10. オルガ、再度突撃する(3)
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ジルベールと挨拶を交わして一呼吸。オルガはセルジュの前へと数歩移動して、彼の真正面に立った。見下ろす瑠璃に、自分が映っている。そんな他愛ないことに胸が満たされる。
(感情をあえて排している……という瞳)
目の前にある、整った顔立ちが恐ろしいほどに無表情というわけではない。かといって、友好や敵意も宿っていない。その吸い込まれそうな瞳の奥で、彼はきっとオルガを見極めようとしているのだろう。
それでオルガは構わなかった。今は。
自慢の黒い髪を揺らして、心を込めて微笑む。
「セルジュ様、お慕いしております」
返事はない。もしかしたら、彼は断る為に続く言葉――例えば「交際してください」など――を待っているのかもしれない。だからオルガはあえて彼の無言の求めに応じて、けれど彼の期待を裏切る言葉を紡ぎ出す。
「お返事は、まだいりません」
刹那、少しだけセルジュは目を見開く。一方、オルガの言葉に反応を示した――ただ、それだけのことがオルガは嬉しかった。
脳裏に蘇るのは、先日、作戦会議をした時のレリオとエリーゼの言葉。
『彼を落とすにはオルガの魅力を最大限に発揮するしかないってことだ』
――つまり、他に方法はないから、消去法だけれど”自分らしくあれ”ということ。
『オルガならきっと大丈夫!』
(うん、エリーゼがそう言ってくれるから、少しだけ私は私のことが好きになれる)
あたたまる胸元に手を置いて、セルジュを真っ直ぐ見つめて言葉をつぐ。
「まだ、お互いにお互いのことを深く知りません。……私はとても強欲なので、セルジュ様に私のことを知った上で私のことを受け入れてほしい。そして叶うなら、私はもっとセルジュ様のことを知りたい」
セルジュはオルガの言葉を咀嚼するように、数度目を瞬いた。優しく目を細めて、オルガはゆっくりとした口調で告げる。
「時間はあります。告白が実るのは、お互いにたくさん知った後でいいのです」
それまで口を噤んでいたセルジュは、つい心の声が漏れ出たというように「もし、実らなかったら?」と掠れた呟きを零した。オルガはこれにふふんと胸を張って、にんまり口角を上げる。
「その時はその時、今考えても仕方ありません」
「長期戦、ということか」
セルジュの独り言に、「根競べになりそうね」とジルベールが茶々を入れた。それにオルガは楽しく笑う。
――この時、オルガは時間が有限だとは、言わなかった。
かわりに「私、頑張りますから!」とやる気を示し、手始めとばかりにずっと脇に抱えていた本を顔の横に持ち上げて見せた。
「それではまず、こちらをご覧ください。この本は、私のお気に入りの恋愛小説です」
「……そのようだな。」
セルジュは素直に首肯した。
「わざわざ城の中にまで持ち込んだんだ。なにか理由がある本なんだろう?」
首を傾げる青年に、オルガはうんうんと二度頷く。
「さすがセルジュ様、察しが良い! この本は、私がこれまで読破した恋愛小説の中でも選りすぐりの作品です。私のことをセルジュに知っていただくには、最適な一冊だと見込んで持ってきました」
ただし、こうも褒めちぎってはいるものの、持ち歩けば失くす可能性もあるから、もし無くしたとしてもまた購入できるだろう私物の本でもある。もちろん、今手にしている本も気に入っているから無くすのは嫌だけれど。
少しくたびれた茶色い表紙の本を掲げたまま、オルガは宣言した。
「今から私は、セルジュ様が扉番をしている斜め向かい――廊下を挟んだ壁際で読書します」
「……ほう?」
困惑を見せるセルジュ。他方、ジルベールは面白そうにオルガを眺めている。
「つまりですね、私は立っていても座っていても、場所をあまり問わずに読めてしまうほど、恋愛小説が好きなのです。二度のお食事より恋愛小説です」
「…………ほう、二度とは中途半端だな」
「食事は大切ですから、一日絶食というのもよろしくないかと」
「まぁ、そうだな」
「セルジュ様、もしこの本のことが気になったならば、なんでもお尋ねくださいね。お話から登場人物、作者にいたるまで記憶しておりますから、きっとなんでも答えられます」
本を主張するように自分の顔の前に持ち上げ、ついでにっこりと笑みながら本の横から顔を出す。そんなオルガにセルジュはどうも困惑しているようで、返答が芳しくない。どうやらセルジュはこの本に興味を抱かなかったようだ。残念に思いながら、仕方ないと本をおろし、オルガはこの話題を切り上げることにする。
「以上、本日の自己紹介でした」
セルジュが言葉を返す前に、オルガは窓際の壁へと背をあずけ、言葉通り本を広げた。セルジュやジルベールからの視線を感じるものの、文字を追ううちにそれらも気にならなくなってくる。本を読んでいると、頭の中で登場人物達が動き出し、物語が展開されていくのだ。
「本当に読み始めたわね」
ジルベールが呟く。
「……そうだな。だが、窓辺ではなく壁際にいてくれるのは助かる」
これにジルベールは同意を示す。
「そうね。彼女も貴族の令嬢だから、窓から狙撃でもされたら大変だものね」
近衛騎士達が小さく会話する。その声を、オルガは耳半分に聞きながらも読書を重視して文字を目で追った。
*・・・*・・・*・・・*
開かれた本のページが、傾き始めた太陽の色と影の二色に色づく。落ちた影によって連なる文字が読みにくくなり、共に足腰の疲れを感じ始めていたオルガは本から顔を上げた。
「あら、読書は一時中断?」
廊下の向こう側にいるジルベールが、小さく笑ってからかう。
「目の前を人が通ったり、陛下の部屋を出入りしている人がいたのに、気づいてなかったでしょ。すごい集中力ね」
いっそ感心するように、彼は両眉を上げながら肩を竦めて見せた。
それにオルガは唇だけで笑む。
(純粋な褒め言葉か、牽制か)
思案する。
ジルベールはこう言ったが、扉番としては陛下の執務室に誰が出入りしているのか、四階に出入りする許可を誰が得ているのか知られないにこしたことはない筈だ。オルガがこうして廊下にずっといられたのは、王の許可があってこそ。本来ならば、四階への立ち入り許可があったところで、用が済んだらさっさと立ち退かされる。
オルガはジルベールの言葉の意図を探ろうと、彼の顔色を窺った。けれど、当たり前ながら優秀な近衛騎士は感情を読ませてはくれない。よって、オルガも同様に姿勢を崩すことはなかった。
まだジルベールとの距離を測りかねている、というのが本音だ。しかしいつまでもそうしていたって仕方がないし、むしろ警戒心を抱かれるだけだろう――そう判じたオルガは、この無意味な緊張感を無理に破ることにする。つまり、オルガは「あ!」となにか思いついたように表情を崩し、ジルベールから視線を逸らしてドレスのポケットに入れていた懐中時計を取り出したのだ。実際に、時間が気になっていたというのもある。
時計の蓋を開けてみれば、針は予想よりも進んでいた。
(十五時……)
窓へ目をやり空を見上げる。まだ青いけれど、差し込む光は黄みを帯びつつある。ここから太陽が赤く染まっていくのはあっという間だろう。
そう判断し、本を閉じる。それから姿勢を正して、セルジュとジルベールに一礼した。
「本日はこれにて失礼致します。ご迷惑をおかけしました。――そして、これからもよろしくお願い申し上げます」
別れの挨拶に、ジルベールが小首を傾げる。
「あら、もう帰るの? あと一時間で休憩だから、一緒にお茶でもと思ってたんだけど」
その誘いに、オルガは苦笑を零した。一体どこまで本音なのか、彼の言動はやはりわからない。続いてセルジュへと視線を向ければ、彼も僅かに不思議そうな顔をしてオルガを見ていた。それこそオルガは不思議に思ったけれど、考えてみれば告白の答えを先延ばしにしてまで粘るオルガだから、彼は休憩まで居座ると予想していたのかもしれない。
――本当は、そうしたいけれど。
「お誘い、ありがとうございます。ですが、帰りますね」
「……確かに、暗くなると治安も悪くなりやすいから、明るいうちに帰るにこしたことはない」
生真面目に頷くセルジュの言葉は最もで、ジルベールも「そうね」と納得を見せた。
そうしてオルガが踵を返そうとした時、セルジュがオルガを呼び止める。それにオルガは半身を向けて、「はい?」と返答した。
「収穫は、あったか?」
少しだけ、言葉遊びをするような声色。瑠璃色の瞳には、オルガに対しての興味が少しだけ宿っている。ただその興味は、恋情といったものではなさそうだが。――でも、今のオルガにはそれで充分。
ゆえに、満面の笑みで明るく答えた。
「はい! セルジュ様は、職務に対し真面目に取り組む方だとわかりました!」
すると、セルジュは鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情を浮かべる。新たに見ることができた表情に、ついふふ、と笑声が零れてしまう。
「どんなに本が好きな人でも、始終集中して読み続けるのは難しいです。俯いたままの首も、小さな文字を追う目も、本を支える手も疲れますから。ですから、合間合間にセルジュ様をちらりと盗み見ることで、心身を癒していたのです」
――なんて一石二鳥。
そういわんばかりにふふん、と強気に笑ってみせる。それに答えたのはジルベールだった。彼は腰に手をあて、神妙ぶって重く頷く。
「真面目なのはその通りね。真面目を通り越して、堅物すぎるところもあったりね」
「そうかもしれませんね」
オルガも同調した。セルジュは不服そうに眉根を寄せたが、オルガは前言撤回するつもりはない。今日見たセルジュは、本当にジルベールの言葉そのままだったから。
思い出す、たった三時間前から今までのセルジュの姿。まず、立ちっぱなしなのに姿勢を崩さないことに驚いた。人が来ない時間にあくびを一度もしなかったことにも。
さらに、常に周囲の気配に敏感で、彼からすれば闖入者ともいえるオルガをも守る対象と捉えていたように思う。どんなに親しい間柄の人物に対しても、なあなあの関係で見逃すことをしない。陛下からの面会許可を得ているのか、面会相手にはしっかり記録用紙に名前を記入してもらう。近衛騎士として当たり前のことだが、これらの仕事は”近衛騎士”であることに誇りがなければ少しずつ手を抜いてしまうことでもある。
オルガはセルジュの姿を尊敬した。一方で、いつも気を張っていることで潰れてほしくないとも思う。だから、失礼だと自覚しながら苦言を呈する。
「セルジュ様が職務を全うする姿は、心から素晴らしいものだと思います。でも、いつも気を張り詰めて全力で挑むのではなく、肩の力をほんの少し抜くことも必要かもしれません」
オルガの観察結果は、セルジュにとって思いもしないものだったのだろう。ジルベールはにやにやと目元を和ませ、セルジュは瞠目していた。
セルジュの今日、何度目かの驚く姿に微笑みが零れる。彼はきっと、知らないのだろう。オルガが以前から彼のことを知っていたこと。
恐らく、昨日今日セルジュを知っただけでは、オルガもそこまで気づかなかったかもしれない。
けれど――過去、終業後に剣を振り、己を鍛える姿を何度も見た。どこで、なぜ見たのか言えないから、ずっと見つめてきたことをセルジュに伝えることはできないが。
だからお道化るように、無理だとわかっている言葉を紡ぐ。
「息抜きになればと、本当は差し入れをしたかったのですが……」
「まだあなたのことを信頼しきるほどの材料がないから、無理でしょうね」
悪役を買って出てくれたジルベールに、オルガは苦く笑う。
「でも、非番の日に差し入れるくらいならいいんじゃない?」
続く言葉に、オルガは驚きを露わにした。
「えっ!?」
「仕事の日は、眠らされたり下剤を仕込まれたりしたら仕事ができなくなってしまうけれど、非番の日なら薬を飲んで寝ていればなんとかなるでしょうし。それに、オルガ嬢が近衛騎士兼公爵令息を毒殺するほどのお馬鹿さんとも思っていないわ。――それくらいの信用はしているから」
「ジルベール様……っ」
身体をジルベールへ向け、本を脇に挟みつつ両手を胸の前で組む。視界は感動の涙のせいか、歪んで見えた。ついで、セルジュへと方向転換する。
「セルジュ様っ!!」
視線の先で、セルジュは顔を引き攣らせた。
「……君は涙を浮かべてまで、何をそんなに私に食べさせたいんだ……」
彼からすれば、よく知らない令嬢からの差し入れ。警戒するのも無理はない。わかっているから、少し唇を尖らせて拗ねたふりをしながらも「変なものではありませんよ。疲れを癒す甘いものです」と反駁した。それからすぐに、悪戯が成功した子どものように言葉をつぐ。
「――お好きでしょう? 甘いもの」
「――え?」
目を丸くしたセルジュに心満たされて、オルガは優美に唇に弧を描き、今度こそドレスの裾を翻した。
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