2『目を覚ませば、そこはファンタジーの世界……ではなかった』
心地よく静寂の中に揺らめく意識、確固たる現実ではないと分かる感覚の中で、いつからだろう、義弘は懐かしい見慣れた景色を眺めていた。
円を描くように、体が床を軽快に動き、その動きに合わせて振られる居合刀がブレることなく綺麗な弧を描く。その度に舞のようなを動作を彩る風切り音が鳴った。
「ふぅ……」
「いいぞ、義弘。いい音が鳴ってる。だが、まだ動きを意識しすぎてる。意識せずにできるようにならないとな」
共に稽古を積む数多の人たちの喧騒の中でも、はっきりと聞こえる叔父の声。
”何の準備もなく突然の暴風雨に曝されたとしても、慌てふためいたり、逃げ隠れるようなことがあってはならない。雨風に心を乱さず、それを受け入れ我が道を行け”
それと、少々長々しく書かれた掛け軸が見える。義弘にとっては、そのすべてが懐かしかった。
――そういえば、この時だったな。初めて真剣を振ったのは
稽古の終わりに叔父から渡された真剣。ずっしりとした重みが両掌に伝わる。その”人を殺傷し得る武器の重み”に少年の義弘は一抹の恐怖を抱いていた。体の奥から湧き出る恐れに手が震え、足が竦む。
「大丈夫だ、義弘。居合刀と同じように抜いて、振ってみろ」
叔父が、険しい表情を見せる義弘の両肩を、力強く握り込んで言い聞かせる。しかし、義弘の表情は曇ったままだ。真剣をギュッと握り締めている。
「義弘、お母さんの料理を手伝う時、包丁を使ってるか?」
叔父の問に、クリっとした目をうるうるさせながら、コクッと可愛らしく頷く義弘。
「使う時は、手を切ったり、人に当たったりしたら危ないから気を付けて扱うだろ?」
再び、義弘は叔父の問に頷いた。
「だったら大丈夫だ。長い包丁だと思えばいい。自分を切らないように、周りの人を傷つけないように何度か振るってみろ」
それを聞いた義弘の震えが徐々に収まり、幼い瞳に宿っていた恐れはいつの間にか少なくなっていた。そして、覚悟を決めたのか腰に真剣を差し、慎重に抜くと、先ほどの居合刀を振るった時のように、義弘は甲高い風切り音を綺麗に響かせる。
キラリと光の筋を反射させる刀身を鞘に納め、畳の上に座ると、義弘は掲げた刀に礼をし、地に置いた。幼い子供なのに随分と落ち着いた態度を見せるものだと周りの大人たちも感嘆の声を漏らしていたが、刀を置いた途端、彼は子供に戻った。緊張の糸が切れたのか、義弘は大粒の涙を流して叔父に抱き着き始める。
「よく頑張ったな、義弘。恐怖に負けなかった。えらいぞ」
優しく包んでくれる叔父の胸の中で、涙を落とす義弘。泣きじゃくる彼を叔父は褒め称えた。そして、刀に怯えて泣く義弘に、それは立派なことなんだと武の神髄を説き始めた。
「前に教えたよな。武の字に戈を止めるという精神を見ろって。己らの利を、無理やり押し通すために攻撃してくる者から己や大切な人たちを守るために戈を止める人、これが真の武士だって。真の武士が扱う器である武器を扱う時、その扱い方に不安、恐れを抱かぬ者は勿論、真の武士ではない。常にその扱い方を気にしながら、自分自身と大切な人、周囲の人たちを守るために用いて戦うもの、優しさ、思いやりに満ちた者こそ真の武士だ。義弘、お前はちゃんと、恐れを抱いて刀という器と向き合った。自分を傷つけないように、周りの人たちを気遣いながら、振るった。真の武士でないとできない行為だ。立派だったぞ」
抱き抱えながら、優しく涙を拭ってくれる叔父。その情景が段々と遠のいていく。
――叔父さん、叔父さん、、、
義弘の叔父、吾妻康秀。陸上自衛隊の空挺団に在籍していた経歴を持つ彼は2年前に登山の最中に行方不明となったきり、未だ見つかっていない。義弘の命の恩人であり、幼いころから武術や学問を親身になって教えてくれた叔父の失踪、今では気持ちの整理がついているものの、当時は毎日、袖を濡らしていたものだ。
優しくて、温かいその懐かしさに、義弘は再び涙を流した気分になっていた。
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「うぅ……ん」
義弘はゆっくりと目を覚まし、濡れた頬を拭いながら睡眠の余韻を堪能していたが、カッと目を見開いて、体を起こした。自分が眠ることになった原因を思い出したのだ。
「は?」
自分は夢でも見ているのだろうかと彼は驚愕する。自分が座り込む地面に草が生い茂っているのだ。それに、その見た目に合うような鬱蒼とした森の中で嗅ぐような独特な森林の匂いまでもが鼻を突く。このあまりに訳が分からな過ぎて、呑み込めない異様な光景に、何だ何だと、焦るように、義弘は辺りを見渡した。
「なんなんだよ、これ」
義弘の視界に入る教室内はすっかりと古びており、壁には毛細血管のようにツタの根がびっしりと張っていた。
「え、なにこれっ」
「うわっ、なんだよ一体」
「どうなってんの、これっ」
「いそいで電話……って圏外になってるじゃん。5G通信すら立ってないし」
徐々に起き上がり始めた生徒たちも義弘と同じようにこの光景に驚きを隠せないで、周囲を何度も見渡しいる。自分の見ている光景を疑っている様子だ
――そ、外は、外はどうなっているんだ
義弘は思いついたかのように立ち上がり、教室の窓側に行く。そして、薄汚れた窓の傍に立つと、朧気ではあるが、外の景色の輪郭が映った。
――嘘だろ……
それだけでも十分なくらい判断がつく。あり得ない、こんなことがあってたまるかと口を手で覆いながら、そう呟いた義弘は只々、窓の前で呆然と佇む。
すると、この教室の隣からも男子・女子の驚く声が合わさるように聞こえ始めた。義弘は我に返り、覚悟を決めたかのように唾を呑み、錆びついたカギを下ろし、窓を開く。
風が中に入り、自然の中にいるような香りがさらに強くなると、その、花粉症になってしまいそうな刺激的な臭いに思わず鼻を覆った。しかし、鮮明になった景色に目を向けた途端、それどころではないと、いっそう顔を渋めていく。
「うわっ、何だよこれっ。おいっみんな、急いで外見てくれ、まじで、やばいって」
開かれた窓から外を見た男子生徒が騒ぎ立てると、一斉に教室内の男女が窓側に集まり始めた。義弘は彼らに押しのけられるようにして、教室の中央に行かせられる。
「え、どうなってんの、此処って何処」
「怖い、怖い、凄い怖い」
女生徒たちのほとんどが地面に座り込む。訳が分からない場所にいるという思いが彼女たちに恐怖を与えているのだろう。
「とんでもなく不気味だな」
一人の男子生徒が言った不気味という言葉に景色を見ている全員が共感した。
渡り鳥の大群が飛んでいる青空の下、聳え立つ高層ビル群や、建築物、道、車などの見える限りの全ての人為的に作られた建造物、製造物が深い自然に覆われている世界が目の前にある、文明に彩られていたであろうコンクリートジャングルが、静謐な自然と一体になるかのように眠りについた廃墟都市と化しているその様は彼の言う通り、”とんでもなく不気味”なのである。
まだ、夢を見ているのかもしれないと片隅で思いながらも、リアルすぎる奇妙な光景に夢だと思えなくなり、全員が全員、困惑している。
しかし、ただ一人、義弘だけは違う意味で動揺していた。訳もなく腕が震え、瞬きの回数が増える。
「どうなってんだよ……なんで、なんで……」
此処にいる他の生徒たちとは違い、義弘はこの景色を見たことがあった。それも1度や2度ではない。このあまりに見慣れた景色でありながらも、現実にあるはずもないものが目の前に広がっていることに義弘は呆然と立ち尽くした。




