11. オルガ、再度突撃する(4)
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*・・・*・・・*・・・*
螺旋階段となっている北の塔から城門館へは、計四つの行き方がある。一つは正規といえるだろう、城内から正面玄関へと向かい、中庭を通って行く方法。二つ目は城内と繋がる、騎士達が住まう建物――”騎士の館”と呼ばれる――の回廊を通る方法。三つ目は、北の塔から裏庭に出て城門館へ向かう方法。そして最後の一つが今日、オルガが通ってきた舞踏の館に面した庭園を抜ける方法である。
一つ目の道順は人通りが多い。人々の中には男性もいるから、使用する道順の優先順位は低い。二つ目の道順は、男性恐怖症のオルガからすれば最も避けたい場所を通るから即却下。三つ目の道順ならばと思うが、ここも裏庭が騎士の館に面していることから、そこで騎士達が鍛錬していることも少なくない。できれば二番目に避けたい道のりである。従って、この城の地理を熟知しているオルガは、帰りも庭園を歩くことに決めた。
来た時と同じように、庭園の花を眺めながら歩を進める。
(人もほとんどいなくて、花も綺麗だし……今後、セルジュ様のもとへ通う時はこの庭園を通ろうかしら)
そう思考に耽っている時だった。頭上でなにやら音がしたかと思えば、直後に「オルガ・フィオーレ!」と名を叫ばれる。あまりに唐突で、思わず足を止めた。
(どこから……?)
困惑しながら呼ばれた方角を探す。周囲を見回した後、(まさか頭上?)と冗談まじりに天を仰ぐ。視界が捉えたのは、まだ青い空と、今の時期は使われていない筈の”舞踏の館”の窓。その窓は開け放たれており、窓から木桶が覗いた。角度が悪く、木桶を持っている人物の手しか見えないが、その誰かは木桶を傾けた。
木桶の中に入っていたのだろう多量の水が、オルガへと向かってくる。
「な――っ!?」
驚きに目を見開いて紡げたのは、その言葉だけだった。寸でのところで『王の執務室警護当番表』と本を投げ出し、それからすぐに俯きながら腕で頭を庇う。
瞬く間もなく、オルガの耳にバシャッという水が地面に弾ける音が届いた。もちろん、オルガは一瞬にして濡れ鼠である。
足元にできた水たまりを見つめながら、呆然と思う。
(……これが、洗礼というやつかしら?)
間違いなく、偶然ではないだろう。名を呼ばれたのだ。そうすることで、オルガをその場に止まらせた。これが故意でなくしてなんだというのか。
(物語で読んだことあるわ)
けれど、実際にこういったあからさまで短絡的な嫌がらせを受けたのは、生まれて初めてだ。
ドレスに水が染み込み、肌に張りつく。自慢の豊かな黒髪は落ちてきた水圧によって乱れ、さらに水気を含んで重たくなっていた。髪の一部が顔にはりついているので、傍からは王宮に出る亡霊のように見えるかもしれない。とにもかくにも、オルガは肌にはりつく布や髪の感触を気持ち悪いと感じた。
(えっと……)
まだ現実がうまく呑み込めていないらしい。オルガが濡れ鼠になって最初にしたことは、顔にはりつく髪を指に絡ませ、後ろに流す前に鼻へと近づける行為だった。
(臭いは……ないみたい。掃除で使用した水でなくてよかった、と思うところかしら?)
そんなことを考えるくらいには混乱している。
(不幸中の幸い)と思ってようやっと、自分がされたことは理不尽な行為で、犯人は誰なのかというところまで思考が辿り着いた。
オルガは再び顔を上げた。
すると、今度は木桶が落ちてくる。ついさっきまで水が入っていた木桶だ。オルガは地面に縫いとめられたように動けず、その桶を眺めた。
油断していたのは確かだ。予想外の出来事に、呆気にとられていたのも確か。正直、水をかけられるまではあっても、まさか”侯爵令嬢”である自分に怪我をさせる行為を仕掛けてくるとは予測していなかった。前もって、嫌がらせを受けて東方へ帰ったという令嬢の話は聞いていたものの、これは嫌がらせの域を超えている。
すべての動きがゆっくりと流れていくように感じるのに、逃げることができなかった。そんな時、咄嗟に浮かんだのは、まさに愚案。
オルガは木桶を睨みつけながら、思いついたままに両手を空へ向けて伸ばした。
そんな格好でオルガが木桶を待ち構えれば、降ってきたのは木桶ではなく「なにをやっている!!?」という怒鳴り声。同時に、それまで視界にあった木桶は一瞬にしてなにかに思い切り弾かれ、地面に落ちて砕けた。
「……? ??」
もうなにがなんだかわからない。手を掲げたまま怒鳴り声のした方へと顔を向ければ、そこにはセルジュがいた。しかも、その距離はかなり近く、大股一歩で触れられるくらいだ。
「セルジュ、様?」
頭の中が疑問符で埋め尽くされ、オルガが呟く。彼は息を切らし、剣の鞘ごと振り下ろした状態で立っている。その姿を見るに、彼がオルガを助けてくれたことは一目瞭然だった。
それでもまだオルガの理解が追いつかない。色々急展開すぎる。
頭上を見て「逃がしたか」と呟くセルジュ。オルガも同じように犯人のいた筈の窓を見上げ、既に窓は閉じられ人影がないことに気づく。ついで、きょとん、と険しい顔をしたセルジュを見つめた。
セルジュは溜息を零しながら、オルガへと視線を向ける。
「オルガ嬢」
「はい」
今度は首をこてん、と傾げれば、セルジュは片手で自身の額を覆った。
「なぜ落下物を避けようとせず、受け止めようとする……」
どうやら、オルガの姿はセルジュの目にそう映ったらしい。だが、それは誤解だ。オルガとて木桶を受け止めるつもりなどなかった。ゆえに、反駁する。
「いえ、これは受け止めようとしたのではなく……こう――」
上へと手を伸ばした格好から、斜め下へと両手を下ろして見せる。
「上から斜め下へと、こう、衝撃を受け流そうと……」
「無謀にもほどがある」
即座に突っ込まれ、あまりの正論にオルガは(確かに)と少しだけ冷静さを取り戻した。
他方、セルジュは「無事でよかった」と眉尻を下げて頬を緩める。セルジュの素の表情を目にして、オルガはやっと頭の中の混乱を鎮めることができた。彼の笑みはまるでオルガにとっての鎮静剤のようだ。
また一つ宝物――セルジュの素の表情――を手に入れた喜びと、助けてくれた感謝に微笑む。
「ありがとうございます、セルジュ様」
深々と頭を下げると、セルジュは睫毛を伏せた。
「いや……ずぶ濡れだな。助けが遅れてすまない」
謝るセルジュに、心がまた温かくなった。
(セルジュ様は悪くないのに)
助けてくれた彼が謝罪するなんておかしいのに。
けれどそれをそのまま伝えたところで、彼の罪悪感が払拭されることはないだろう。だから、オルガはにんまりと口角を上げて茶化してみせる。
「セルジュ様、むしろ私、被った水が掃除で使用したものではなかったことに、ありがたいと思っていますよ」
オルガの言葉に視線を上げたセルジュは、目から鱗とでもいうように目を瞬いた。数拍後、彼はくしゃりと笑う。笑ってくれたことが嬉しくて、オルガも同じように笑う。
そうして少しの間笑い合っていると、徐にセルジュが騎士服の上着を脱ぎだす。なんとなくその様子を見守っていると、上着はオルガの肩に掛けられた。
セルジュの体温が宿った上着は温かい。さらに、セルジュのものと思しき香りがして、頬が熱くなる。
赤くなった顔を見られたくなくて、泣く泣く手放すのを惜しみながらも「あのっ、濡れてしまいますから」と上着を脱ごうとすれば、彼はオルガの意図を誤解したらしい。
「上着は駄目だったか……すまない」
セルジュが申し訳なさそうに上着を受け取ろうとする。それに焦ったのはオルガだ。彼は男性恐怖症のオルガがセルジュの上着に拒絶を示したと捉えたようだが、それはまったくもって違う。このまま誤解されてしまえば、握手はできるが上着は無理――つまり公爵家の嫡男にとって同じ寝台で眠ることはできないだろう相手と認識され、恋の成就以前の問題になってしまうかもしれない。セルジュならば大丈夫! むしろセルジュしか無理なのだ――という事実だけでも伝えねばとオルガは焦った。
「いえっ! セルジュ様なら問題ありません! 上着でも、シャツでも、下履きでも!」
「……いや、下履きは……」
「あの、すみません、下履きは追々で! とにかく、セルジュ様の上着が濡れてしまうのが申し訳ないとお伝えしたかったのです」
「なんだ、そんなことか」
笑いまじりの声の後、「気にしないでくれ」という言葉と共に、オルガの手から上着がなくなった。そしてそれは再びオルガの上体を包み込む。
「風邪を引かないよう、使ってほしい」
そういわれてしまえば、オルガは拒めない。「ありがとうございます」と小さく囁いて、大きな上着が落ちないよう手であわせ部分を握りしめた。
嬉しくて、嬉しくて堪らない。胸が高鳴る。間接的だけれど、彼の香りと温もりに頬がさらに熱くなる。これだけで幸せだと――もう十分だと、思ってしまう。オルガにとって、それは涙が出るほどに幸福なことなのだ。
幸せを噛みしめるオルガを他所に、セルジュは庭園に落ちている『王の執務室警護当番表』と本を拾い上げ、土を払った。それらを手渡されると思っていたオルガは上着から手を離して受け取ろうとしたが、セルジュがそれらをオルガに渡すことはなかった。
「オルガ嬢、この二つは濡れないよう私が馬車まで持っていくよ」
「え? ですが、まだセルジュ様は職務中では? ――そういえば、セルジュ様はなぜここに?」
今更かもしれないが、考えてみると不思議なことだらけだ。なぜ、セルジュは持ち場である王の執務室前から離れているのか。なぜ、こんなところにいるのか。
首を捻れば、セルジュは「あ」となにかを思い出すように呟いてから、「失礼」と言ってオルガの纏う上着のポケットから一通の手紙を取り出した。そうしてその手紙をオルガの目の高さへと掲げる。
手紙には、王家の紋章の封蝋が施されていた。
「陛下から君に、渡すものがあったそうだ。渡しそびれたから追いかけるよう命を受けた」
「……陛下から、ですか?」
心当たりがなく目を瞬きながらも、心の片隅で見た目には大切な手紙が濡れていないことにほっとする。そんなオルガに、セルジュは補足した。
「正確には、陛下が王太后様から、オルガ嬢に渡すよう頼まれたもの――かな」
その言葉で悟る。脳裏を過るのは、先日、レリオとエリーゼとで話をした内容。つまり。
(これが、王太后様主催のお茶会の招待状)
そしてその招待状の存在が示すことは、オルガがセルジュの婚約者候補となるか否かの品定めを受ける資格を得たということ。
待っていました、とばかりにオルガは不敵に笑む。
「そうだったのですか。ありがとうございます、セルジュ様。確かに受け取りました、と陛下にお伝えください」
礼を述べたオルガ。他方、セルジュはじっとオルガを見つめてから、にやりと口角を上げた。
「一つだけ、君のことがわかった」
「え?」
濡れた黒髪を揺らす。その様子に、セルジュは楽しそうに言葉をつぐ。
「君は案外、逆境に燃える人だ」
言われて、オルガは少し思考した。過去へと思いを馳せて出た答えは肯定。
「確かに、そうみたいです」
つい、笑ってしまった。
髪先から水が滴って、きゅっと絞る。視線はセルジュに向け、笑みを好戦的なものに変える。
「嫌がらせをされたということは、私が王太后様のお茶会に招待されたと城内に拡がっているようですね。――でも、まだまだ甘いです。これくらいでは私、挫けませんよ」
「こんなって……木桶が当たっていたら大怪我したかもしれないんだぞ……。君はなんだか目を離すのが不安になる」
呆れるようにセルジュがぼやき、オルガを急かしはじめる。
「さぁ、馬車まで送るから行こう。これ以上、フィオーレ侯爵令嬢になにかあっては大事だ」
どこか大袈裟に演じつつも、声は心配の色を含んでいる――そんな風に、彼の言葉はオルガの耳に届く。その気持ちがくすぐったくて、オルガは胸を張って見せた。
「セルジュ様に送っていただけるなんて……損して得がとれたわけですね!」
言うと、セルジュは指でオルガの額を弾いた。
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