プロローグ
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桃色や淡い紫に染まった雲の隙間から、水色の空が見える時刻。太陽は地平へと近づき、邸の一室――執務室――を薄暗くした。世界はこうして段々と夜の帳に包まれていく。その闇を打ち払うように、照明に火が灯された。たちまち部屋は昼間のような明るさを取り戻した。
「そんなしかめっ面しないでよ、警戒されているみたいで悲しくなるじゃないか。友人なのに」
優雅にソファで足を組んでいる青年がそんな軽口を零す。けれど「悲しくなる」と言った彼の顔には苦味など欠片も浮かんでおらず、オルガの反応を楽しむように口元が緩んでいた。
「友人ではなくて悪友でしょ。……貴方が私に用がある時は、決まってろくでもない頼み事だもの。しかめっ面の一つや二つ我慢してほしいわ」
手振りで勧められたソファへと座りながら、オルガは苦々しく口尻を下げる。そんな彼女の脳裏を駆け巡ったのは、過去、彼からろくでもない頼まれ事をした日々だった。本当に――本当に散々な目にあってきたものだ、主にオルガが。
「そうだったかな? 記憶にないなぁ」
白々しくも満面の笑みで言いきった青年にオルガは黙っていられなかった。ゆえに、眉間に皴を寄せて、酷い目にあった具体例を暗唱する。
「昔、雪合戦をした時に貴方はおじ様めがけて雪玉を投げたわ。しかも、中に馬糞を仕込んで。その時、なぜか私もこっぴどく叱られた。私は貴方が雪合戦という名目でおじ様に雪玉をぶつけようと目論んでいるなんて知らなかったし、私自身はおじ様を狙っても馬糞入りの雪玉を投げてもいなかったのに」
「ちょっと投げる時に腕を痛めて、投げる方向を誤っただけなのにね。怒るなんて酷いよね、父上」
「……よく言うわ。すべて計算していたくせに」
ぽつりと反駁すれば、青年は可愛い子ぶるように小首を傾げた。大きな黒い瞳と、動作によって揺れたアッシュグレイの髪は彼を幼く見せ、見る人によっては庇護欲を誘われるだろう。だが、なまじ付き合いの長いオルガにとっては、むしろその仕草こそが癇に障る。彼がこれまで容姿を最大限に活かして要領よく生きてきたことを知っているから余計に。また、そのせいで自分が貧乏くじを引くはめになったことが幾度もあったから。
「大人の男がやっても可愛くないわ」
吐き捨てる。対して青年は、「ほんと、オルガってオルガだよね」と嬉しそうに目元を和ませた。
その反応に、オルガは馬耳東風を悟ってがっくりと頭を垂れる。これ以上話していてもきっと埒が明かないだろう。過去の経験からその結論が導き出された。
(こんな不毛なやり取りをしていても、無駄に時間ばかりが過ぎていくわ)
ちらりと窓へと視線を向ける。刻一刻と窓の外は夜に近づいていく。――オルガの苦手な夜が。
そう思い至れば、いつまでも青年に付き合ってはいられない。だから本題に繋がるよう話題の転換に踏み切った。
「で、なんの用なの? 私、早く帰って借りた本を読みたいのだけど」
言いながら、オルガはわざと見せつけるように膝の上に置いた本の頁をパラパラと捲った。「早く早く」と言外に急かす訴えである。言葉では負けるし長丁場になるから、作戦を変えてみたのだ。
ちなみに「早く帰って借りた本を読みたい」という言葉に嘘はない。先刻別れた親友からお薦めだと渡された恋愛小説を、せっかくだから利用させてもらっただけだ。
捲っていた頁が最後の一頁に到達し、ぱたりと本を閉じる。程よく渋い茶色の表紙が気に入って、指を走らせた。金色の題名が並ぶこの中に、親友が薦める珠玉の物語が秘められていると思うときらきらと輝いて見えるから不思議だ。
思い起こせば、オルガは幼い頃から恋愛物語が好きだった。片手で数えられるくらいの歳には、三つの首を持つ怪物の生贄となった娘を英雄が救いにくる童話を、思春期を迎えてからは氷の檻に囚われたお姫様を白馬の王子様が迎えに来る、――心理描写が細かく描かれた――恋愛小説をこよなく愛するようになった。それくらいに、この趣味は年季が入っていた。
早く読みたくて堪らない。この疼く知的好奇心には逆らえないから、帰りの馬車で読み始めてしまおう。――そう決めていたのに、帰り際、この邸の当主である青年に呼び止められてしまった。
「さっさと用件を言って」とさらに急かそうと、青年へと睨むことで意思表示する。するとオルガの視線の先で、青年はわざとらしく「せっかく会話を楽しんでいたのに」と残念そうに肩を竦めた。本当に面倒くさい男である。
呆れたオルガに、ようやっと青年は本題に切り出した。
「オルガ、君、今好きな男がいるだろう?」
「っ!?」と思わず声なき驚愕を露わにしたオルガだったが、なんとか気持ちを立て直して平静を装う。この悪友には、出来る限り知られなくなかった。その動揺から、オルガは密かに深呼吸するという癖――心を安定させようとする時に出る――を繰り返してしまう。瞬間、目の前の青年の瞳に鋭い光が過ぎった――気がした。
(……気づかれたかしら)
誤魔化そうと俯いてから、こっそり上目で青年を覗き見る。
(あ、駄目だわ、これ。完全に気づかれてる)
オルガは失敗を自覚して、俯いたまま顔を逸らしてから横目で彼を見やった。ついで、苦し紛れにぽつりと呟く。
「……もしかしたら男性ではなく、女性が好きかもしれないじゃない」
言ってから即時に後悔した。この言葉は咄嗟の言い訳にしてもあんまり過ぎる。ゆえに内心苦虫を噛みしめて、これ以上墓穴を掘らないように口を噤んだ。
青年はくすくすと笑声を零すと、やがて獲物を狙うようにオルガを見据えた。びくりとオルガが身体を震わせたにも拘わらず、彼は容赦なくオルガに止どめを刺す。
「相手はカゼラート公爵嫡男セルジュ、二十三歳。――王城で陛下の近衛騎士として仕えているね」
当たりだ。しかも、その口調は言い逃れを許さないもの。図星を突かれたオルガは二の句が継げなかった。
(……なんでこんなことに)
現実逃避とばかりに考えてみれば、彼はいつだって勝負事で敵になった時、性別年齢問わず相手に容赦がなかったことを思い出す。そんなことはずっと前から知っていた。けれど遊戯を除いて、オルガはこれまで彼とはほとんどの場面で味方という立場だった。だから、身をもって実感したことは一度もなかった。
(立場が尋問する側とされる側になっただけで、彼がこんなにもおっかない存在になるなんて……)
これまで彼が敵にまわった時のことを欠片も考えたことがなかったのは、身内に対するオルガの甘さでもある。
(……油断、したわ)
――どうせ今回の用件も、悪戯まがいのことだと思ったのに。
救いは、別に青年とオルガが敵になったわけではなく、ただこの問答において立場が相反していただけということだろうか。
オルガが降参を示して溜息を吐き、顔を上げる。すると青年は勝利を確信したように相好を崩した。その様子に、オルガは少しだけ面白くない。
「――君は、嘘が下手になったね」
そう言葉にした彼は嬉しそうだ。彼の黒瞳に親愛の色を見つけて、一気にオルガは毒気を抜かれてしまう。だから、「……貴方達と出逢ったからよ」と告げて、照れ隠しに口を直線に結んだ。
また青年がくすりと笑う。それは先ほどのような、楽しそうなものではない。そんな青年を訝り見つめるオルガに、彼はゆっくりと言葉を紡いだ。
「そんな君だから――時間を設けようと思って」
「……時間?」
首を傾げるオルガ。この会話の流れから、”時間を設ける”という言葉に繋がらなかった。確かにオルガは好きな人ができた。このことは青年にとってあまり良い出来事ではないだろう。けれどそれは、彼がオルガに恋をしているからではない。そうではないが、都合の悪い理由が二人にはあった。よって、オルガは恋に落ちたことを悪友である彼にも、本を貸してくれた親友にも、誰にも話さなかったのだ。心に秘めたまま想うだけの恋で構わなかった。
困惑するオルガに、青年は眉尻を下げて微笑む。その笑みは一見苦笑のようでいて、奥には木漏れ日のような優しさが含まれているように見えた。彼の薄い唇から、言葉が紡がれる。
「まだ時間はあるから大丈夫って、彼女が言うんだ。陛下にも話を通してある。だから、愛を告白する時間をあげるよ。頑張ってごらん」
言葉を失い瞠目するオルガの視線の先で、青年は微笑を浮かべた。
「君の幸せを、祈っているから」
そして、彼から期限が告げられたのだった。
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