竜たちは祝福を与えます(前編)
「貴女と共にある竜の卵は、今は安定していても、いつ何時どのような変化があるか、生まれる瞬間まで予測がつきません。
ディアートが無事生まれるまで、私が今後もあなたを護ります。私が傍にいれば、何かあってもすぐ対応できますから。
ですが、私はフェアノスティ王国騎士団参謀長であり、国南端を護るザクトの当主。これ以上、国を離れる訳にはいきません。
カロッサの王女たる貴女との婚姻を婚約期間も無く成立させようなど言語道断なのは百も承知。
ですが、どうか私と一緒に、我が国に来ていただきたいのです」
「……………」
微笑んだまま、用意された台詞を言うかの如くつらつらと説明するカルセドニクスを、レイリアはじぃっと見つめていた。
そっと手を伸ばして色づいて少し熱を持った彼の頬に触れてみる。
カルセドニクスはほんの一瞬だけ驚きに目を瞠ったが、レイリアをその腕の中に緩く抱きしめたまま彼女のしたいようにさせてくれた。添えたレイリアの掌に擦り寄るように頬を寄せ、垂れ目がちな灰青をくすぐったそうに細めている。
レイリアの前では、カルセドニクスはこうして柔らかな表情をするようになったと思う。それでも彼が胸の裡で思うことのすべてを話してくれているわけではないだろう。
今すぐなどと言われて、レイリアの脳裏に『もしや揶揄われたのでは、でなければ竜卵を護る義務からの求婚かも』との疑念が過ぎったが、男の耳や頬がしっかり赤くなっているのを見てそれは思い過ごしだと感じた。だが同時に先ほどの答えがすべてではないようにも思えた。その表情に、不安が微かに交じっている気がしてならない。
カルセドニクスのことを『ぶっきらぼうで表情がないからちょっと扱いが難しい』と評したのは、ルシアン王太子だったか。
(人一倍難解な大人のくせに妙に子供っぽいところもあるこの方の、本当が知りたい)
大切な場面ではなおさら言葉を惜しんでは駄目だと、レイリアはカルセドニクスの瞳をしかと見つめながら重ねて問う。
「竜の卵のため。
『今すぐ』でなければならない理由は本当にそれだけなんですの?」
「…………」
「カルス様?」
カルセドニクスが少しだけ困ったように眉根を寄せた。
陽光に当たって輝く銀色の髪がレイリアの指先にさらりと触れる。
そのまましばらく黙っていたカルセドニクスだったが、ようやく話す決心がついたのか少しだけ腕を緩めたあと静かに口を開いた。
「……8年前、我が国は戦乱と疫病という災禍にほぼ同時に見舞われました。
侵略と同時に起こるよう疫病が人為的にばら撒かれた可能性まで考え調査されたそうですが、結局、総騎士団長たる父が王都を離れた隙をついた武力侵攻に疫病発生が重なった不幸な偶然だったという結論に至ったそうです。
あの凶年、多くの者が、後悔を抱えました。
父の後悔は――――母の最期を看取れなかったことでした。
国土と民を護るために戦うことが騎士団長としての使命であり、王の娘たる母の願いでもありました。
騎士の務めを全うしたことに悔いはないでしょう。
ですが、戦乱を治めた父が戻ったとき母はすでに亡くなっていて……
大きな背を震わせ、母の墓前で嗚咽を押し殺し謝罪する父を、何度も見ました。
母のいない世界に遺された空虚さを慰める術など、きっとどこにもなかった。」
「………」
「私は当時14歳で、王立学院に通う学生でした。
幼少から特に興味を持っていた植物学の知識なら、同窓生には誰にも負けないと思っていた。
それに、父からはザクトの竜騎士としての力を、母からは王家の高い魔力を受け継ぎ、父のような最強の騎士には及ばなくとも、剣技も身につけた。
物心ついた時には竜と守護盟約を交わし、竜宮での修練も最速で終えた。
どれも難なく手にしたわけじゃない、ちゃんと努力した上で身につけた力だと、自負していた。
でもそんな半端な力や知識など、実際の危機を前にしたら何の役にも立たなかった。
ただの風邪などではないと分かって王都に連絡を取ったときには、ザクト領内はすでに感染力の高い病に侵されきっていた。
剣でも魔法でも、竜の力をもってしても、抗えないものがあることを、身をもって知りました」
「でも、あの病は、北大陸ではほとんど感染例がなかったのでしょう?治療法も、誰も知らなかったと………」
「それでも、銀星公は、その病の存在と対処法をご存知でした。
『南の島々に古くから伝わる民間療法』という形で」
銀星公アーネスト・シルヴェスター。
フェアノスティ王国建国王の弟にして大魔法使い。
彼が、幼き頃に不思議な茶会で出会った”アーニー”という青年と同一人物だったとレイリアが知ったのは、実はつい最近である。
レイリアたちがルシアン王子に出会った茶会のすぐあと、フェアノスティ王国は二つの凶事に晒された。
当時まだ第三王子だったルシアンからの要請により、シルヴェスター公は隠棲先のエルフの郷を出て1000年ぶりに姿を現し、疫病蔓延を鎮静化させたのだと。
「私の知識など、彼の叡智の足元にも及ばなかった。
生半可な知識で満足していた自分が、許せなかった。
植物についてでも薬学でも疫学でもなんでもいい、もっと、もっと深く学んでいれば……あの花の薬効にもっと早くたどり着けていたら、母も叔父も、他の多くの民も救えただろうに」
「………それが、カルス様の抱えた後悔ですか?
では、カルス様があれほど真摯に植物について調べておられるのは…」
カルセドニクスは静かに頷いた。
今の自身とほぼ同じ年齢の少年が抱えた大きな後悔を思うと、レイリアの胸が痛んだ。
世界中、その土地に根付く植物とその詳細を調べ上げているのは単なる趣味などではなかったのだ。
新たな種を見つけてその薬効を調べ、既知のものについては分布からその土地ならではの利用法まで漏らさず記録して。
あの膨大で精緻を極めた資料の数々は、彼の抱えた後悔の上にある覚悟の結晶だった。
次にまた同じような事態が起きた時、より早く解決法に辿り着く可能性を少しでも高めるために。
「剣だけでも、魔法だけでも、充分でない。
危機に直面した際に解決するための知識と、それを活かす術。
もっと言うなら、危機に見舞われる前にそれを回避するためのあらゆる手段を模索して実行する。
その為に、私は今の職務につきました。
なのに………今回の事で、貴女を危険に晒してしまった。
必ず護ると誓ったのに……」
「そんなことは、ありません。
カルス様は私を護ってくださいました。
貴方でなれば護りきれなかったと、ナザレ様もおっしゃっていましたもの」
「ですが…私がお傍を離れたりしなければ、貴女の身にあんな禍々しいものを触れさせることなどなかった。」
「カルス様……」
必死で苦痛に耐えるレイリアを抱きながら、ディアートと共に魔道具を破壊した。
あの時の、彼女を失うかもしれないという恐ろしさを思い出すたび、カルセドニクスは自分の失策を責め、もっと他にできたことはなかったかを考え続けてきた。
レイリアを護るため、もっと他に打つ手はなかったか。
今後起こり得る事態に備え、今自分に出来ることはないかと。
「幼い頃、母に言われたことがある。
運命などではなくとも、いつか何より大切に思う愛しい相手に出会えると。
そして、竜使として遣わされたこの地で出会ったのが、貴女だ。
誰よりも大切で、護りたいと思える人にようやく会えた。貴女と内苑で過ごした時間は、何物にも代えがたい、安らぎに満ちたものだった。
カロッサを出ることなく竜の卵を護る―――揺籠としての務めを、貴女はそのまま受け入れ、誇りに思っておられた。貴女のその覚悟は尊ぶべきものだ。
だからこそ、どうすればその誇りと覚悟を損なうことなく貴女と共にいられるだろうかと、そのために自分が為すべきことが何かを、ずっと考えていた。」
「ずっと…?いつから?」
「内苑で、貴女に出会ったあの日から」
「では最初から…?」
出会った日からと言われ、レイリアはあの日の記憶を辿ってみた。
確かに、暑気あたりで朦朧となったカルセドニクスが『ようやく出会えた』と言っていた気がする。
その後もカルセドニクスの方からどんどん距離を詰めてこられていた自覚はレイリアにもあったが、小娘相手に本気で恋愛感情を持っているなどとは信じられるわけもなく、手玉に取られまいと自分の気持ちすら押し込めようとしていた。
「貴女は、私の気持ちに薄々気づきながらも信じてはくださらなかった」
「だって……私は、カルス様より七つも年下ですし……」
「裏を返せば、私はレイリアより七つも年上だということ。
こんなおじさんは嫌ですか?」
(この人をおじさん呼ばわりできる女性が居たらお目にかかりたい…!)
至近距離で愁いを帯びた美貌の男に見つめられ、レイリアが言葉に詰まる。
この上なく整ったその容姿でもって相手がどう反応するのか計算ずくでやっている可能性も否定しきれないが、今の彼の声や仕草に込められた切実さは全てが嘘ではないと思いたい。
「レイリア……もう二度と、貴女を危険な目に合わせたくはない。
できる限り、私自身が傍で貴女を護りたい。
だが私は、フェアノスティの南端を守護する辺境伯家の者としての責務を投げ出すことはできない。
父が護り、母の愛したあの国を、私も愛し、これからも護っていきたい。
貴女を妻にと望むことは、同じように貴女が愛するこの国から貴女自身を引き離すことになる……それがわかっていても、それでも私は、貴女を諦められない。
無茶を言ってるのはわかっていても、もう片時も、離れていたくない」
暗銀色の長い睫毛を伏せて言葉を途切れさせたカルセドニクスの声は、最後は掠れて小さくなっていた。
胸に抱えた後悔など、彼が心の奥底にしまい込んでいたかったことまで話させてしまったのかもしれないと、レイリアは少し心配になる。
それでも、ずっと離さずに抱きしめてくれる彼の腕は暖かく、彼女を包み支えてくれていた。
レイリアがもう片方の手も伸ばし、カルセドニクスの両の頬を包み込むようにして見上げる。
ゆっくりと開いた灰青の瞳を見ながら、精一杯微笑んでみせた。
「私も、この国をとても愛しています。
ずっとこのカロッサで生きていくのだと思っていたので、ここを離れるだなんて考えたことがありませんでしたし。
でも、ソランの海を隔てた北の大陸も、貴方が愛し護る国ならば、きっと愛することができると思うのです」
「レイリア…」
「それにね、カルス様。
片時も離れていたくないと思ったのは、貴方だけではないのです。
連れて行ってくださいと、言いましたでしょう?
だから、そんなに不安そうな顔をなさらないで?」
「そんな顔、していましたか?」
「私の前では、カルス様はとても表情豊かなんですもの」
自分の頬を包み込む小さな掌から伝わる安らぎをどうしても失いたくないと、カルセドニクスは思う。
不器用で、わかりにくくて、でも優しいこの人の傍で生きていきたいと、レイリアもあらためて願う。
「貴女を愛しています、レイリア」
「私も、愛しています、カルス様」
ゆっくりと近づき重なった互いの唇は、少し震えていた。
抱きしめあう二人の間で、竜卵の鼓動が小さく響き続けていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。




