先読み令嬢は損切りする 〜「婚約を解消したい」?…すでに解消されていますけど?〜
「……この場をもって、きみとの婚約を解消する!」
昼休み前の教室に、エイベルの声がよく響いた。
どっと視線が集まる。ざわめき、息を飲む音。私――マリアンヌ・ルーベンスは、ゆっくり顔を上げた。
「マリアンヌ。きみは……完璧すぎる」
窓からの光の向こうで、エイベル・ハワード伯爵家次男は、妙に気負った顔をしていた。
「礼儀作法も成績も舞踊も、常に一番で。立ち居振る舞いも完璧で、隙がない。……きみはそれでいいのかもしれないが、傍に立つ男は、息が詰まる」
教室のあちこちで、ひそひそ声が上がるのが聞こえる。
「俺は、もっと……頼られたいんだ。俺がいないと困るって、まっすぐ言ってもらいたい。傷ついた時には泣き顔を見せてくれるような、守りたくなる女性と添い遂げたいんだ」
そこまで一気にまくしたててから、彼は少しだけ目を伏せる。
「きみは何でも一人でできてしまう。相談もしてこないし、弱さも見せない。……そんな相手の隣に立つのは、男としては、正直つらい」
なるほど。うっすらと、事情が見えてくる。
「……そうですか」
私は静かに立ち上がり、スカートの端を摘んで一礼した。
「承知いたしました。――と言いたいところですが、エイベル様。…この婚約はすでに、解消されていますわ」
「…………は?」
教室が、しん、と静まり返る。
エイベルの間の抜けた声が、やけに鮮明に聞こえた。
*****
少し前のことを思い出す。
最初に違和感を覚えたのは、期末試験前の放課後だった。
いつものように図書室で勉強会をする約束をしていたのに、エイベルは慌てたように駆け込んできて、息を切らしながら告げた。
『悪い、今日の勉強会、行けそうにない』
『何か急用ですの?』
『セレスティナ……聖女様がお困りでね。授業についていけないところがあるらしくて。俺がノートを見せてやらないと』
そのとき、私は一度だけ、「では、私もご一緒いたしますわ」と申し出てみた。
聖女セレスティナ嬢。編入してきたばかりの男爵令嬢で、何かと注目の的だ。共に勉学に励むのは、悪い話ではない。
だがエイベルは、気まずそうに目を逸らした。
『いや、その……きみが来ると、あの子、緊張するだろう? きみは何でもできるから、余計に』
その言葉に、胸の中で小さく何かが引っかかったのを覚えている。
その次は、夜会だ。
本来なら、公爵家と伯爵家が一緒に出席し、周囲に両家の結びつきを印象づける場。
けれど当日エイベルは迎えに来ず、例の令嬢の護衛をしていた。"慣れない社交に戸惑う聖女のそばを離れぬよう命じられた"と本人はいうが、婚約者のエスコートを無断ですっぽかしていい理由にはならない。
私は聖女にうつつを抜かす婚約者の様子を見ながら、グラスの中の水をゆらりと揺らした。
私との婚約は、両家の将来を見据えて整えられたものだ。恋愛感情があったわけではないが、エイベルは聡く、努力家で、話も合う。悪くない相手だと思っていた。
だから、一度、きちんと話し合いを試みた。
『最近、私よりも聖女様を優先なさっているように見えますが』
『誤解だよ。きみは一人でも平気だろう? 公爵令嬢として、礼儀も立ち居振る舞いも完璧で……俺が口を出すまでもない』
『平気かどうかと、婚約者としてどう扱うかは別の話ですわ』
そう告げると、彼はあからさまに困った顔をした。
『……きみは、何でも論理で話す』
『公爵家の跡取りとして、それは当然ですわ。』
『ほら、そういうところだよ。もっと、素直に甘えてくれればいいのに。セレスティナなら、こんなことはないのに…』
その名を口にした瞬間、私はすっとエイベルから視線を外した。侮辱でも怒りでもない。ただ、胸の奥で何かが“音もなく”切れたのを感じた。
――あなたはもう、私の隣に立つ準備ができていない。
そう理解するのに、感情は一切いらなかった。
その晩、公爵家の執務室で父の向かいに座りながら、私は淡々と事実を並べた。
『エイベル様は、自分の感情を優先して婚約者を後回しにしています。伯爵家がこの婚約をどのような意図で結んだか、ご自分の立場がどう変わるか、その重みを理解していないように見受けられますわ』
『……お前は、どうしたい』
『公爵家の跡取りとしては、このまま婚約を続けるのは得策ではありません。令嬢としては……自分を軽く扱う方に、これ以上心を使うのは、少しもったいないと思います』
父は少しだけ目を細め、それから静かに頷いた。
『よく分かった。ハワード伯爵には、私から話をしよう』
伯爵からの返書は早かった。
「こちらの不徳が原因であり、公爵家に責任はない」という丁寧な文面と共に、婚約解消は正式に成立した。
伯爵がどれほど息子に失望し、どれほど謝罪したかを思うと、少しだけ罪悪感を感じる。伯爵が、エイベルの将来を案じてこの縁談を持ち込んだのだと知っていたから。
その親心を、彼が一つも理解していなかったことだけが、少しだけ胸に刺さった。
*****
そんな経緯を挟んで、今に至る。
目の前で口をぱくぱくさせているエイベルに向き直り、私は穏やかな声で言った。
「勘違いなさっているようですが、エイベル様。そもそも、貴族同士の婚約は“恋物語の続き”ではありませんの」
教室の空気が、すっと張りつめる。
「家同士で責任を分け合い、互いの将来を支えるための約束です。貴方と私の婚約もそうでした。私は公爵家の跡取りで、あなたは伯爵家の次男。
――どちらが選ぶ側で、どちらが“お願いして”婚約者としての席を得たのか。それは、貴方のご両親が一番よくご存じですわ」
言葉は柔らかく。だが、ぼかさない。
「伯爵閣下は、この縁を苦労して勝ち取りました。貴方の将来が開けるように、と。……しかし、私は政略であっても、互いによい形になると信じておりましたのよ」
私が残念そうに目を伏せると、エイベルの喉がわずかに動いた。
「君は……そんなふうに……」
「貴方はそれを、自分の“好き”という感情一つで投げ捨てた。貴族の身分制度も、家同士の約定も理解せず、自分の胸の高鳴りだけを最優先した」
それは、恋ではなく、ただのわがままだ。だから私は「先読み」した。将来のため、何を損切りすべきか。
「公爵家は、あなたが公爵家の跡取りである私よりも他の令嬢を優先した段階で、判断を下しました。…この政略結婚において伯爵家は、公爵家に対していかに有用であるかを示さなければならなかった。取引において、信用というのは何においても大事なもの。それは政略結婚においても同じ。それをあなたは見誤った。」
「そ、そんな……勝手に決めるなんて……!」
「勝手ではありませんわ。私たちは話し合いもしたでしょう? そのうえで決めたのです」
図書室で、夜会で、何度も私は問いかけた。
けれどエイベルは「大丈夫」「きみは平気だろう」と言い続けた。
――私が確かめたかったのは、恋心ではなく“家の責任を担う覚悟”だった。
だがエイベルは一度としてそこに触れなかった。私の問いは、最初から彼には届いていなかったのだ。だから、公爵家が結論に踏み切ったのは必然だった。
「これ以上この婚約を続けるのは、双方にとって損失。貴方にとっても、今ここで“自由な身”になった方が、思う存分“守りたい人”を追いかけられるでしょう?」
それは本心だ。
私のそばに残る気がない相手を無理に縛っておいても、誰も幸せにはなれない。
「……」
エイベルは何か言いたげに口を開いて、結局、閉じた。
もう、言葉は届かないのかもしれない。それでいい。説教がしたいわけではない。私は小さく息を吸い、最後の一言を紡いだ。
「――というわけで、エイベル様。私は本日をもって、“元婚約者”として、貴方の今後のご健勝をお祈り申し上げます」
丁寧に礼をすると、どこからともなく小さな拍手が起こり、それが徐々に広がっていった。
それを背に受けながら、私は教室を後にした。
*****
さて、その後のことを、少しだけ記録しておこう。
まず、エイベルは伯爵家で徹底的に絞られた。
父である伯爵は婚約解消の手続きをした後、領地から王都まではるばる遠征してエイベルにゲンコツをくらわせた。
『お前の人生にこれ以上ないほどの“保険”をかけてやったつもりだったのだぞ!?』
公爵家との縁。公爵令嬢という強力な伴侶。商会の信用は跳ね上がり、どれほど仕事の幅が広がったことか。
それらを「癒しが欲しい」の一言で棒に振った息子に、父親はしばらく口もきかなかったらしい。
またしばらくして、学園にはまたゴシップが流れ始めた。エイベルは、セレスティナ嬢へ高価なブローチを贈ったらしい。
特定の地域でしか採掘されない希少な宝石のブローチ。普通の貴族にはまず手に入らない品だが、伯爵家の商会の伝手を総動員し、どうにか入手したのだという。
そこまでは、いい。
問題は、その後だ。
ある夜会の席。私も遠くから眺めていたが――王太子殿下の胸元に、そのブローチが輝いていた。
隣には、少し緊張した面持ちのセレスティナ嬢。
後で耳にした話によれば、彼女はこんなふうに説明したらしい。
『このブローチ、とある方が融通してくださったんです。殿下にお似合いだと思いまして、ぜひお受け取りください』
もちろん、その“とある方”は黙っていられなかった。
後日、人気の少ない回廊で、エイベルはセレスティナ嬢を呼び止めた。
『どういうことだ、あのブローチは……俺は、君に――』
『やめてください、エイベル様』
振り返った彼女の声は、驚くほど冷たかったという。
『あれは、私が殿下にお渡ししたものです。エイベル様のご厚意を、国のために役立てただけのこと』
『だからって、俺の知らないところで――』
『“俺の”“俺が”……エイベル様はいつもそればかり。私に何か言う前に、自分の立場をお考えになっては?』
そこへ、たまたま通りかかった別の生徒たちが加わる。
『どうしたんだ、セレスティナ嬢』
『何か困っているのか?』
セレスティナ嬢は、少しだけ目を伏せ、唇を震わせた。
『いえ……少し、しつこくされているだけですわ。悪気はないのだと思いますけれど……』
あの場にいた誰かが、その光景をそっくりそのまま噂として広めた。
――聖女にしつこくつきまとう伯爵家次男。
たった一つ、ラベルが貼られるだけで、人の見え方は簡単に変わる。特に、“公爵令嬢の婚約者”という肩書きを失った後では。
伯爵家の商会は、公爵家との縁を失い、聖女絡みの騒ぎで信用を落とし、その穴埋めに奔走していると聞く。
当の彼は、しばらく夜会にも顔を出していないらしい。
その後、セレスティナ嬢の周りでも、別の問題が起きた。
彼女はエイベル以外にも、子爵家、侯爵家の嫡男など、複数の男性に“希望”を持たせていた。
誰にもはっきりとした言質は与えない。だが、誰も完全には否定しない。
そんな綱渡りが、長く続くはずがない。
ある日、ついに一人の男が我慢の限界を迎えた。
『俺との約束はどうなる? 殿下に笑いかける君を見るのは、もう嫌だ』
別の男も声を荒げる。
『ふざけるな、彼女がいつそんな約束をした? 聖女様を困らせるな』
聖女を巡る争いは、瞬く間に学園中の騒ぎになった。複数の男たちが感情をぶつけ合ううち、問題はすでに「恋のもつれ」ではなく、学園の治安問題へと発展していった。
セレスティナ嬢は、泣きながら何度も首を振ったらしい。
『こんなつもりじゃなかったんです……ただ、皆さんと仲良くなりたくて……』
だが、どれだけ涙を流しても、事実は事実だ。
複数の男の感情を焚きつけて競わせ、その結果、学園の秩序が乱れた。
王宮としても、学園としても、“聖女”の肩書きに甘い顔をし続けるわけにはいかなかった。
セレスティナ嬢は「体調不良による自発的退学」という建前で姿を消した。
*****
「マリアンヌ、少し時間はある?」
放課後の生徒会室。書類整理をしていると、扉の向こうから声がした。
振り向けば、この学園の生徒会長にして、この国の第三王子――マクシミリアン殿下が立っていた。
穏やかな笑みと、何かを見透かすような瞳。
「殿下。もちろんですわ」
「じゃあ、少し散歩しようか。机の上の話ばかりだと、気が詰まるだろう?」
誘われるまま、人気の少ない中庭へ出る。
秋の光が芝生を撫で、木陰には誰もいない。ちょうど、込み入った話をするのに良い場所だ。
「婚約解消になったと聞いた」
ベンチに並んで腰掛けると、殿下はあっさりと切り込んできた。
「……やはり耳が早いですね、さすが殿下ですわ」
「情報は早い者勝ちだからね。君が教室で見事な切り返しをしたという噂も、もう王宮まで届いている」
「それは……少し恥ずかしいですわね」
本音だ。あれは、決して見世物にするつもりでやったわけではない。
けれど殿下は、からかうでもなく、まっすぐな声音で言った。
「恥ずかしがる必要はない。家を軽んじる相手を、きちんと言葉で手放せた。それは、誰にでもできることじゃない」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
完璧令嬢だの、冷静すぎるだの言われ続けてきた私に、こういう言葉をくれる人は多くない。
殿下は少しだけ息をつき、それからこちらに向き直った。
「それで。次の話なんだが」
「次……?」
マクシミリアン殿下はゆっくりと立ち上がり、私の目の前に立った。
そして、公爵令嬢である私に対して、きちんと礼を取り……わずかに頭を下げる。
「マリアンヌ・ルーベンス嬢。もしよろしければ、僕と正式に婚約を結んでいただけないだろうか」
思考が、一瞬だけ真っ白になる。
第三王子。生徒会長。優秀で、人柄もよく、将来は軍をまとめる器と言われる彼が。
そんな彼が、私に。
――もちろん、全くの想定外ではなかった。
殿下が時折向けてくる視線の意味も。公務の合間に、わざわざ私の案を読みに来てくれる理由も。
けれど、それはあくまで「可能性」の一つとして、頭の片隅に置いておいたにすぎない。
だから。
「……あの、その……」
私は、ほんの少しだけ迷ってから、そっと鞄を開けた。
そして、中から封筒を一通、取り出す。
公爵家と王家の紋章が並んで押された、正式な書類。
「……実は」
私はそっと封筒を持ち上げた。
「婚約用の書類、すでに作成してありますの」
マクシミリアン殿下の目が、見事に丸くなった。
「……え?」
「エイベル様との婚約解消の件で、公爵家として次の提携先をどうするかは、当然検討しておりました。伯爵家との案件を切り替える以上、代替案が必要ですもの」
私は淡々と説明する。
「王宮とのつながりを強める。この国の将来の安定を図る。そのためには、“軍略に明るく、情報戦にも長けた”第三王子殿下との縁組が最適だと判断いたしました」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。つまり君は――」
「父と母には、すでに打診を済ませております。殿下さえご了承くだされば、形式的な調整だけで婚約は成立いたしますわ」
私がそう告げると、マクシミリアン殿下は数秒間ぽかんと口を開け、その後――ふっと吹き出した。
やがて堪えきれないというふうに、声を上げて笑い出す。
「……ははっ。やられたな」
「殿下?」
「いや……参った。告白する前から、ここまで先回りされていたとは」
笑いながらも、その瞳は真剣だ。
マクシミリアン殿下は改めて封筒を受け取り、中身を確認すると、満足そうに頷いた。
「完璧だ。――さすが、先読み令嬢」
「身に余るお言葉ですわ」
「いや、本心だよ。僕が何手も先を読んでいるつもりで、実際には、君の方がさらに先で待っていたわけだから」
そう言ってから、殿下は少しだけ表情を柔らかくした。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かがほどける音がした。
次の瞬間。
殿下は私の手を取ると、ふいにぐっと引き寄せた。
「きゃっ――」
驚いて声を上げる暇もなく、頬に柔らかな感触が触れる。
ほんの一瞬。けれど、世界が止まったように感じるほど鮮烈な一瞬。
頬に残る温もり。心臓が、馬鹿みたいに騒がしい。
殿下は一歩離れ、悪戯っぽく目を細めた。
「だがこれは、先読みできたかな?」
「……っ、殿下……!」
自分でも分かるほど、顔が熱い。
先読みも、損切りも、根回しも。ずっと得意だと思っていた。
けれど、たった一つの頬への口づけ一つ、読み切れない。
そんな自分が、少しおかしくて、少しうれしい。
「これからも、よろしく頼むよ、マリアンヌ。僕の――“先読み令嬢”」
「こちらこそ。どうぞ、全力でお使いくださいませ。第三王子殿下」
先読みも、根回しも、段取りも。
私の得意分野だ。
今度はビジネスとしてだけでなく、共に歩む伴侶として。
――この人の未来を、何手も先まで読み切ってみせましょう。
そう心に決めて、私は新しい婚約者へと微笑みかけた。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
貴族の責任とは、身分とは、という部分に少し踏み込んだ話が書きたくて執筆しました。
政略結婚ってビジネスのようなもので、そこに無責任に恋愛感情でギャーギャーいう人がいたら、無慈悲に「損切り」するのが現実だよね…と。
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