モモの決心
曇り空の夜。
月は分厚い雲に覆い隠されている。
さほど大きくない貴族の屋敷。
その屋根に2人の人物がいた。
一人は小柄な少女。
モモだ。
もう一人はクロネコ。
彼女の教育係だ。
「俺はここで待機している」
「はい」
「侵入経路も殺し方も、逃走経路もお前に任せる」
「わかりました」
それだけ告げると、クロネコは煙突の影に身を寄せる。
影に潜んだクロネコは、気配の薄さも相まってこの場にいないと錯覚しそうになる。
モモはこくりと唾を飲み込んだ。
ここからは一人でやらねばならない。
普段よりも緊張の色を見せるモモに、しかしクロネコは言葉をかけない。
これは彼女の仕事だ。
初めからクロネコのフォローを期待していいものではない。
モモは一度深呼吸をすると、屋根の縁に手をかけて真下の窓枠へ飛び降りた。
そのまま静かに窓から屋内へと侵入する。
室内を見回す。
誰もいない。
大きな書棚とデスクがある。
仕事部屋だろう。
夜も更けたこの時間、この部屋に誰もいないことは確認済みだ。
モモは壁に近づくと、その壁に耳を当てた。
「……」
隣の部屋から話し声が聞こえる。
暗殺対象の貴族、その妻、そして幼い少年がいるであろう寝室だ。
モモはゆっくりと呼吸をしながら、扉を開けて廊下に出る。
隣の部屋はすぐそこだ。
周囲を見回す。
当たり前だが暗い。
誰もいない。
自分の心臓の音が、どくんどくんと彼女の耳に届く。
前回と異なり、今回は絶対に失敗できないというプレッシャーが彼女に緊張を強いている。
普段よりも手足の動きが重い気がする。
モモは首を振った。
こんなことではいけない。
感情のコントロールの重要性は、師匠にも散々教えられたことだ。
モモはもう一度深呼吸をした。
足音を忍ばせて廊下を歩き、隣の部屋の前まで到達する。
ギ、と僅かに廊下の床が軋み音を立てて、彼女の心臓が跳ね上がった。
「……」
冷や汗が頬を伝う。
大丈夫。
気づかれてはいない。
モモは扉に耳を当てる。
話し声が聞こえる。
何の問題もない。
いける。
ドアノブに手をかける。
ここからは時間との勝負だ。
一気に決めよう。
モモは扉を開け放った。
すぐさま寝室に飛び込む。
「な……!」
「だ、誰……!?」
寝室には3人いた。
貴族、その妻、そして幼い少年。
予定通りだ。
貴族と妻が、驚きと恐怖の混ざった視線を向けてくる。
だが、視線だけだ。
何の障害にもならない。
「ふっ」
モモは一息に距離を詰めると、貴族の胸にナイフを突き刺した。
「がは……!?」
貴族は仰向けに倒れて、そのまま絶命した。
モモは間髪入れずに妻へと向き直る。
「き――」
妻は悲鳴を上げようとしたが、それは叶わなかった。
モモが続けざまに振るったナイフが、妻の喉を切り裂いたからだ。
妻は床にうつ伏せに倒れ、息絶えた。
モモは最後に、幼い少年へと振り返る。
ナイフを振り上げ――。
そこでモモは違和感に気づいた。
幼い少年は悲鳴一つ上げていない。
それどころか、表情に恐怖の色さえない。
「……」
目の前で両親が殺されたのに。
ナイフを持った殺人鬼が、今まさに少年の命も奪おうとしているのに。
幼い少年は、ただぼんやりとモモを見上げているだけだ。
どういうことだろう。
モモの胸中に疑問が湧く。
しかしこれは幸運でもある。
対象が無抵抗であるならば、後はただナイフを振り下ろすだけだ。
モモはナイフの柄を握る手に、力を込めた。
手のひらにじんわりと汗が滲む。
モモは浅く呼吸をする。
大丈夫。
大丈夫だ。
今度こそ殺せる。
私は師匠の期待に応えるんだ――。
「おねえちゃんも、ぼくに痛いことをするの?」
モモは動きを止めた。
幼い少年の放った一言は、彼女の手足を完全に凍りつかせた。
モモは気づいてしまった。
いや、最初から気づいてはいたが見ないふりをしていたのだ。
ぼんやりと自分を見上げる幼い少年。
その袖口から覗く手首には、青あざが見え隠れしている。
よく見れば寝間着から覗く首元にも、そして足首にも、何かに殴打されたような痕がある。
それに――なぜこの幼い少年は、こんなにも痩せているのか。
頬骨が浮いており、手足は細く、肌も青白い。
栄養が足りていないことは明白だ。
「……」
モモは吐き気を覚えた。
つまり、そうなのだろう。
この幼い少年は、両親から虐待を受けていたのだ。
満足な食事を与えられず、おそらくは躾と称して暴力を受ける日々。
それが日常だったからこそ、モモのナイフを見ても、この少年は怯える様子を見せないのだ。
痛いのが当たり前だから。
そんな日々を過ごしてきたから、痛みを受けることを当然として認識しているのだ。
モモは怒りを覚えた。
子を虐待するなど、親のすることではない。
そんなの言葉にするまでもない、当たり前のことだ。
だがその怒りの対象は、他ならぬモモの手によってすでに絶命している。
だからこの子は、もう大丈夫だ。
「……」
いや、考え方がおかしい。
自分は今からこの子を殺すのだ。
大丈夫かそうでないかなど、それこそどうでもいいことのはずだ。
モモは幼い少年を見下ろした。
目が合う。
少年は、虚ろな瞳でモモを見上げていた。
何かを諦めきったような、淀んだ色の瞳だ。
殺さねばならない。
なぜならこれは仕事であり、何より師匠の期待に応えないといけないから。
でも。
でも――。
この子は虐待されて育ってきた。
自覚はなくてもずっと不幸だったはずだ。
子とは本来、守られるべき存在。
健やかに育ち、未来に希望を持っていなければならない存在だ。
この子には幸せになる権利がある。
これまで不幸だった分、一層そうならねばならない。
「……」
ようやく不幸を脱しようとしているこの子を――殺す?
自分が?
冷たい刃を心臓に突き刺し、不幸を背負い続けてきたこの子の人生を、不幸なまま終わらせる?
自分が?
元を正せば孤児院を、子供たちを助けるためにお金を稼いでいる自分が。
不幸な子供たちを助けるために働いている自分が、不幸なこの子を殺す?
子を、殺す……?
「おねえちゃん……?」
幼い少年が、首を傾げる。
モモの様子を不思議に思ったのだ。
モモは息を吐き出した。
細く、長く、吐き出した。
ナイフを鞘に収める。
そして幼い少年の身体を、ぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫。何も心配いらないよ」
モモの身体は震えていた。
彼女の目に、自然と少年の首筋が目に入る。
いくつもの青あざが残るその白い身体。
こんな子が、不幸のまま終わっていいはずがない。
この子は幸せにならねばならない。
不幸には対価が必要だ。
今までの人生が不幸だったのならば、それと同じ分だけ、幸せが待っていなければならない。
「おねえちゃん……?」
「心配しないで。私が必ず助けてあげる」
「……? うん」
幼い少年には意味がわからなかっただろうが、それでもモモの言葉に素直に頷いた。
このお姉ちゃんは、少なくとも自分に痛いことはしないだろうと理解した。
それに、誰かに抱き締めてもらうなど、少年にとっては初めての経験だった。
理由はわからないが、胸の奥がじんわりと暖かい。
幼い少年の目から、知らず一筋の涙が伝った。
「……」
モモは決意した。
この子を助ける。
師匠の意には反するし、もしバレたら期待も裏切ることになる。
きっと師匠は失望するだろう。
もしかすると師匠は、彼女の教育係を辞めてしまうかもしれない。
でも、それでも。
自分はこの子を助ける。
ずっと不幸を背負ってきたこの子は、これから幸せにならないといけないんだ。
モモは覚悟を決めた。
ならば後は行動に移すだけだ。
即断即決は師匠の教えだ。
決めたのならば速やかに行動を開始せねばならない。
「ね、一つ教えてくれる?」
「なに?」
「この屋敷に、地下室はない? 床下収納でもいい」
「……そこに行けばいいの?」
「ええ」
少年は緩慢な動作で立ち上がると、モモの袖を摘んだ。
「……こっち」
「ありがとう。いい子ね」
幼い少年は、モモに褒められて嬉しそうにした。
少年の誘導で、モモは廊下に出た。
2階から1階へと降りる。
この屋敷の使用人は、日が出ている時間だけの勤務だ。
だから夜間は誰もいなくなる。
「……ここ」
1階の廊下の先に、地下室への階段があった。
恐らく食料庫になっているのだろう。
おあつらえ向きだ。
「おねえちゃん、足元に気をつけて」
「大丈夫。何といっても私はあんさ……こほんっ、泥棒なんだから」
「……おねえちゃんは泥棒なの?」
「うん。きみを助けにきたんだよ」
モモが冗談めかして言うと、幼い少年はくすっと笑った。
ぎこちない笑みではあったが、少年が笑顔になったという事実がモモには嬉しかった。
地下室は予想通り、食料庫だった。
ここなら申し分ない。
モモは身を屈めて、幼い少年と目線を合わせた。
「いい? きみは明日までここから出ちゃだめ」
「……なんで?」
「出たら殺されちゃうから」
「……うん、わかった」
少年は完全には理解していないようだったが、モモの真剣な表情を見て、こくんと頷いた。
「明日になったら私が迎えに来るから、そうしたらここから逃げて」
「どこに逃げるの?」
「ちゃんと準備しておくから大丈夫」
「……うん」
どこか不安そうな少年の頭を、モモはゆっくりと撫でた。
「安心して。私が必ず助けてあげるから」
「うん」
素直に頷く少年に、いい子だねと微笑んでから、モモは地下室から出る。
最後に振り返って小さく手を振ると、少年も同じように手を振り返してきた。
1階への階段を上りながら、モモは思考する。
幸い師匠は、屋敷の外で待機している。
さすがの師匠といえども、屋外からでは屋内の気配を完全には感じ取れまい。
つまり今夜ここで起きたことは、まだ師匠にはバレていない。
そして仕事を終えてギルドへの報告を済ませれば、そこからは師匠と別行動だ。
そうなれば改めてこの屋敷へ戻り、あの子をこっそり逃がすことができる。
後は自分の演技力次第だ。
師匠に違和感を覚えさせず、何事もなくこの屋敷から撤退させねばならない。
尊敬する師匠に嘘をつくことの罪悪感はある。
だが自分はあの子を助けると決めた。
一度決めたのならば、躊躇してはいけない。
モモはぎゅっと拳を握り締めた。
そして2階に戻ると、窓から脱出した。




