前編
イーグワーデの森に入ってはいけないよ
そこには雪男がいる
もし、入ってしまったのならば…………
月が青白い光を降らせ、スギやらヒノキやら、常緑の木々の枝先に下がった氷柱が、キラキラキラキラと輝きます。
ここは森の中。イーグワーデの森の中。
地面を覆う雪は、いつしか溶けることさえ忘れてしまったようで、辺りは一年中真っ白に染まっています。
とある小さな村は、その森に囲まれていました。
花も実もわずかにしか育たない土地のため、村は大変貧しく、気温の所為もあるかも知れませんが、昼夜を問わず寒々としていました。
けれども、そこで生まれ育った一人の少女は、寒い所が好きでした。なぜなら温もりを感じることが出来たからです。焚き火にあたる時、スープを飲む時、親に抱かれる時、少女は幸せな気持ちになれたのでした。
ところがその温もりは、風花よりも軽く舞い散ってしまいました。
少女が十歳になった頃のこと、父親に連れられて森に入ったのですが、雪深い山あいの谷に一人置いていかれてしまったのです。
それは仕方のないことでした。
村では歳が十を越えれば立派な働き手。一人でも多く雪を掻き、土を掘らなければならない土地において、もし役に立たない子があれば、口減らしせざるを得なかったのです。そうです。少女は捨てられたのでした。
少女は、目が見えなかったから。
さあ、クレイグ、物語を始めるよ
あなたのための物語を
朝陽の中、片栗の粉のような雪をキシリキシリと踏みしめ、森に暮らすクレイグは、台車代わりのソリを引きながら川魚や草の芽を探していました。一年中雪に包まれたイーグワーデの森では、食べ物を一つ見つけるのも大変です。
そしてカメティ村の近くの谷にやって来た時、変わったものを見つけました。真っ白な地に咲いた一輪の花のように、赤い布切れが落ちていたのです。
クレイグは何かの役に立つかも知れないと思い、雪に埋もれたその布を掘り起こしました。ところが、出てきたのはただの布ではなく、赤い綿入れを羽織った幼い少女でした。
可哀そうに。道に迷って息絶えてしまったに違いない。
クレイグはどこかに埋葬してやろうと、冷たくなった少女を摘み上げてソリに乗せました。すると、少女が目を開け、ヨロヨロと身体を起こしました。彼女は生きていたのです。
姿を見られたくないクレイグは咄嗟に身を伏せたのですが、どうも様子がおかしい。恐る恐る顔を上げて少女のことを改めて見てみると、目を大きく開いてはいるものの、その視線は焦点が定まっておらず、中空を漂っています。
「誰か、いるの?」
ヒンカラカラという遠い駒鳥の囀りよりも小さな声で、少女は言いました。
「僕のこと怖くないの?」
身を縮めたまま尋ねると、少女は首を傾げました。
「君、目が見えていないのだね?」
少女は頷きました。
見えていないのならば安心だと考え、クレイグは立ち上がりました。その身体は熊よりも大きく、ゴワゴワとした銀色の毛で覆われています。
クレイグは、雪男なのでした。人々から恐れられ、森の中でたった一人、隠れて生活をしていたのです。
はて、目の見えない子供がどうやってこんな所まで来たのだろう。不思議に思いましたが、いずれにしてもこのまま放っておく訳にはいきません。
そこでクレイグは彼女にこう言いました。
「君はカメティの村から来たのだろう? 村の入り口まで送ってあげよう」
けれども少女は首を横に振るばかり。言葉を変えて幾度も問いかけようと、家に帰ろうとしません。
困ったクレイグは、まずは暖を取らせるため、自分の住む洞穴へと彼女を連れて帰ることにしました。
穴倉の中で石を打って火を起こすと、辺りはほんのりと温かくなりました。
ずっと全身を強張らせていた少女はよほど安心したのか、手足を伸ばして表情を緩めました。
「助けてくれて、ありがとうございます」
そう言う少女にクレイグは照れながら頭を下げましたが、彼女は目が見えないのだということを思い出し、改めて言葉でもって応じました。
「どういたしまして、えーっと……お名前は?」
「わたしの名前は、リジー・アン。みんなからは、リズって呼ばれている……いいえ、呼ばれていたわ」
「分かった、リズだね。僕はクレイグ。森のクレイグさ」
リズは何が面白かったのかクスクスと笑い、「モリ・クレイグさんね」と言ってから、こう言葉を続けました。
「クレイグさん、わたしをしばらくここに置いてくれないかしら」
家に帰ろうとしない彼女のことです、追い出したら、どういうことになるか分かったものではありません。クレイグは迷いましたが、結局その願いを聞き入れることにしました。
「行く先が決まるまでならね」
「ありがとう、クレイグさん。よろしくね」
リズが握手を求めて手を差し出します。けれども毛むくじゃらな身体に触れられてしまえば、自分が雪男であることを知られてしまいます。
考えた挙句、クレイグは提案をしました。
「その代り約束をして欲しいんだ。僕の身体に決して触れてはいけない。それともう一つ、クレイグさんではなく、クレイグって呼んでおくれ」
リズは少しだけ不思議そうな顔をしたものの、すぐに笑って大きく頷きました。
「分かったわ、クレイグ」
リズは目が見えないにもかかわらず、クレイグが食料などを探しに出掛けている間、料理をしたり、毛皮を縫ったり、献身的に家事をしてくれました。
もちろん気を使ってのことだったのかも知れませんが、それでもクレイグにとっては、とても嬉しいことでした。
始めの頃こそ、「なぜ森に暮らしているの」「なぜ肉をそのまま食べるの」などと質問を繰り返され、煩わしいと感じたこともありましたが、一人ぼっちで冷たい洞穴に隠れていた時のことを思えば、遥かに温かな生活になったのです。
いつしかクレイグは、リズと一緒にいれば、人間として、幸せに生きていくことが出来るのではないかと思うようになりました。
ところがある日、その考えを改める出来事がありました。
いつものように森をさまよっていると、ひと組の夫婦を見かけたのです。その夫婦は、かつてリズが倒れていた谷間に花を添え、涙を零しながら手を組んでいました。
おそらくリズの両親でしょう。リズが死んだものと思って、祈りを捧げているに違いありません。
クレイグは身を隠したままその場を去り、早めに穴倉に戻りました。
「あら、クレイグ。今日は帰りが早いのね」
リズは音に敏感で、クレイグが口を開くよりも先にそう言いました。
クレイグは呼吸を整えてから、笑みを浮かべ、言葉を返しました。
「うん、リズに会いたくて、急いで帰ってきたんだ」
「嬉しいことを言ってくれるのね。ありがとう」
リズはキルト地のスカートをちょこんと摘むと、お姫様のように会釈しました。
「リズは可愛いね。君の家族も君のことを可愛いと思っていたに違いない」
そう言うと、急に彼女は表情を曇らせました。
「そうね。そうだと思うわ」
クレイグは出来るだけ明るい声色で諭すように告げました。
「さっきね、君の両親と思われる人達を見たんだ。君が倒れていた場所で泣きながら花に向かって祈りを捧げていたよ。きっと、君が死んだと誤解しているのだと思う。リズ、村に帰ろう。そうすれば、みんな喜ぶよ」
ところがリズは頷くことはせず、ただ静かに細く涙を流しました。
「クレイグ、それは駄目なの……」
彼女はそう前置きをしてから、自身の身の上について淡々と語り始めました。
村が貧しいこと、幼いうちから働かなければならないこと、身を患えば生きていけないこと、両親は自分を愛しながらも捨てたことを、淡々と。
「……わたしは森に添えられた供花なの。このイーグワーデの森には人を喰らう雪男がいる。わたしを弔うため、わたしの身をもって、森の番人である獣に祈りは捧げられたのよ」
「雪男は人を食べたりしないよ」
「詳しいのね。でも、いずれにしても……」
そこでリズは大きく息を吸い、それからゆっくりと言いました。
「わたしは、生まれてきてはいけない子だったのよ」
リズは涙を流し続けていましたが、その口調は酷く落ち着いていました。
クレイグは自分が何年生きてきたのかを覚えていませんが、少なくとも、リズよりはずっとずっと年上です。逆に言えば、リズはずっとずっと幼い。そんな幼い子供が冷静に自身が呪われているかのように語る姿を見て、クレイグはとても悲しい気持ちになりました。
「リズ、君は聡明だ。君の言う通り、村に帰る訳にはいかないのかも知れない。でもね、生まれてきてはいけない命なんてないんだよ。今の君は僕の目の前にいるだろう? 僕はそれを幸せに思う。星を頼りに道を往く旅人のように、君を標として僕はこの温かな場所に辿り着いたんだ……」
その時、クレイグの脳裏に一つの考えが浮かびました。
「……そうだ、旅人だ」
リズはここに住まわせて欲しいと言っていたけれど、本当は人として人の中で生活したいに違いない。クレイグはそう思い、考えを述べました。
「リズ、旅に出よう」
「旅に? 一体どこへ?」
「森の遥か南に、センティアルドという大きな街があるんだ。そこには、石で出来た家や、見上げるほど高い城があるんだってさ。あとね、信じられるかい、道にはレンガが敷き詰められているんだよ。森を歩く人の噂話で聞いたのだけれど、他にも親のない子を引き取る施設や、それとね、優秀なお医者さんがいるんだって。ひょっとすれば、君の目を治すことも出来るかも知れない」
「でも……」
「行こう。この洞穴は、僕達が成長するには狭すぎる」
リズは涙を零しながらも顔をほころばし、何度も頷きました。
クレイグはその涙を拭きとってあげたいと強く思いましたが、触れる訳にはいきませんので、ぐっと堪えて、さっそく荷造りを始めました。
こうして、二人の旅は始まったのです。
つづく




