第50話 自力で逃げてみせる
4日後の夕方、ヴィルシュ王国に入って初めて中規模の町に入った。これまでの村と違いそこそこ活気もあり、道行く人は身なりもしっかりしている。
角度のある尖った赤い屋根が続く街並みを、つい物珍しくシルヴァーナが見ていると、町を見下ろすような小高い丘の上にある大きな屋敷の前で馬車は止まった。
「シルヴァーナ、お前も降りよ」
ライアンに続いて馬車を降りると、そのまま屋敷の中へ入る。室内はとても暖かく、シルヴァーナはホッと息を吐いた。
「今日はここで一泊だ。枷は外してやるが、扉には鍵を掛けるゆえ大人しくしておれよ」
3階の部屋に案内されるとライアンはそう言い、部屋を出て行く。
シルヴァーナはライアンの執事のような男性に枷を外してもらうと、手首をさすった。
「テーブルの上の食事はご自由にお食べ下さい。廊下にも兵士がおりますので、騒いだりせぬようにお願い致します」
恭しい態度で脅迫する男性に、シルヴァーナは返事をするのも嫌で顔を背けた。
そのまま男性が部屋を出て行き、ドアから鍵を掛ける音が小さく聞こえると、詰めていた息をやっと吐き出した。
部屋には綺麗に整えられたベッドと美しい調度類が揃えられている。廊下とは反対側にドアがあり、そちらを開けるとバスルームだった。
「貴族の屋敷かしら……」
窓辺に寄り、とりあえず窓を開けてみると、庭の先は木立が続いている。
(ここから降りられれば逃げられるけど……)
窓から真下を覗いてみるが、壁には蔦があるだけで足場になるようなものはない。3階の高さは思いの外高く感じ、シルヴァーナはそっと首を戻した。
「ベルンハルト……」
シルヴァーナはイスに座ると、両手で顔を覆って項垂れる。
家から連れてこられて今日で4日になってしまった。どんどん家から離れていってしまっている焦燥が胸に広がる。これ以上先に進み王都に到着してしまえば、もう二度と帰れないような気がしてくる。
(落ち込んでる場合じゃない……。ベルンハルトを待っているだけではだめよ。自分でも逃げる手立てを考えなければ……)
沈む気持ちを無理矢理浮上させると、目の前に置かれた食事を見る。まだ湯気を立てているスープに、ふわふわの白パン。美味しそうな白身魚のソテーを見て、フォークとナイフを手に取る。
「お腹が減ってたら何もできないもの。とにかく食べましょ!」
自分を鼓舞するようにそう言うと、シルヴァーナは食欲がないのを無視して、用意された食事をすべて平らげた。
そうしてお腹いっぱいになると、勢いよく立ち上がりもう一度窓に寄った。
「逃げるならここしかないわよね」
窓を開け見下ろしてみると、屋敷の裏側だからか、この高さから逃げられる訳がないと思われているのか、見張りのような兵士の姿はない。
これなら1階まで降りれさえすれば、誰にも気付かれず森へ逃げ込めるはずだ。
「でもどうやって……」
当たり前だがはしごも無ければ、ロープも無い。
冷たい風が吹き込み、体が冷たくなっていく。それでもどうにか降りる手立てはないかと考えていると、ふと窓枠に置いていた手にかさかさと蔦の葉が触れた。
(蔦……)
1階から伸びる蔦は、3階を越えて屋根まで届く勢いだ。手を伸ばして葉を掻き分けてみると、びっしりと蔓がある。
シルヴァーナはハッとして両手でがさがさと葉を掻き分けた。すると、窓の横に太い蔓が伸びているのに気付いた。試しに掴んで引っ張ってみるが、多少動くだけで切れる様子はない。
「これ、いけるかも」
蔓はもちろん地上へと続いている。これを伝っていけば、1階まで降りられるかもしれない。
ついに突破口を見つけたシルヴァーナは、ごくりと唾を飲み込むと一度顔を戻し窓を閉めた。
(焦っちゃだめ……、皆が寝静まる時間まで待とう……)
そう自分に言い聞かせると、両手を握り締めた。
――深夜2時を過ぎた頃、シルヴァーナは音を立てないようにマントを羽織ると、窓辺に寄った。
ドアの向こうに兵士がいると思うと、微かな音さえ出すのも怖くて、手に汗がにじむ。それでもどうにか慎重に窓を開けると、下を覗き込んだ。
耳を切るほどの冷たい風が吹き上がって、顔を歪める。見れば見るほど地面までは遠く感じる。それでもここを降りなければ、逃げられないのだ。
「よしっ! 行くわよ!」
気合を入れてそう呟いたシルヴァーナは、窓枠に足を掛けて恐る恐る身を乗り出す。
手を伸ばし蔓をしっかり両手で掴むと、片足を複雑に蔓が絡まっている場所へそっと降ろした。ゆっくりと体重をそちらに掛けてみるが、蔓が切れる様子はない。
恐怖と緊張で胸がドキドキして上手く手足が動かない。すぐにも落ちてしまうのではないかと悪い想像ばかりが頭を巡り、次の一歩が踏み出せない。
「頑張れ……、頑張れ……」
何度も何度も呟き、勇気を振り絞る。そうしてそろそろと足を降ろすと、足を掛けられそうな太い蔓を見つけた。
そこからは二歩、三歩と、ゆっくりだがどうにか下に向かって順調に降り始める。
2階の窓を横目に見て、これならきっと逃げられると少しだけ気が緩んだ時だった。
ズルッと足が滑り、体のバランスが崩れた。
「あっ!」
残っていた片足まで蔓から離れてしまい、両手だけで蔓にぶら下がる形になって、シルヴァーナはパニックになった。
(あ、足を、どこかに……)
さっきまで乗せていたはずの蔓が探せない。靴の先でいくら探っても、かさかさと葉だけが触れるだけだ。
そんなことをしている内に、両手の限界が近付く。
(だ、だめ……、もう……)
歯を食いしばってどうにか堪えようとしたが、だめだった。
蔓から手が離れてしまい、落下感に襲われる。地面に落ちる恐怖にギュッと目を閉じたシルヴァーナだったが、すぐに訪れるはずの痛みはなぜか感じない。
何か柔らかいものの上に落ちた感触に、そろりと目を開けたシルヴァーナの目の前に、ベルンハルトの顔があった。
「ベルン……ハルト……?」
「危ないところだったね、シルヴァーナ」
にこりと笑ったベルンハルトの顔をポカンと見上げ、シルヴァーナは目を見開く。
「夢……?」
「夢じゃない。助けにきたよ」
「嘘……ホントに……?」
その懐かしくも感じる優しい声に、シルヴァーナは顔を歪ませ涙を溢れさせると、ベルンハルトに抱きついた。




