1章36話 書状と掴まれた腕と
ラスティグはアトレーユの後を追おうとしたが、すぐに自分の立場を思い出しそれを自制した。そんな息子に今まで黙って見ていたストラウス公爵は声をかける。
「これは国王陛下の書状だ。お前が使者として、ロヴァンス軍を率いている人物へと渡せ。我らはキルテスの丘に陣を敷く。使者の役目を終えたのち、お前は離宮に残っている兵とともに私の指示を待て。いいな?」
そういって父親が懐から取り出したのは羊皮紙でできた巻物であった。茶色の巻物は金と赤の組紐で結ばれており、ラーデルス王国の紋章の飾りがつけられており、正式な書状であることが見て取れる。
それを見たラスティグは一瞬眉を顰め、受け取るのを躊躇した。
そんな息子の様子をみたストラウス公爵は、片眉をピクリとあげ、訝しむような表情を見せた。まるで息子の怯えをとがめるかのように、彼の忠誠心を試すかのように、ずいと書状を目の前へ突き出す。
そして重々しい口調で息子に告げた。
「……お前が我が公爵家の長子としてあるのは、全てこの国に尽くすためであることを忘れるな」
その言葉はラスティグが子供の頃から父に言われ続けていた言葉だ。国の為に生きるということでしか、父ハーディンに認められる術はない。その厳しさをわかってはいても、ラスティグの心中には苦い想いが広がっていく。
しばし自らの動揺を抑え込むように息を整えたのち、ラスティグは書状を恭しく両手で受け取った。羊皮紙でできた書状は軽いもののはずであるのに、ずっしりとした重みを感じた。心なしか手が細かく震えてくる。そんな自分がおかしくて、ゆがんだ笑みが口元に浮かんだ。
ラスティグがじっとその巻物から目が離せないでいると、焦れたように馬が小さく嘶いた。それによってようやく現実に引き戻されると、じわりと冷たい汗がこめかみを伝う。すでに陽は中天を傾いており気温は高いはずなのだが、得体の知れない寒気が体の底から伝わってくるようだった。
ストラウス公爵が引き連れてきた軍勢は数百にも及び、すでに街道を見渡せるキルテスの丘に陣を敷き始めている。一方国境沿いの森から伸びる街道には、グリムネン率いるロヴァンス軍がこちらへと向かってきていた。
書状を手にしたラスティグは、ゆっくりと一歩一歩、慎重にロヴァンス軍の方へと馬を進めていく。近づくにつれて周囲の重苦しい空気は、次第に硬質な金属の刃が肌を切り裂くような鋭いものへと変わっていった。
そんな異質な緊張感の中、ラスティグは使者として、ロヴァンス軍をまっすぐ見据えていた。落ち着いてその場にいるように努めてはいるが、実際はその先に起こるだろう戦のことで頭がいっぱいだった。
瞬きをするのも忘れ、ただまっすぐに見つめた先に、彼はふと美しい銀色をみた。先ほど自軍へと戻っていった銀髪の騎士アトレーユだ。
アトレーユもその時ラスティグの方を見た。
草原に二人の視線が交差する。
二人の間にはいまだ遠く距離があったが、目と目が合うのをお互いが感じた。
穏やかな風が、その場の重苦しい緊張を攫うかのように彼らの間に流れた。鮮やかな緑色の草が風に揺れている。
困惑する紫色の瞳を見つめると、じわじわと身の内から怒りがこみあげてくる。
なぜこんなにも激しく感情が揺さぶられるのであろう。そんな疑問が憂いとともに頭をよぎった。
お互いが目を離せぬまま、二人の距離は声が届くほどまで近づいた。しかし彼らの間には見えない大きな隔たりがある。
非情なまでに冷たくどうにもすることのできない、国と国同士の壁だ。
ラスティグが近づいていっても、ロヴァンス軍に動揺は一切見えなかった。重厚な鎧に身を包んだ彼らが指一つ動かさず整然と並ぶ姿は、まるで悪魔と対峙しているかのような恐怖を覚えるものだった。
彼らはじっとラスティグの指の先まで、その動きを注視しているようだ。獲物を品定めしている獰猛な獣のような気配に、ゴクリと唾を飲み込む。
その恐怖を悟られないように冷静に振る舞いながら、ラスティグは一層胸をはり大きな声をあげた。
「ラーデルス王国騎士団団長の、ラスティグ・ハザク・ストラウスである。ラーデルス国王陛下の書状を持って参った」
威風堂々とした声が高らかに草原の空に響いた。
しばしの沈黙の後、アトレーユに対しグリムネンが何事かを告げた。兄から耳打ちされたアトレーユは、そのままラスティグの元へと書状を受け取るために参じた。
空は青く高く澄んで遠く鳥のさえずりが響いている。人間の憂いなどひとつも知らない美しい自然が彼らを囲んでいた。
重苦しい空気の中、両軍が二人をじっと見守っている。
ラスティグは馬から降り、アトレーユに国王の書状を渡した。
アトレーユはそれを受け取った。手袋越しにほんの少しだけ手が触れる。
少し動揺したかのように、アトレーユの肩がこわばった。
それに気付いてラスティグも一瞬手に力が入る。
「貴国の書状を確かに承わった」
そういって一瞬だけ目があったがすぐに視線は逸れ、アトレーユは美しい銀髪を翻し自軍の元へと戻ろうとしたが──しかしそれは叶わなかった。
ラスティグがアトレーユの腕を掴んだのだ。
「何を……」
驚いて振り返ったアトレーユの目に飛び込んできたのは、苦しそうな表情をしたラスティグだった。
そしてラスティグ自身も自分の行動に驚いていた。無意識に体が動いていたのだ。しかし腕を掴んだままラスティグは言葉が出てこなかった。
二人はそのまましばらくの間、見つめ合い固まっていたが、やがてラスティグは静かに言葉を紡ぎだした。
「……貴殿はこのままでいいのか?このまま両国の間で戦が始まってしまっても。王女殿下の無事もまだわからないというのに。貴殿も本当は望んでいないのだろう?」
そう語るラスティグの言葉には、彼自身の希望が現れていた。本当の意味でアトレーユと敵対したくないとの想いが。アトレーユの腕を握る手に力がこもる。
そんなラスティグの言葉に一瞬動揺し、アトレーユはそれを隠すように顔をそむけた。
「……そんなことはわかっている……」
顔をそむけたまま低く呟くと、しばらく沈黙が続いたが、かすかにアトレーユの肩が震えたような気がした。
ラスティグはハッとして、アトレーユの腕を掴んだまま引き寄せようとした。しかしアトレーユは頑なに顔を背けそれに抵抗した。
焦れたラスティグはなおも強く腕を引き寄せ、その顔を覗き込んだ。
泣いているのかと思ったその顔には、ただ困惑の表情が浮かぶのみであった。
しばらくしてアトレーユが絞り出すように声を出した。
「貴殿には感謝している……だがもしも王女に何かあったとしたら、貴国の人間によって害されるようなことがあったとしたら……私はラーデルス王国を許すことはできない」
そういって苦し気に顔を歪めると、そのまま逃げるように走り去った。
その後ろ姿を見送るラスティグは、やり場のない感情を吐き出すかのように、くそっ!と声をあげ、拳で空中を叩くように振り下ろす。
アトレーユの姿はすでにロヴァンス軍の中に消えていた。
ラスティグは険しい表情のまま馬に跨ると、ロヴァンス軍に背をむけ、エドワード王子の離宮へと馬を走らせた。彼は決して後ろを振り返りはしなかった。
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ラスティグから書状を受け取り自軍へと戻ったアトレーユは、書状を兄グリムネンに渡し、読み終えるのをじっと待った。
その間、ラスティグに捕まれた腕をぼんやりと見つめていた。彼の前ではうまく感情の自制が効かない。
ちらりと書状を読むグリムネンを盗み見る。グリムネンは真剣に書状を確かめている。生真面目で苦労性の兄だが、仕事に対しては非常にシビアだ。
「どうした?気おくれしたか?」
無言で自分を凝視してくる妹を一瞥すると、グリムネンはそう声をかけてきた。
しかし返す言葉が思いつかず、むっとして黙っていると、仕方ないなという表情を見せ書状を懐にしまった。
「あの騎士団長か……真面目そうな奴だが、お前にそんな顔をさせるような奴は気に食わないな」
「どういうことです?」
思わず漏れた兄の独り言を聞き、訝し気に彼を見上げると、やれやれといったため息が頭上から落ちてきた。しかしグリムネンは妹の言葉に応えることなく自軍へと向き直り、次々と指示を飛ばした。
「作戦通り遂行だ。うまくおびき寄せて派手にやれ。一時間後に出陣だ」
兄の表情から指揮官としての表情になったグリムネンは、妹に向き直ると命令を下した。
「お前は今回裏方だ。間違ってもラーデルスとやり合うなよ?これは兄としてではなく上司としての命令だ。いいな?」
「……はい。承知いたしました」
兄の言葉に唇を引き締めて答えた。




