第25話 不安だけど行くしかない
舞踏会の日付は4日後で、すぐにでも出発しなければ間に合わない。考える暇を与えないようにというアシュトンの策なのだろう。
舞踏会に出席すると決めた二人は、急いで旅の準備をすると王都へ向けて出発した。馬車を使っても3日は掛かる道のりを不安な気持ちで進み、あと一日で王都という距離まで来た。
日が暮れて宿屋に入ると、シルヴァーナは大きな溜め息を吐いた。
「ずっと馬車に乗っていて疲れただろう?」
「ええ……」
シルヴァーナはイスに座ると、一言返事をするだけで黙ってしまう。その様子にベルンハルトが気付いてそばに立つと、そっと肩に手を置いた。
「大丈夫か?」
「あと一日で王都だと思うと、緊張してしまって……」
「そうか……」
今は考えてもどうにもならないのに、これからどうなってしまうのかをつい考えてしまうと、不安だけが募ってしまいどうにも落ち着かない。
「不安なのは分かるが、今日は何も考えずゆっくり休もう。明日が本番だからな」
「そうですね。ごめんなさい、ベルンハルトさん」
「謝らなくていい。ドナートが戻ってきたら食事にしよう。少しは食べないと倒れてしまう」
王都に向けて移動を始めてから、食欲が落ちていることを心配されて、シルヴァーナは微かに笑うと頷いた。
(心配させてばかりじゃだめよね……)
肩に置かれたベルンハルトの手に自分の手を重ね、その顔を見上げる。穏やかな瞳を見つめていると、ノックの音が聞こえてパッと手を離した。
「失礼致します」
「ああ、入れ」
ベルンハルトが声を掛けると、ドナートが入ってくる。
「すぐ食事にできそうか?」
「はい。手配して参りました。それから今、下で街の噂を聞いてきたのですが」
「街の噂?」
ドナートは顔を曇らせて話を続ける。
「王都に新しい聖女が現れたらしいのです」
「新しい聖女!?」
シルヴァーナは驚き腰を浮かせた。ベルンハルトも困惑した表情でドナートを見ている。
「シルヴァーナのことではないのか!?」
「違います。名前はコンスタンス様という方らしく、どうやら数日前に教会で奇跡を起こし、王都は今その噂で持ち切りなのだそうです」
「奇跡を!? どんな奇跡だったの!?」
「病気の老人を一瞬で治したそうです」
「癒しの力だわ……」
ドナートの言葉を聞いて、シルヴァーナは呟くと力をなくしたようにまたイスに座った。
「その噂が本当なら、王太子はなぜシルヴァーナを欲しがるんだ……」
「そうですね。新しい聖女がいるのなら、その方が王太子と結婚することも可能でしょう。シルヴァーナ様に執拗に執着する理由は何なのでしょうか」
(新しい聖女……、癒しの奇跡……、本物の聖女だわ……)
シルヴァーナは両手を握り締めて眉を歪める。
同じ時代に聖女は一人しか現れない。歴史上、聖女が二人存在したことはない。
(それじゃあ私はやっぱり……)
「王太子の考えることなんてさっぱりだが、新しい聖女がいるならどうにかなるかもしれない」
「旦那様、私はもう少し情報を収集して参ります。食事はエルナに任せますので、ゆっくりお休み下さい」
「よろしく頼む」
ドナートが部屋を出て行くと、ベルンハルトは黙り込んでいるシルヴァーナに視線を移した。
「シルヴァーナ?」
「ベルンハルトさん……」
「どうした? 何か気になることがあるのか?」
「……新しい聖女がいたらどうにかなるって、どういうことですか?」
胸に広がる気持ちを押し殺して訊ねると、ベルンハルトは少しだけ心配そうな表情をしたが、質問に答えた。
「ああ。もし新しい聖女が王太子と結婚する意思があるなら、それで万事話は収まるはずだ。後はシルヴァーナがシェーナとして社交界に認められさえすれば、王太子は手が出せなくなる」
「そんな簡単にいくかしら……」
「俺たちだけではいくら主張しても無理だろう。そこで舞踏会に出席する者の中で、味方になる者に声を掛けておいた」
シルヴァーナは驚いてベルンハルトの顔を見つめた。まさかもうそんなことまでしていたなんて思わなかった。
「味方って?」
「学生時代の友人だ。あまり詳しくは説明していないが、シェーナのことを昔からの友人だと言ってほしいと頼んでおいた」
「そんなお願い……、迷惑が掛かってしまうんじゃ……」
「大丈夫だ。あいつは俺に借りがあるから、きっと助けてくれる」
「でも、もし争いになったりしたら……」
「それこそ大丈夫だ。腕に覚えのあるやつだから、そうそう怪我することもないだろう」
助け手があるのは嬉しい。けれど色々な人に迷惑を掛けてしまっているのが心苦しい。早くこんな状況は終わらせたいのに、自分一人ではどうにもできないのが悔しい。
「できるだけ俺たちだけでどうにかするつもりだ。どうしてもという時だけ助けてほしいと連絡してあるから、心配いらない」
ベルンハルトの言葉をどうにか飲み込むと、シルヴァーナは静かに頷いた。
◇◇◇
たくさんの不安を抱えたまま、シルヴァーナはついに王都に帰ってきた。
舞踏会の準備をするために、城から少し離れた男爵家のタウンハウスに行くと馬車を降りる。
ベルンハルトに招き入れられて入った家は、2階建てのこじんまりとした家だった。ドナートとエルナが慌ただしく、家具の上に被せていた布を取っていく。
「本来は先に来て準備をしておくのですが、お見苦しいところをお見せしてしまって申し訳ございません」
「いい。それよりエルナはシルヴァーナの準備を頼む。もう夕方だ。時間がない」
「承知致しました。ではシルヴァーナ様、どうぞ2階へ」
「ええ」
エルナに先導されて2階へ上がると、奥の部屋へ案内された。中にはすでにドレスが用意されていて、ドレッサーの前にはアクセサリーが広げられている。
「あ、このドレス……」
「新しく誂えたドレスの出番がこんなに早く来るとは思いませんでした」
シルヴァーナは若草色の華やかなドレスの前に立つと、そっと布地に触れる。シフォンをたっぷり使ったスカートはグラデーションになっていて、裾に行くほど色が濃くなる。胸元には立体的な花の飾りが散りばめられていて、一層華やかさが増している。
「私もよ」
「さ、支度は時間が掛かりますから、お疲れだとは思いますが、着替えを始めましょう」
「ええ、分かったわ」
そうして着替えを済ませると、一度鏡の前に立って自分の姿を確認する。今まで着たことのあるドレスは、すべてアシュトンが勝手に誂えたものだった。王太子の趣味なのだろう、派手な色味とごてごてとした装飾のドレスは、まったくシルヴァーナの好みに合わなくて、いつも進んで着る気分にはならなかった。
だがこのドレスは屋敷に来た仕立屋が、シルヴァーナの瞳の色と雰囲気に一番似合うデザインで作ってくれたもので、シルヴァーナの好みにもぴったりのものだ。出来上がったものを見た時、純粋に着てみたいと思うほど素敵な仕上がりだった。
鏡に映る自分を見て、少しだけ不安な気持ちが薄れると、ベルンハルトの元へ行こうと部屋を出た。階段を下り居間の扉を開ける。
「お待たせしました。ベルンハルト、さん……」
こちらに背中を向けてソファに座っていたベルンハルトが、立ち上がってこちらを向いた。その姿を見てシルヴァーナは言葉を途切らせる。
「あ、シルヴァーナ……」
少し照れたような顔でこちらを見たベルンハルトは、いつもとはまったく違う印象だった。いつも適当に括る程度で、悪く言えばやぼったかった髪が、綺麗に整えられてリボンで結ばれている。前髪も切られて灰色の瞳がよく見える。
舞踏会のための青いスーツは華やかで、背の高いベルンハルトにとても良く似合っている。初めて出会った時の病弱な雰囲気はもうまったく無くて、どこからどう見ても素敵な貴公子だった。
「髪、切ったのね……」
「あ、ああ……。さすがにぼさぼさでは格好がつかないし……」
「すごく良いと、思います……」
シルヴァーナはそれ以外言葉が上手く出てこなかった。今までずっとそばにいたのに、まるで別人のように感じる。
あまりに素敵で、そばに寄ることもできない。
「お、俺より、君の方こそ、とても素敵だ」
「え、そんな……」
真っ直ぐに見つめられたまま、ベルンハルトに言われた瞬間、シルヴァーナの顔は真っ赤になった。
ベルンハルトも照れた表情で、視線をうろつかせている。なんだか妙な雰囲気になってしまって、どうしようかと困っていると、エルナが部屋に入ってきた。
「シルヴァーナ様、扇子をお忘れですよ。……あら」
エルナは何かを感じ取ったのか、二人を交互に見てからにこりと笑ってシルヴァーナに扇子を差し出した。
「旦那様もシルヴァーナ様もとても素敵です。これなら誰が見てもご夫婦に見えますよ」
「そ、そうかしら……」
「ええ。きっと上手くいきます」
エルナはそう言うと、ベルンハルトに視線を向ける。
「お支度はこれで終わりです」
「そうか。では、行こうか」
「はい、ベルンハルトさん」
そうシルヴァーナが返事をすると、エルナが「あ」と声を出した。
「シルヴァーナ様、旦那様に『さん』付けは少し変かもしれません。もう少し親しみのある言葉遣いがよろしいかと」
「あ、そうかしら……。じゃ、じゃあ、ベルンハルト?」
ベルンハルトの顔を見て名前を呼び捨てにした途端、ベルンハルトはパッと後ろを向いてしまう。
「え? えっと、ダメ、でしたか?」
不快に思われただろうかと、不安になってそばに駆け寄ると、ベルンハルトの耳が真っ赤になっていた。
「ベルンハルト?」
「あ……、いや、それでいいと思う。うん……」
しどろもどろでそう言ったベルンハルトは、一度大きく息を吐くと、こちらにゆっくりと顔を向けた。
「よし。行こうか、シェーナ」
「……ええ、ベルンハルト」
ベルンハルトの言葉に、一瞬で緊張感が迫り上がってくる。それでも勇気を奮い起こすと、シルヴァーナはベルンハルトの目を見つめてしっかりと頷いた。




