、けらけらとあられもない笑い声ではなくて、ふふふ、と何処か女らしい笑い声を零す珊に、芙も口元を緩めた。
珊自身は自覚は全くないのだろうが、此処の処、仲間の目贔屓抜きにしても、珊は滅法女らしくなったと思う。あっけらかんとした明るさの中にも、温もりのようなものを感じさせるようになった。珊の中で、何か良い心の変化があったからだろう、と皆は感じている。
芙や、彼と共に行動する者も含めて、珊も、そして真の家で留守を預かる者も、一座の者は全員、主である蔦に拾われて技を仕込まれた。
ある程度の年齢なれば年長者が年少者の面倒をみる。そうしてお互いの技を伝授しあったり、また得意な分野に特化する切磋に手を貸しあって過ごしてきた。当然、珊も赤ん坊の頃からの裸の付き合いだ。一座の者は皆、身内としての愛情は深いと自負しているし、この結束力はそこから来ているのだと自覚もしている。
様々な分野で仲間が頭角を表していく中、物覚えも要領も悪い訳ではないのに、何故かいまいち役に立ち所がなかった珊の扱いには、芙を始め仲間たちは長らく苦慮してきた。その度に、揶揄いの言葉が珊に向けて発せられてきた。
何かと揶揄するような言葉を投げかけてしまうのは、可愛い子程何となく誂いたくなるという餓鬼のアレと同じだ。一座の者に順番に誂われては拗て怒る姿が、愛嬌に思えてしまうのだ。仲間内では肘を小突きあって、つい笑いの種にしているが、この一番年の若い娘の存在を皆で大切に思っている。
しかし今、施薬院や克の部隊や椿姫の世話で、生き生きとしている彼女を見て、思う。
――珊は、一座の仲間ではなくなってきている。
此方の世界に引き戻してはならない、という蔦の言葉が芙の中でやんわりと谺していた。
「芙は? 此れからどうすんの?」
「施薬院に戻って、真殿に此方の様子を伝えて鴻臚館へ行く。例の、仕人の坊主を見張らんとな」
そっか、と言いつつ、珊は絞り終えた薬湯を大きな椀へと更に漉しながら移していく。
作業に勤しむ珊の邪魔にならぬよう、それじゃあな、と一声掛けて姿を消そうとする。
その時。
どこからか、地鳴りのような音が二人の耳に響いてきた。
★★★
燥ぎすぎて疲れたのだろう。
娃が、好の腕の中で、うつらうつらと船を漕ぎ出していた。
「お義理母上様。片付けは私がしておきますから、娃ちゃんを寝かし付けてあげて下さい」
薔姫が気を利かせると、そう? と遠慮がちにしながらも、好はほっとした様子を見せた。元気な娃はぐんぐんと成長を見せており、随分と重たくもなった。太腿など、好の腕よりも太いくらいだ。その分、抱いている側には辛さが伴うようになってきていた。
それに秋という季節が深まるの時期のせいか、急に冷えを感じてきた。このままだと、風邪をひかせてしまうかもしれない。ちゃんと布団で寝かしてやる方が、良いに決まっていた。
好が娃をあやしながら部屋をそっと出て行くと、薔姫は裁縫道具や端切の山を丁寧に片付け始めた。特に端切は、娃が調子に乗って散らかしに散らかしたので、綺麗に整えるのが一苦労だった。
途中、小さく咳込みながらも片付けを終えると、薔姫は縁側に腰を下ろした。
「ふぅっ……」
膝の横には、端切で作り上げたばかりの文鎮置き用の座布がある。
臙脂色と亜沙葡萄色で縫い上げて、浅葱色の縁どりの房も付けてある。
――喜んで、くれるかしら?
贈り物を、と考えた時、栗の身分を思って高価な物は極力避けようと考えに考えて、文鎮と座布を思いついた。これなら、栗の身分であっても所持していたとて怪しまれない。目立たないように、色目も低い品官の者が身に纏う色を選んだのだが、我ながら綺麗に縫い上げられたと思っている。
――後は、時のお店で文鎮を買ってこないと。
栗は自営する、と言っていたが、何とか母に頼んで内官ではなく文官として立身出来ないものだろうか、と思う。
この間、二人で話をしていて思ったのだ。
田の話しをした後で、あの台風は凄かったという話しになり、其処から話題は堤切りへと移った。
薔姫とても、克や琢や那谷からの又聞きではある。が、堤切りの話を息を飲んで興味深げに真剣に聞き入っていた栗の様子から、考え深く、領民の為になる役人になれるとのではないか、と思うのだ。
ただ、どうしても栗の身分が邪魔をする。出世するには、相当に迂回してまわらねばならないだろう。
だが義理兄である戰の元に、引き抜かれたり見出されたりした者たちが、この祭国ではなくてはならない人材として才能を開花させていっているではないか。
彼らの内、誰か一人でも欠けていたら、堤切りは成功していなかった。
類に通、克と杢、琢や吉次、那谷も、虚海だってそうだ。
それに。
――それに、我が君だって。
兵部尚書の側室である好の子である真は、本来であれば一生日陰者の身分だ。
政治的に利用されての事とはいえ、表舞台に出た彼を傍らにおくと定めたのは義理兄である戰であるし、そうさせたのは真の持つ豊かな知識という、彼独自の武器があればこそ、だ。
勿論、誰もが、真や祭国に居る仲間のようになれるわけではない。
何か一つの道に抜きん出る事の難しさは、いつもぼやいている珊や、何より自分が常日頃味わっている。
同じ王女に生まれついても、自分は椿姫のように国の根幹として領民の心の支えになる女王として立つなど考えられない。
自分だって、一生懸命してきた、していると胸をはれる。
けれど、まだ足りない。
足りないからこそ真を始めとして、義理兄や学を支えている皆のそれは、想像もつかない程の質量に裏打ちされた努力の賜物だという事くらい解る。
でも、真たちの仕事ぶりの話を、あんなにも楽しそうに聞き入ってくれる栗なら。
――栗ならきっと、皆みたいになれるわ。
元服して正式に出仕可能な年齢になった時、真の傍らに栗が控えて共に仕事をしている姿を想像して、うふ、と薔姫は笑みを零した。
笑っていると、不意に、咳ではなくて小さな嚔が出た。
空を見上げてみると、知らない間に雲が流れてきていて、青空は随分と陰りはじめていた。
幾ら晴れ間が続いていたとしても、祭国では、季節は既に秋がぐっと深まる階をみせている最中だ。
――道理で、少し小肌寒く感じた筈だわ。
両手で身体を抱えて、ふる、と震わせつつ、空の中を大きな眼で探してみる。
――飛んで、いるかしら?
それとも寒くなってきたから、もういないかしら……。
暫く、雲の泳ぐ空に視線を彷徨わせて探していると――居た、見付けた。
二羽の鳥が、仲睦まじく、翼を絡めるようにして空を飛んでいる。
うふ、と肩を窄めて笑うと、薔姫は袂の中に仕舞っていた二つのお手玉を取り出した。
淡い浅葱から萌黄へと色を徐々に変えていく布地を縫い合わせて作ったものだ。
萌黄の部分には、四枚葉の馬肥草を若菜色で刺繍してある。雫の形に似た葉を持つ馬肥草の上には、檜皮色で鵟が刺繍してある。二つのお手玉を合わせると、鵟が並んで飛んでいるように見えるように刺繍を施したのだ。
刺繍はとても小さい為、ぱっと見たくらいでは鵟というよりも雀に見えるが、薔姫は構わない。というよりも、鵟だと気がつかれないように、態と下手なふうに刺繍したのだ。
真と自分の為に刺繍したものだとは、誰にも分からない。
当の真ですら、わからない。
自分だけの秘密だと思う、となんだか胸の奥がきゅんとしながらもこそばゆい。
――我が君、喜んで呉れるかしら?
娃ちゃん用のものだけじゃ可哀想だから、作ってあげたのよ、と言ったらどんな反応が帰ってくるだろう?
眉を顰めるだろうか?
照れ笑いするだろうか?
姫は器用ですねえ、と言いながら不器用な手付きで遊んでみせようとするだろうか?
小さなお手玉を空に放り投げ、くるくると器用に玉を回して遊び出す。
中に詰めたつしだまがその度に、しゃら、しゃら、しゃらり、と歌いささめいている。
しゃらん、とつしだまを鳴らしていると、其処へ、低く低く、蜷局をまいたまま迫るかのような低い音が、流れてきた。王城の方角からだ。
「何かしら……?」
思わず、薔姫は立ち上がる。
低い地鳴りのような音は、止まない。
――また、何か、お城であったのかしら……。
届く鐘の呻きに、言い知れぬ不安感を振り起され、薔姫は胸がどきどきと高鳴っていくのを感じていた。
その傍で、受け取り手をなくしてしまったお手玉が、じゃりん! と無情に耐えて音を忍ばせつつ、床に、落ちた。
★★★
慌ててお手玉を拾い上げ、袂に仕舞う。
廊下にでると、好が胸元を抑えながら風の向こうを探るように、不安げに佇んでいた。
「お義理母上様」
「姫様、お聞きになられましたか?」
耳を欹てていると、早馬の馬の蹄の音、そして城下に触れ知らせる声が飛び交いだした。
「後主・順殿下が身罷られました由!」
好と二人、弔鐘が後主・順が身罷った為のものであると駆けていく知らせ馬の言葉を聞いた薔姫は、別の不安を覚えた。
――後主様は、ずっと、嫌になるくらいお元気だったのに。
どうして、今?
娃が不穏な空気に不安がって泣きながら起き出してきたので、好はまた、部屋へと飛んでいく。
薔姫は、す、と立ち上がると、ふらふらと玄関から出て外の様子を伺った。
外に出てみると、既に彼方此方に寄り集まった人々の車座が出来上がっていた。
そして、思い思いに後主・順の死について噂し合っている。
それはそうだろう。
いくら全ての権限を剥奪された身分、西宮に蟄居させられている後主であるとはいえ、嘗ての国王の死に際して弔鐘のみ、とは。
誰もが、何かおかしい、と思わねば其方の方が不思議というものだ。
こそこそする必要はないのだが、何となく足音を忍ばせながらそろそろと道を行きつつ、薔姫は耳を欹ててみる。
皆、騒々しい位に立ち話に花を咲かせていた。
だが入ってくる内容の殆どは最後に、そのどれもが、現国王である学と郡王である戰に嫁した椿姫への言葉のみだ。
御二人共々、此れで要らぬ荷が消え去った良いお暮らしが出来る、良かった良かった、祭国は此れからますます繁栄していくよ、良いことだ、で締めくくられ、座はいつの間にか解散してゆく。
――それは、そうなんだけど……。
確かに、あの後主・順という男が国王に就いたばかりに、この祭国は末路を一直線に目指しかけていた。
踏み止まれたのは、当時、この国の継治の御子であった椿姫と戰が、まるで物語のような運命的な出会いをはたして恋に落ち、二人が夫婦の縁を結んだからだ。
そして椿姫の兄である覺が、苑との間に学という御子を授かっており、彼女が我が子を立派に学を育て上げてくれていたからだ。
この二つの奇跡が天帝により齎されたから、祭国は生き残る事ができたのだ。
祭国が再生の道を歩めば歩む程、後主・順はこの飼い殺しの立場でよかろう、と誰もが口に出さずに思っていた事だ。
薔姫とても、それは同意見だ。
だが同時に、椿姫の身内思いも痛いほど理解していた。
いつか、せめて家族として戻りたいという彼女の願いを薔姫は感じていた。
学も、生前の父・覺の姿を話を後主・順より直接聞いてみたい、と心中で念じているのも。
永久にその機会を失ってしまった二人の事を思えば、薔姫はとても手放しで『良かった』とは言えなかった。
何故か、とぼとぼとなる重い足取りで戻ろうと踵を返しかけると、家の方角から下男が馬を引きながら、ばたばたと大慌てで走ってくるのが見えた。
「どうしたの?」
声を掛けると、はあっ、はあっ、と荒い息継ぎをしながら、下男は城の方角を指さした。
「ひ、姫奥様! よ、良かった、探していたのですよ! 大急ぎで城へ、どうか、城へ!」
「お城へ? 分かったわ」
後主・順が身罷った、と言う事は法会が営まれる筈だ。
郡王・戰の義理妹である自分も無関係ではいられないだろう。
急いで法要の用意をしましょう、と家に戻りかけると、下男は更に慌てて首を振る。
「い、いえ! 違うのです! 大変なのは、お弔いの鐘の方ではなく! 旦那様が、旦那様が城で酷いお怪我をされたとの連絡が!」
「――えっ!?」
「な、何でも、耳朶の奥を傷付けられてしまい、耳が聞こえなくなっておられるとか! 姫奥様、ど、どうかお急ぎを!」
「手綱を!」
叫ぶなり、薔姫は下男の手を借りて馬の背に飛び乗る。
――我が君!
そして逸る心のままに、泪を風にちぎらせながら、城へと馬を走らせた。




