9 腕(かいな)に抱き その4
9 腕に抱き その4
祝たちが、皇子誕生の慶事を天涯を統べる天帝に告げる舞を始めた。
その隣で、気持ちばかりが逸って今にも産屋に飛び込まんとする戰を、禰宜たちが必死で押し止めていた。
産室では、今、後産が確認されるまでの間に、生まれた御子の占いを終えねばならぬと星見や月読、陰陽師たちが己の矜持と誇りを賭けて、占っていてくれているのだ。
邪魔だてするなど、以ての外だ。
「それに何よりも、陛下がこのままのお姿にてあらせられては、妃殿下と皇子様にお会いになれませぬ。許しを与える訳にはまいりませぬ」
「何だと? 父親が我が子と妃に会うだけだと云うのに、何をこうも咎められねばならないのだ?」
「このまま外界の穢を、産室に持ち込む訳にはまいりませぬ。たとえそれが郡王陛下でもまかり通るは許されませぬ」
覡たちにまで諭されては、戰としても引き下がざるを得ない。
「では、どうすれば御子に会える」
戰は、苛立ちを必死で抑えて訊ねた。
そもそも、我が子誕生を伝える言葉に、皇子であるのか姫であるのかという言葉すらなかった。ほんの僅かの間であったとしても、銅鑼の音で示されるまで男か女か分からなかったのだ。
それも仕来りでありますれば、と言われてしまえば堪えるしかないのだが、戰は相当に深い恨みを抱いて睨む。
だが、覡はまるで何も感じていないのか、さらりと躱して此方へ、と導く。
彼らにすれば、定めれた尊い則に添っただけの事なのだ。
感謝されても恨まれるなどと思いもしないからこそ、この戰の眼光に怯む事なく、粛々と且つ淡々と場を進めていけるのだろう。
――先ずは。
心身を、清めなければならない。
その折、何よりの大事は、髪を梳いて清めねばならない。
神の加護を下ろす為の依代である櫛を指す為だ。
そして白装束に改めねばならない。
此れは、出産に挑んだ椿姫を始め、関わる全ての者の努めである。
そして、占いが全て終わったのだと告げられるまで、礼法に則って待ち続けねばならない。
定められた方角に向かい、正しく座して視、身体を動かす事も言葉を発する事も許されない。
「以上にございます」
事細かに定められた作法の連続通達に、我慢強い戰も、流石にげんなりする。
「恐れながら、郡王陛下の頬の傷の手当てもせねばなりませぬ。穢は一滴の血に宿りますれば」
「ならない、ならない、ならない、ばかりなのだな」
「我が王室を此処まで守り続けて下さった、尊い則、作法に御座いますれば」
頭を静かに垂れながら禰宜は厳かに伝える。
妃と我が子に会うだけなのに、何故こんな面倒な手順を踏まねばならないのか。
戰はますます肩を落とし、溜息を吐いた。
★★★
何処からか、おー……おー……という地響きのような声が聞こえてきた。
警蹕である。
皇子の卜占を滞りなく終え、言葉を導き与えた数多の神々が帰る御扉が開けられ、昇神祭が行われているのだ。この儀式により、神々は己の仕事に侍ると共に、占った皇子を天帝に告げる役目も担ってくれるのだ。
警蹕の音が、しめやかに消えていく。
つまり、御子の占いが全て終わったのだ。
今か今かと待ちわびる椿姫の横に、丁寧に身を清められた御子、戰と椿姫の第一皇子が地模様も見事な白絹に包まれて現れた。
抱いているのは、勿論、苑だ。
彼女もまた、装束を着替えている。
椿姫の手で肩を傷付けられたからだ。しかし、必死決死の最中であった彼女は、自分の行いに気が付いていない。苑もまた、傷を気取らぬよう、薫香をしっかりと焚きしめていた。この慶びの場に影の一つも落としてはならぬという、則に添ったと言うよりも、苑の、義理姉としての、心遣いだった。
赤子を起こさぬよう、ゆっくりと苑は椿姫に近付く。
だが当然、椿姫は、苑の動きがもどかしい。
待ちきれずに腕を伸ばす。
普段は白く細い指先が、興奮に薄桃色に染まって震えている。
やっと後産が終わり御子との対面を許された事と、皇子を出産した異常な興奮が良い方に作用して、椿姫は完全に意識を取り戻していた。
「この子が――私の、子……、私と、戰との……子……!」
「ええ、とてもお美しい皇子様ですよ」
よく頑張りましたね、と義理妹を褒め称えながら、苑は椿姫の腕に皇子を抱かせた。
髪の毛の一本、小さな握り拳にできる窪み一つにすら、椿姫は我が子を感じて胸が詰まる。
「……ああ、何て可愛いの……!」
瞳を潤ませつつ、椿姫は寝ている皇子に頬ずりし、抱き締める。
「あんなに、私を苦しめてくれて……懲らしめてあげる……!」
椿姫は夢中で、閉じられた瞳に、頬に、額に、握り拳に、耳朶に、首筋に、順々に唇を落とし続ける。
我が子愛おしさの発露は、何というあどけない素直な行為として現れるのだろうか。皆も、涙に濡れつつ微笑ましく椿姫を見守る。
やがて、落ち着きを取り戻した椿姫は、漸く、はっとした表情で腕の中の皇子を見、そして苑を見上げた。
「義理姉様、御子の占いは? 無事に済んだのでしょうか?」
「ええ、心配いりませんよ。素晴らしい運気の持ち主の御子様であると占い出たとの事、郡王陛下がお見えになられるのが今から楽しみね」
何処の国でもほぼ変わりないが、御子誕生に際して、命・卜・相が占われる。
星見や月読たちが担うのが、命だ。
御子が腹に宿ったとされる日から遡り、そして誕生を迎えた日時、その日の季節や天候などを元に、辿る運命を占う。
相とは、そのまま、人相位たちが担う。
顔相、手相を元に吉凶を占い、誕生を祝う似姿図を認める。
卜を司るのが陰陽師たちだ。
命と相から得られた情報から、御子の喜運を祈願する。
言霊師たちは、占いを視た彼らの言葉全てに魂を込め、一族を督す者、即ち父親である――此度の場合は戰に伝えるのだ。
「それにしても、何とお美しい御子様であらせられましょう」
溜息と共に、巫の一人がうっとりともらす。手をあてがった頬は、ほんのりと赤みが差していた。彼女の独り言を待ってましたとばかりに、彼方此方で、まことに、まことに、と感嘆の呟きが溢れる。
「このようにお美しい御子様なのですから、厄など己の醜さを恥じ入って、塵芥程も寄り付きますまい」
「まことに」
「美々しい綺羅の宿星がお約束されておられるからこその麗しさ、に御座いましょう」
「まことに」
「斯様に素晴らしい皇子様なのですから、天帝様に愛されて当然に御座います」
「まことにまことに」
聞きながら、椿姫は誇らしげに微笑んだ。
産まれた御子は、確かに美しい。
通常、赤子は白っぽい膜を纏っているものだが御子はそれが殆どなく、清めなど要らぬのではと思わせる程、つやつやとしていた。
産まれたばかりの赤子特有の、耳の形や鼻筋、唇の形、輪郭の変形どころか、目蓋の腫れすらもない。
とてもこの世に生まれい出たばかりなどと、思えない。
しっかりとした意思を感じさせる顔ばせをしているのだ。
そう、正しく戰の血筋を引いた御子である、と顔立ちで証たてをしてる赤子なのだ。
そして顔ばせを引き立たせる、椿姫譲りの豊かな緑の黒髪と、黒曜石さながらの輝く黒い瞳はどうだろうか。
赤子とは思えない利発な顔立ち。
この凛々しさは、偏に髪と瞳の見事さから来ていた。
父親である戰の良い処と、母親である椿の良い処を、良くぞ此処までと貪欲なまでに寄り直ぐって我が物とし、身につけて生まれてきていた。
注目を浴びて、当然だった。
その渦中の皇子は、産声をしっかりとあげたので眠いのだ、とでも言いたげにぷくぷくと唇を動かしながら、この熱気をものともしていない。動じず、しっかりと寝入っている処は今から大物を予感させて頼もしく、それすらも皆の賞賛の的となる。
産婆たちが静かに拝礼を捧げて下がり、女医たちも、椿姫の身体に不調は見られない、と最後の見立てを奏上する。
そしていよいよ。
銅鑼と鐃鈸が、待ちわびていたその刻を、告げた。
「郡王陛下の御成に御座います」
苑が厳かに告げる。
皆が平伏、最礼拝を捧げる中、白装束に身を固めた戰が、巫に誘われて現れた。
★★★
部屋に入った時。
光に、高貴なる綺羅星の輝きに満ち溢れている、と戰は感じた。
我が子を腕に抱いている椿姫の美しさは、神々しいと表現するに値する、と感動する。
呆けた様子を隠そうともせず、己の妃に見惚れて立ち尽くしている戰に、椿姫は含羞みながら声をかけた。
「戰……」
漸く、はっと我に返り、態とらしく咳払いなどをしながら、戰は椿姫と皇子の元に歩み寄った。
「ご苦労だったね、椿」
ふふ……、と椿姫が含み笑いをしながら、皇子の顔がよく見えるように、抱き直した。ごくり、と息を呑む戰に、椿姫はますます笑顔になる。
「この子よ、長く、私を苦しめてくれた可愛い子」
「あ、ああ……」
「なのに、なんて涼しい顔付きをして抱かれているのかしらね?」
「ああ……そうだね」
椿姫の軽口を聞いているのかいないのか。
戰は御子ごと椿姫を抱き締めながら、感極まって言葉を詰まらせる。
「――有難う、椿」
「戰……」
「有難う、御子を無事に産んでくれて。椿も、私から離れて行かずにいてくれて」
「……戰……」
ほろり、と一雫の涙が戰の眸に浮かんだ。
つー……、と静かに頬を伝うその涙を、椿姫は指先で、そ、と拭った。そして、戰の背中に腕を回して、きゅ、と抱き締める。
「さあ、抱いてあげて、貴方の子を」
「ああ」
勿論、という言葉が掠れてしまい何とも間抜けだったが、戰は真面目くさって椿姫の腕から我が子を受け取ろうと腕を伸ばす。
おっかなびっくり、という形容詞が正にしっくりとくる腰の引け具合で、絡め取るように、我が子を腕に収めた。
「凄いな、こんなに熱いものなのか、産まれたばかりの赤子というものは……」
「そうよ」
義理妹である薔姫を始め、類と豊の娘である丸や、真の妹である娃や、施薬院に連れられてきた子らを抱いてきた。
けれど産まれたばかりの、しかも我が子はこれが初めてだ。
――熱い
改めて、戰は腕の中の我が子を見つめた。
この熱こそ、命の息吹だろう。
眸で見て耳で聞いて我が子と認めるのではなく、全身で、魂で、命と血潮のつながりを感じ取れ、と赤子は命じている。
いつの間にか戰の頬が、赤子と同じ高さの熱を含んだ涙で濡れていた。
「椿、有難う、有難う……私の子を産んでくれて有難う、二人共無事でいてくれて有難う、……良い子を抱かせて呉れて有難う、椿……」
「戰ったら……」
それしか言葉を知らないのだ、とばかりに、何度も何度も繰り返しながら、戰は我が子と共に椿姫を抱き締め続ける。
つ、と椿姫の細く白い指が、濡れに濡れた戰の頬に伸びる。
「……痛くない?」
「ん?」
指の腹が、そ……、と戰の頬の傷痕となぞっていく。ああ、と戰は呻くように答え、椿姫の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫だ。多少滲みはするが、大した事はないよ」
「そう……?」
「椿姫こそ、身体は辛くないか?」
腕の中の赤子は、戰だからこそ片手で抱ける。だが、薔姫や丸、娃たちを比べて我が子は生まれたてと思えぬ程、大きい。
――小柄な椿の腹の中に、一体どうやって収めて十月十日、育んできたのだろう。
この嫋かな身体で、こんなに大きな御子を。
辛いばかりだったろうに、10ヶ月も不安に耐えに耐え、育て上げて呉れたのだ。
――そして急激な陣痛にも負けず、見事にこの手に抱かせてくれたのだ。
このような大きな子を初産で出産するなど、心身の負担は、如何許りであっただろう。
しかも、良人である自分は途中、姿を消していたのだ。
辛くない筈がない。
それどころか、怨みつらみを抱いても当然だろうに。
なのに目の前の椿姫は、幸せだ、と言わんばかりにふっくらと微笑んでいる。
椿姫が満面の笑みをたたえているからこそ、戰は心が漫ろ寒くなる。
――父親とは男とは、何と無力なのだろう。
せめて、もう何も案ずる事はないのだと伝えたい。
戰は、椿姫の手を、ぎゅ、と握り締めた。
★★★
握り締めた手の先に、唇を寄せる。
ふと、その指先が冷たい事に戰は気が付いた。
と、急激に胸を上下させながら、その指先が震え始めた。一瞬、子が生まれた瞬間を思い出して興奮しているのか、と思った。だが、震えは止む気配を見せるどころか、どんどん酷くなる。
どうやら違うらしい、と表情を険しくさせた。
「椿、どうした? 何処か辛いか?」
「――……戰、私……」
「何だ、どうしたのだ?」
「……さ、寒い……急に、寒くなってきたの……」
「え?」
訝しむ戰の前で、口に出して気持ちが緩だのか、椿姫が全身を使って震えだした。まるで、真冬の只中に放り出されたかのように、歯の根を合わせてカチカチ言わせている。
未だに外では、雨風が猛威を奮っている。そしてその猛威より室内を護るために、戸口という戸口を固く締め切っているのに、だ。
――この、蒸し風呂状態で、寒いというのか?
しかし見る間に椿姫の顔色は青白くなっていく。
あれ程艶やかだった唇ですら、色をなくし始めていた。
「椿! 椿!? しっかりしないか!」
焦りのままに怒鳴り散らし、椿姫を揺する戰の肩が、ぽん、と優しく叩かれた。目尻を上げて睨むように振り返ると、苑が暖かい眼差しで立っている。背後には、巫が何かを恭しく手にしていた。
「さあ、郡王陛下、暫くお下がり下さいませ」
「苑殿、椿は一体? 何がどうなっているのだ!? だ、大丈夫なのか!?」
「ええ、ご心配なさらずに」
進み出る苑に、それでも戰は後生大事に椿姫を片腕に抱いたまま、睨んでいる。
くすり、と苑は笑う。
「そのようのなされておられては、椿の産褥が酷くなってしまいます。さあ、陛下」
椿姫の名前を出されてしまっては、戰も従わざるを得ない。明白に、渋々と、戰は椿姫を苑の手に委ねた。
「椿、辛かったでしょう? さあ、温石を持ってまいりましたよ」
「お、温石!?」
驚き呆れて目を見開いている戰の前で、苑が椿姫の身体を凭几に凭れさせて楽な姿勢を取らせる。呼吸が静か整うのを確かめてから、身体に掛けられていた上掛けの足元だけを、捲り上げる。
すると、巫がやはり、恭しく進み出てきた。手にした、護符印の刺繍を施された温石を差し出してくる。
苑は礼拝し温石を受け取ると、椿姫の爪先に温石を置き、上掛けを元通りにした。
ほっ……と吐息を吐く椿姫は、温石のぬくもりに安堵感を覚えているのだろう。すると、椿姫の頬に徐々に赤みが差しはじめ、唇にも色が戻り出した。
「よ、良かった……」
苑が静かに場所を譲ると、戰は慌てて椿姫の隣を陣取った。手をしっかりと握り、体温を確かめる。
「大丈夫なのか?」
「え、ええ……義理姉様に温石を頂いたら、楽になってきたわ」
「そ、そうか、それなら良いが……しかし、一体何故、こんなに寒がるのか……」
この状況で素早く温石が差し出されたのであるから、この事態を見込んで用意していたに違いない。
何故、こうなると分かっていたのだろう? と首を捻る戰の前で、苑が新米の父親の謎を解いてみせた。
「郡王陛下、腕にお抱きになっておられる皇子様を最初に受け取られた時、どの様に感じられましたか?」
「ん?」
「まるで熱の塊のようだと思われませんでしたか?」
「あ、ああ」
何故見透かされたのか、とどきりとした表情になる戰が、可愛く見えたのだろう。苑は手の甲で微笑みの形に緩んだ口元を隠した。
「そう、生まれたての赤子はどの子も熱いもの。このような熱が一気に身体から奪い去られたのですから、寒気を感じて当然ではありませんか?」
ああ、と呻きつつ、椿姫の体調を思いやってやれなかった自分を恥じて、戰は御子を抱いたまま小さくなる。
「本当に、男というものは役立たずなのだな」
父上しっかりとなさって下さい、と言いたげに、戰の腕の中で御子が、ぴくり、と小さな握り拳を戦慄かせた。




