第55話 優しさの罠
朝、シルヴァーナは朝早く目覚めると、ゆっくりとベッドを出た。
ふかふかのベッドで眠れて、これまでの旅の疲れは十分取れたとは思うが、気持ちはまったく晴れなかった。
窓に寄りカーテンを開けると、朝日の眩しさに目を細める。庭では下働きの者たちが、夜に降り積もった雪をせっせと雪かきしていた。
何か考える訳でもなくその様子をじっと見ていると、しばらくしてノックの音が聞こえた。
「失礼致します、聖女様」
ドアの向こうから女性の声がして、返事をするとメイドが入ってくる。
「おはようございます」
「おはよう」
「もう起きていらっしゃったのですね。よく眠れましたでしょうか?」
「ええ」
シルヴァーナよりも少し年下だろうメイドは、にこりと笑うと部屋のカーテンを開けていく。それからタライに水を入れると、シルヴァーナに顔を向けた。
「どうぞ、顔をお洗い下さい」
「ありがとう」
あまり甲斐甲斐しく世話をされるのは好きではないが、ここでそれを言っても仕方ないと、シルヴァーナは素直にメイドに言われるままに朝の支度をした。
そうして髪を整え、薄く化粧をすると、白いローブを差し出された。
「本日より、このお衣装を着るようにとのことでございます」
「これ……、ラヴィネラ教のローブよね?」
「はい」
白地に金の刺繍のある華やかなローブは、教皇と同じ、いやそれ以上に豪華な作りに見える。
メイドが広げるローブを見つめ、シルヴァーナは眉を顰めた。
「私は着られないわ……」
「そう言われましても……。着ていただかなくては、わたくしが叱られてしまいます……」
困った様子のメイドの顔を見て、シルヴァーナは大きな溜め息を吐き肩を落とした。
「そうよね……。ごめんなさい、着るわ」
ラヴィネラ教のローブを着るのは本当に嫌だったけれど、ここでメイドを相手にそれを訴えたところでどうにもならないことは分かっている。
シルヴァーナは仕方なく広げられたローブに袖を通した。
ローブを着て鏡の前に立つと、まるで自分ではないような気がした。
(ベルンハルト……、私だって気付いてくれるかしら……)
煌びやかな飾りの多く付いたローブは、ティエールのローブとはまったく違う様子で、華やかなドレスよりもさらに豪華で、権威を見せつけているようだった。
それから朝食を済ませると、メイドに促されるままに部屋を出た。廊下ですれ違うメイドや使用人たちは、シルヴァーナの姿を見ると、足を止め深く頭を下げる。その様子に戸惑いながら歩くと、王宮を抜け渡り廊下に出た。
「この先は教会になります」
「教会?」
確かに今まで歩いてきた王宮の様子が変わり、白を基調にした石造りの建物に入った。大理石でできた柱が何本も続き、その先に大きな両開きの扉がある。
その扉に入ると、正面の巨大なステンドグラスが目に入った。描かれている翼のある女性は、たぶんラヴィネラ神だろう。ティエール神と同じ光の神であるが、ヴィルシュ国が建国された時、その姿はいつからか女神となり、ティエール神とはまったく違う解釈をされるようになったという。
「おはよう、シルヴァーナ」
「……おはようございます、教皇様」
ステンドグラスの前に立つ女神像の前で膝を突いていた教皇は、シルヴァーナに気付くと笑顔で声を掛けてきた。
「昨日の夜は随分冷え込んだが、よく眠れたかい?」
「はい……」
「それは良かった。聖女のローブが良く似合っているね。素晴らしいローブだろう? 飾りはすべて本物の金でできているのだよ」
「教皇様、私には普通の修道女のローブで十分です。このローブはお返し致します」
「そんな風に言うものではない。それにそれは国王陛下から与えられたものだ。私がどうこうできるものではないよ」
「ですが……」
「さぁ、朝の祈りをしよう」
「え……?」
にこやかにそう言った教皇に、シルヴァーナは驚く。
昨日はとても親身に話を聞いてくれたのに、なぜそんなことを言うのだろう。
「無理です……」
「シルヴァーナ。そなたはラヴィネラ神の聖女だ。私は昨日の話で確信した。そなたの祈りは必ずラヴィネラ神に届くだろう。さぁ、祈るのだ」
教皇はシルヴァーナの手を掴み、強引に跪かせようとする。
笑みを浮かべたまま、けれど強い力で引っ張ってくる教皇に、シルヴァーナは酷く戸惑った。
「教皇様! 私には無理です!」
少し声を荒げて抵抗すると、教皇は残念そうな顔をして手を離した。
ゆっくりと立ち上がり、シルヴァーナをじっと見つめる。
「シルヴァーナ、頑なに心を閉ざしていては、前に進むことはできない。祈りを捧げれば、きっとそなたの未来は開け、不安はすべて消え去るのだぞ?」
「教皇様……」
教皇の言う通り、この力はラヴィネラ神が与えてくれているものなのだろうか。けれどそれが真実だったとしても、信仰を突然変えることなどできる訳がない。
今までティエール神が心の支えだったのだ。聖女としての立場を辛く思いながらも、その気持ちを支えてくれたのもまたティエール神への信仰心だった。
「教皇、そのように急ぐものでもあるまい」
ふいに背後から声がして振り返ると、ライアンが近付いてくる。
シルヴァーナは身体を強張らせてその場に立ち尽くす。笑みを浮かべてそばまで来たライアンは、シルヴァーナの姿を上から下まで見て、にやりと笑った。
「我が国の聖女のローブの方が似合うではないか」
「……これしか用意されなかったので着ただけです」
顔を顰めてそう答えると、ライアンは鼻で笑う。
「すぐに慣れるさ。それより、今日はお前のために舞踏会を開くことになった」
「え!? お披露目はまだしないと言っていたじゃありませんか!」
「正式なものではない。皆がお前を歓迎したいと言っているんだ。難しく考えず楽しめばいい」
「そんな……」
貴族が集まる舞踏会で紹介されてしまえば、それはもうお披露目と変わらない。
まるで外堀を埋められている気がして、シルヴァーナはライアンを睨み付けた。
「……私は出ません」
「エクランド侯爵の主催だぞ」
「お祖父様の!?」
「孫を皆に紹介したいんだそうだ。祖父の気持ちをないがしろにするつもりか?」
ライアンの言葉に、シルヴァーナは言い返すことができず両手を握り締める。
ライアンの提案ならば、絶対に出ないと我を張ることもできたが、祖父の好意は無下にしたくない。
「……分かりました」
肩を落として仕方なく頷いたシルヴァーナを見て、ライアンは楽しげに笑ったのだった。
◇◇◇
夜になって部屋にヒューゴが迎えに来た。
「シルヴァーナ、用意はできているかい?」
「お祖父様……」
部屋に入ってきたヒューゴは、シルヴァーナの姿を見ると目を輝かせた。
「ああ、素晴らしいローブだな。聖女に相応しい神々しい衣装だ」
「お祖父様、今日の舞踏会は……」
「皆にお前を紹介したいと思ってな。心配することはない。私の知り合いに声を掛けただけだからそれほどの数は来ないし、皆お前のことを歓迎している」
「そう、ですか……」
にこにこと笑顔でそう言うヒューゴに、シルヴァーナは結局何も言うことができず、二人で舞踏会の会場に向かった。
大きな両開きの扉が開かれると、鏡張りの目映いばかりの美しい広間にシルヴァーナは目を見開く。
「エクランド侯爵! 聖女シルヴァーナ様!」
高らかに名前が呼ばれると、華やかな衣装の人々が一斉にこちらを向いた。
シルヴァーナは好奇な目に晒されて、立ち尽くしてしまう。歩きだしたヒューゴがそれに気付き、シルヴァーナの手を取った。
「さぁ、シルヴァーナ」
優しく促されておずおずと歩きだすと、すぐに貴族の男女に囲まれた。
「エクランド侯爵、この方が聖女様でございますね?」
「お目に掛かれて光栄です、聖女様」
「ついに我が国にも聖女が降臨されたのですね」
皆が一斉に話しだして、シルヴァーナはその勢いに気圧されて何も答えられない。
その様子を見て楽しげにヒューゴが笑うと、代わりに口を開いた。
「皆、紹介しよう。私の孫のシルヴァーナだ。シルヴァーナ、挨拶を」
「あ、はい……。シルヴァーナ・フェルザーと申します。初めまして……」
極力自分のことは話したくなくて小さな声でそう言うと、周囲の人々は顔を見合わせた。
「聖女とはどのような方かと思ったが、随分慎み深い方のようだ」
「まだこちらに来たばかりで緊張しているのだよ」
ヒューゴはそう言うと、シルヴァーナに微笑み掛ける。その顔を見上げたシルヴァーナは、曖昧に頷くことしかできなかった。
広間には50名以上がおり、それが代わる代わるシルヴァーナに挨拶に来る。誰もがシルヴァーナに笑顔を向け、ヴィルシュ王国に来たことを喜んでくれている。だがどれほど優しい言葉を掛けられても、シルヴァーナは笑顔を作ることはできなかった。
美しい音楽も始まり、広間の中央では年若い男女が輪になって踊りだす。華やかで美しい光景だったが、シルヴァーナはただこの時間が早く終わることだけを祈った。
「王太子殿下ー!」
ふいに扉にいた騎士が声を上げた。するとその場にいる全員がすぐに扉の方を向き腰を落とした。
ライアンと目が合ったシルヴァーナも、仕方なく頭を下げた。
「シルヴァーナ、どうだ、少しは気が晴れたか?」
歩み寄ったライアンに声を掛けられ、シルヴァーナはゆっくりと顔を上げると眉を顰める。
「私はこういう場はあまり得意ではありません」
「そうか? だがダンスくらいはできるのだろう?」
「え?」
そう言うか早いか、ライアンはシルヴァーナの手を掴むと、広間の中央へと無理矢理引っ張っていく。
「殿下!」
「私と踊れることを光栄に思えよ」
声を上げるシルヴァーナを無視して、ライアンが腰を強引に引き寄せると音楽が始まった。
「殿下! 私を夫の元に帰して下さい!」
「シルヴァーナ、何を迷うことがあるのだ。ルカートにいる夫のことなど忘れて、ヴィルシュで聖女となれ」
「ベルンハルトのことを忘れるなんてできません!」
「まだ結婚して半年も経っていないのだろう? ならば他の男でも良いではないか」
シルヴァーナを抱き締めるように踊るライアンは、そう言うと顔を寄せ楽しげに笑う。
その顔を睨み付けながら、どうにか身体を離そうとするが強い力で引き戻されてしまう。
「私はベルンハルトを愛しています! 他の男性なんて考えられません!」
「愛とはまた……。そうだ。ならば私の妻になるか?」
「は!?」
突然何を言い出すんだと、シルヴァーナは困惑したが、ライアンはまるでとても良いことを思い付いたとばかりに話し続ける。
「私と結婚すれば、すぐに夫のことなど忘れさせてやるぞ」
「な……、何を……。殿下は確かお妃様がいらっしゃると……」
ルカートに来た時に確かそう聞いた気がした。ライアンはその言葉に何の動揺も見せず笑って頷く。
「ああ。王太子妃はいるが、別に気にすることはない。あれは政略結婚の相手だ。別に愛などないからな」
「そ、それじゃあ……」
「お前に『愛』をやろう。私はお前が気に入った。ここに来るまで長い時間を共にしたが、まったく苦ではなかった。今までそんな女には会ったことがなかった」
「な、何を言っているんですか?」
「愛があればヴィルシュに留まるのだろう? 私を愛せばヴィルシュにいる理由ができる。第二夫人という立場になるが、お前は聖女だ。地位を気にする必要はない」
ライアンのあまりの言葉に、シルヴァーナは唖然として何も言い返すことができなかった。
(愛!? 第二夫人!? 何を言ってるの、この人!?)
どんな理屈をこねたらそんなことになるのだと怒りまで湧いてくる。
「第二夫人なんてなりません!」
「もちろん。冗談に決まっていますわよね、殿下」
ふいに背後で高い声がして振り返ると、黒髪の美しい女性がにこやかな笑顔を浮かべて立っていた。




