1章53話 少年の心1 少年の貧しく小さな世界
離宮では、ノルアード王子がキャルメ王女とアトレーユの様子をうかがっていた。騎士の眠るその部屋は、少しだけ扉が開けられており、中では王女が懸命に看護していた。
部屋の中に入ることはしない。
彼らの間に入る余地があるようには思えなかった。
ノルアードは一つため息をついて、これまでの事を考える。彼はこの離宮に、父王の命令で来ていた。王女の命が危ないのと、兄のエドワード王子を牽制するためである。
(最初からこの離宮へと彼女を寄こすことは反対だったんだ……)
すでに王女がエドワード王子の手によって、危険な目に合いそうになったということを、護衛のナイルから聞いた時、彼は憤慨し、また同時に後悔もした。王女は彼の目的には必要な人物であった。
だが彼自身の心が彼女を求めていた。
(……まさかこの俺がこんな気持ちになるなんてな……)
二人から視線を外し、彼は自嘲する。ノルアードがラーデルス王国の王位を望んだのは、そう最近のことではない。
王位につくと心に決めた時から、彼の心はずっと凍り付いたままだ。誰にも隙を見せることはない。唯一の義兄弟であるラスティグだけが、本当の彼の心を知るのみだ。
もう一度ノルアードは、アトレーユの部屋にいるキャルメ王女を視界に映す。
傷ついた騎士に向ける王女の表情は、愛する者を慈しむ、優しい愛情に溢れていた。しかしそれが向けられるのは、自分ではない。いまだ目を覚まさない王女の騎士、アトレーユだ。
ノルアードの心の中にある傷ついた少年の心が、なぜだか軋むようにうずき始める。
そのことに眉を顰めながらも、彼はぼんやりと昔の事を思い出していた。
****************
まだ幼い頃、彼は母親とともに、非常に貧しい暮らしをしていた。物心ついた時からすでに父親はいなく、母親もそのことに対して何も言わなかった。
しかし彼は母が今でもまだ、父の為に人知れず涙を流していることを知っていた。頭の良かったノルアードは、それに気づいていないふりをして、幼いながらも母を支えていた。
「母さん。今日はヘッケルさんところから芋をもらえたよ。これで何日かは腹をすかせずに済むね」
ボロボロの服に身を包み、年齢よりもずっと小さな身体の少年は、芋を小脇に抱えて、母の待つ家の戸を開けた。
木戸はがたつきがひどく、棒切れのように細い手足の彼は、開けるのに毎回苦労していた。そんな家の土壁は所々が崩れ、隙間風がはいりこんでいて屋内なのにとても寒く感じた。
しかしそれは彼にとっては当たり前の事だった。彼らの住んでいた地域は貧しく、皆同じような生活をしていた。幼い少年には、それが貧しく辛いことだという認識はなかった。
だがそんな彼にも気がかりな事があった。母のミーリアがここのところずっと体調を崩していた。
藁を敷いて、布を上からかぶせただけの簡素なベッドに横たわる母に笑いかけると、彼は飯の支度をし始めた。
「今日はヘッケルさんの機嫌がすごくよかったんだ。だからいつもよりおっきなのを分けてくれたんだよ」
母を元気づけようと、明るい声で話す。母のミーリアはそれを黙って聞いていた。
「……ごほっごほっ!」
突然母が激しくせきこんだ。
ノルアードは持っていた芋を投げ出して、急いで母の元へと駆け付ける。
彼女の口の周りは血で汚れてしまっていた。
「大丈夫?母さん。今綺麗にするから」
そういってノルアードは、布を水で濡らして、彼女の口元をぬぐった。その布は布巾などではなく、彼が持つ唯一の着替えだ。
彼らはほとんど何も持ってはいなかった。体の弱った母親と幼い子供だけでは、命を繋ぐのがやっとの生活だったのだ。
口元を丁寧に拭ってやると、母は何かを言いたそうにしていた。すでに病が彼女の体力を奪い、まともに話すこともできないでいた。
「母さんどうしたの?」
彼は跪いて、彼女の口元に耳を寄せた。
「……っ」
しかし彼女の唇は言葉を発することはできなかった。もっとよく聞き取ろうと身を前に乗り出したとき、突然木戸が開け放たれた。
「いたぞ!ここだ!」
突然数名の兵士らしき男たちが、狭い室内へと入ってくる。土のついた軍靴は、下に転がった芋を踏みつけぐしゃりと潰した。
「何をするんだ!母さんのための芋なのに!」
ノルアードは憤って、兵士につかみかかった。しかし兵士はそれをものともせずに、ノルアードをひょいと担ぎ上げると、小屋からあっという間に連れ出した。
「やめろ!放せっ!」
ノルアードは担ぎ上げられながらも、兵士の背中を殴って必死に抵抗する。兵士は暴れるノルアードを抑えることもせずに、肩に担いだまま馬車の中へ放り込んだ。
そして外側から鍵をかけ、馬車から出られないようにした。
ノルアードが馬車の窓にへばりついて家の様子をうかがうと、彼の母親も同様に家から運び出されていた。
「母さんっ!」
ノルアードは驚愕して叫んだ。そして母を助けるために、なんとか馬車から出ようと、扉を手で力いっぱい叩いて必死で暴れた。
だが頑丈な造りの馬車はびくともせず、彼自身の手を痛めるだけだった。
近所の人々が何事かあったのかと、少し離れた所で様子をうかがっている。
しかし彼らもノルアード達と同じように、貧しく、力を持たない者たちであった。王国の武装した兵たちに立ち向かうどころか、びくびく怯えてただ見ているほかなかったのだ。
何故自分たちがこんな目に遭うのか見当もつかない。彼らが踏みつぶしたのは、芋だけではなくノルアードの心の中にあった微かな誇りだった。
少年に力の差を見せつけた兵士たちは、ノルアードの母を別の馬車へと乗せると、一刻も早くその場を離れようと馬を急かした。
馬は悲鳴のような嘶きをあげ、馬車は走り出した。そして次第にその速度を上げ、彼らの住んでいた小さな世界からあっという間に走り去った。




