王女殿下は彼の居ない王宮で目を覚まします
その人は、陽炎のように揺れる姿にも関わらず、目が離せない人だった。
国同士の公式行事だというのに、色付きの眼鏡をかけているし。
視線が滑るというか見ようとすればするほど焦点が合わなくなるし。
なのに、なんだか妙に目がいくし。
姿がぼやけててもはっきりわかるくらいに、堂々と大欠伸しているし。
先日入国されてご挨拶した竜王様の気配を纏っているし。
それに、有り得ないことに私が知らない竜の気配までするし。
不思議な人。今までに会ったことがない印象の人。
少しずつ関わって、近づいて。
それでも、ずっとここに居てくれるわけではないから。
だからきっと、特に何も変わることはないと思っていた。
内苑の木々に花が咲いては散るを繰り返すのをずっと眺めてきたように、次の代へと務めを渡すまで、私はこれからもずっとこのまま、変わらない今を眺めて生きていくのだと、思っていた―――――
ゆっくりと重い瞼を押し上げる。
視界はぼやけているけど、ここが見慣れた自分の部屋でないことはわかった。
「殿下、お目覚めでございますか?」
「…………テス……?」
「―――ダナン、主様や国王陛下に王女殿下が目を覚まされたと伝えよ」
「わかった。」
竜鱗体たちの交わす言葉が聞こえる。
熱を出して寝込んでいた後のように、身体が重くて、動かない。
目だけを動かすと、視界の端でダナンが扉から出て行くのが見えた。
胸の上で重ねた掌の中の、柔らかな布に包まれている硬い原石の感触と、そこから流れ込む魔力。
目を閉じて周囲の気配を感じ取る努力をしてみて、ずっと覚悟して身構えていたはずのことがとうとう現実となっているのを確認した。
(………………………あの方は、いないのね)
朧げな意識が少しずつはっきりしてきた頃、家族が様子を見に来てくれた。
私が眠っていたのは、結局一日と少しくらいだったそうだ。
昨日の午後、ネリーの魂魄を送ったあとから記憶がないから、その後倒れてしまったみたい。
ずいぶんと前のように感じる、と言ったら、皆が労るように笑ってくれたり、頭や背を撫でてくれたりした。
家族たちと入れ替わりに、シシー様とナザレ様が見舞いに来てくれた。
眠っていた間に起きていたことや判ったことについて、彼らからざっと説明してもらった。
現在、スファルトード公王が我が国にきており、父王やルシアン王太子殿下に謝罪し今回の事件についての外交上の処理をどうするかを話し合っていること。
マルス公子以下、あの魔道具に関わった者達が捕らえられ、竜宮に身柄を引き渡されたこと。
話を聞いている間も、彼らに会うのが内苑でない場所であるのがなんだか不思議に感じていた。
あの場所でずっと一緒だった方が、ここにいないことも。
代わりに、新しくそばにいてくれるようになったのは―――
「だいじょうぶ? 王女さま」
長椅子に並んで座る、さらさらと揺れる長い髪の可愛らしいお友達。フェアノスティのフラシオン・ダカス騎士団長のお嬢さん、クラリッサちゃんだ。
私の影武者を務める子だと紹介された時は驚いたけれど、幼さの中にも強さが垣間見え、しっかりとナザレ様の気配も纏っていて納得した。
柘榴石のような深みのある赤い髪は父君のダカス様に、翠玉の瞳は母君に似たのだという七歳の女の子。弟のケンドールより一つ歳下だと思えないくらい落ち着いていて、少し話をした後はすっかり仲良くなれた。
名前で呼んでねとお願いしたのだけど、普段口にしない呼称だから素敵だと『王女さま』呼びのままだ。
血縁ではないはずだけど、自分なりのこだわりを持っているところがなんだかあの方と似てるなと思う。
そして彼女と反対側に寄り添うもふっとした感触は、カルス様の守護竜リトニスちゃん。内苑にいたときはずっとシシー様に抱っこされていて私には近寄ってこなかったのだけど、ディアートの拒絶する気配を感じて距離をとっていたらしい。
ディアートから受け入れてもらえたことでようやく近くに来てくれて、姿も小さな翼竜からもふっとした勿忘草色の毛並みの狼に変わっている。
2人を指してナザレ様が『ちびっこ近衛』と呼ばれるくらい、目が覚めてすぐからずっとそばから離れない。本当に近衛のように。
寄り添ってくれるリトニスちゃんの毛並みを撫でる。
予定通りなら、明日フェアノスティ使節団はカロッサを離れ帰国の途に着く。
(この子がいて、原石は私が預かったままだから、きっとあと一度は会えるはず)
隣で心配そうに見上げてくるクララちゃんに笑って頷く。
無理はしてはならぬぞと言うシシー様にも、大丈夫ですと答えた。
「今回カロッサに持ち込まれた幻妖は、北の魔導士達により、スファルトードにて精製され高濃度の結晶にされたようじゃ。かの国の高い加工技術に目をつけたのじゃな。
お誂え向きにカロッサとも縁があるのを知り、そこにつけ込まれたのじゃろ。ほんに忌々しい。
竜使殿の話では、想定していたよりずいぶんと厄介な代物になっておったらしい。
よう耐えたの、レイリア」
「私は、無我夢中で……
あの、シシー様、私はもう、揺籠ではなくなってしまったのですよね?」
「そうじゃ。あらためて、其方はネリーの卵の代母となった。
今後、卵はしかるべき時には其方から離れ、自ら孵る。
其方の胎から竜が出るようなことはないから案ずるでないぞ。
卵に魂魄が戻った今、其方に危害を加えようとするものあらば、卵が自ら竜の結界を張って其方もろとも自分で身を護るだろう。
大変ではあったが、竜使殿は約束どおり、其方の身を護りきってくれた。
感謝してもしきれぬな」
ぎゅ、と銀の鎖に下がった原石を握る。
「あの……カルス様、は?」
ここに居ない人のことを、恐る恐るたずねてみた。
卵が自らの身を護るなら、もう、護衛は必要ないということだ。
そもそも、竜使としてカロッサにいる間だけの護衛という約束だった。すべてに片がついたなら、カロッサを去るだけ。
わかってはいても、挨拶もなく帰国されてしまったりはしないと思ってはいても――――今ここにいらっしゃらないことが不安を掻き立てる。
「アイツはいろんな後処理を片っ端からこなしてるとこ。
スファルトード公王たちをカロッサまで運んだのもカルスだし。」
「え………」
倒れてしまう前の朧げな記憶の中で、彼自身もかなり魔力を使っていたし怪我だってしていたのに。
「ほんと、いろいろギリギリだったんだよ。
カルスじゃなかったら封印が間に合ったかどうか。
魔道具そのものの機能でお前は魔力枯渇に陥りかけたし、魔道具が暴発しても幻妖の結晶が砕けてても危なかった。
影響は島全体に及んでただろうし、卵もネリーの封印もただでは済まなかったと思う。
全部ひっくるめて腹に据えかねたんだろうな。
お前たちがちゃんと休めるよういろいろ指示したり手配したりした後、すぐにスファルトードに竜の翼で飛んでいきやがった。
怒りがおさまらないまま出たからな。
スファルトード公国が地図から消えんじゃねぇかとヒヤヒヤしたけど、よく我慢した方だわ。
直接文句言ってぶん殴りたい気持ちは、すげぇ良くわかるしな」
「カルス様は、そんな乱暴な方ではないでしょう?」
そう問うと、ナザレ様の目が泳いで、シシー様の方を見た。
シシー様も苦笑いしている。
「いや……レイリアは寝てたから見てないだろうけど……アイツ、笑顔のままですげぇ切れててさ…」
「きれ…?」
「連れ帰ったスファルトードの高官達がカルスを魔王って呼んでるらしいんだが。
いったい何をやってきたんだろな、アイツは」
魔王というのはあんまりじゃない?と、笑顔の彼を思い浮かべるが、目の前の上位竜たちは苦笑いするばかりだ。
「まあとにかく、カロッサで起きたことが伝わって公国内にいる北の魔導士たちが逃げちまう前に捕まえられたし、今回の件を計画してたやつらも一網打尽にできたけど。
で、一旦カロッサに来て連れてきた連中引き渡したあと、今は北に向かってる。
ディアートの結界に入るために放棄しちまった俺の加護を、もう一回かけ直した。
あらためて正式に竜宮からの使者として、北の魔法使い崩れの巣窟を一掃しに、な。」
「北の……?」
「今回の騒動が単なる人の国家間の争いなら、俺たちはここに来ていない。
竜使の調査でも、スファルトードの公子たちと宰相など高官数名、あとは軍の一部が北の魔導士に協力していたが、公王含め他の公国上層部は関わっていなかったと判明した。
軍勢を動かした以上は無関係お咎め無しってわけにはいかないみたいだから、そこは人間同士で話し合って解決してもらう。
だが、幻妖を使って竜に手出しをした件については、完全に竜宮の領分だ。
あの魔道具に関わった奴らを処断し精製技術など全ての痕跡を滅せよ、というのが、我ら竜宮の総意だ。」
首の皮膚に食い込む漆黒の魔道具の冷たい感触と、身の内を何かが蠢き臓腑を抉り出されるような苦痛がよみがえり、思わず腹部を庇うように自分の身体を抱きしめた。
自分の中のディアートの規則正しい魄動が、大丈夫だよと告げてくれているように思えた。
知らずに止めてしまっていた息を吐き、また無意識に、石を握りしめた。
「そう…ですか。では他の竜使の方々も一緒に?」
「いや?アイツらはまだカロッサにいる。
竜使長のカルスが帰るまでの約束で、今度こそちゃんと休暇をもらったらしいぞ」
「え…? では、カルス様は、今……」
「一人だよ。
目付け役のリトニスは、このとおり置いていきやがったし。」
「そんな………!」
一人と聞いて、驚愕した。
あんな危険な魔道具を作る魔導士達がいる場所にお一人で向かうなんて、いくら竜王の加護を受けた竜騎士でも力を過信しすぎではないだろうか。
「危険ではないのですか!?」
「どっちかっていうと危ないのは魔道士たちの方だな……徹底的にやっていいんですね、とか念押しされたし。」
「でもっ、お一人だなんて…!」
「竜宮の修練の最終試験は戦闘に特化した竜鱗体との模擬戦なんだが、カルスは12歳の時、騎士団長級7体と魔道師団長級3体をたった一人でまとめて倒しちまった。
カルセドニクス・ザクトは、竜宮の歴史始まって以来最強の竜騎士だ。
普段のアイツは手加減、っていうか、剣にしても魔法にしても無意識に自分の力を抑えてる。本気のカルス相手だと、今回集めた竜使全員でも止められないかもしれん。」
「後から来られた竜使にはクララちゃんの父君、剣豪ダカス様もいらっしゃると聞いていますが」
「そうだな、フラシオンが居ればギリ押さえられるかもな。
とにかく、今、魔王様は何の遠慮もなく全開で戦ってるはずさ。魔法使い崩れなんか束になったって敵わねぇよ。
カルスは強い。じゃなきゃ、アイツ一人にお前たちの警護を任せたりしない。
だから、何も心配しなくていい」
俯く私の頭に、少年の姿の竜王様の手が乗せられた。
ぽんぽんと幼子にするように宥められてしまって、それ以上は言えなくなってしまった。
「あー………それとな。
渡そうかどうしようか、すっげぇ悩んだんだが……」
「はい?」
眉間に盛大に皺を寄せたナザレ様が合図すると、テスが何かの書類を渡してくれた。
見覚えのある簡素な紙。
そしてそこに書き綴られた、流麗な字。
「これって………」
「カルスの奴が超速で書いて置いてった。
これ読んで、ちゃんと休んでろってさ。」
「…………」
植物の調査資料と同じ筆跡で、細々と注意事項が書きつけられていた。
『なんでもよく食べよく眠ること。
朝と午後には陽に当たり散歩すること。
でも疲れたら横になって休むこと。』
私の手にある書類を、両側から覗き込むようにして竜たちが見ている。
「相変わらず、呆れるほどの過保護っぷりじゃの」
「えーっと、レイリア?
もしかして、さすがに……引いてるか?」
無言のままで紙をめくり、最後の一文に辿り着く。
『私が戻るまで、元気でお過ごしになること』
指で文字をなぞりながら口元が笑むのが自分でも分かった。
シシー様のおっしゃるとおり、本当に過保護だ。
あとナザレ様のおっしゃるとおり、あまりに細かい日常生活の中での注意事項集に、ちょっとだけ引いた。
それでも、『戻る』の文字にほっとしたのは本心だった。
少なくとももう一度は、お会いできるのが確実になったから。
(お礼と、お別れのご挨拶くらいは、したいもの)
最後まで読んでいただきありがとうございました。




