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戸坂さんの部屋で見た、三枚の写真。
コスモス畑で微笑む戸坂さんと、旦那さんらしき人物。
――肥満体の男性。スーツ姿で、どことなく緊張した笑顔。線のように細めている目や、歯を見せる笑い方が戸坂さんに似ていると思った。
そして、三枚目。
黄色い服を着た赤ちゃんと、破りとられた誰か。
「……一緒に住もうって言いだしたのは、優しい息子の方だったの」
昔を思い出したのか、戸坂さんは懐かしそうに笑った。
「お父さん――旦那が早くに死んじゃってね、わたしは一人ぼっちだった。それを気にして、息子が声をかけてきてくれたの。でも、息子の嫁が嫌がってね。……あの嫁は本当にいいところがなかったわ。顔も性格も悪くて。孫がその嫁そっくりの顔をしていて、将来を心配したくらいよ。孫の写真は、前に見せたわよね?」
――似てないでしょ、息子にも似てないのよ。
「結局、息子夫婦とわたしは、『同じハイツの違う部屋』に住むことになってねえ。二十年前にここに越してきたの。わたしは二〇一号室、息子たちは一〇二号室。足腰が弱ることを考えたら、わたしが一階の方がよかったのだけれど、孫がやんちゃだったからね。二階だと、物音が階下に響くのが心配でしょう?」
それからしばらくは幸せだったのよ。孫はわたしに懐いてくれているし、息子はしょっちゅうわたしの部屋に遊びに来てくれるし。
ふわりとした笑みを見せていた戸坂さんは、唐突に顔をしかめた。
「なのにあの女。政次に家のことを任せて、自分はパチンコばかり。あの子だって仕事があるのに」
憎しみのこもった目をしていた戸坂さんは、ふっとその表情をなくした。
――あれはね、今日のような暑い日だったわ。
「あの女は孫を物入れに閉じ込めて、朝からずっとパチンコに行っていたの。当時パートに出ていたわたしには預けにくかったのかしらね。……政次が仕事から帰ってきた時には、孫は熱中症で死んでいた。それでカッとなったあの子は、帰ってきた女を刺し殺したの。――ね、悪いのはすべてあの女。息子は優しい子でしょう?」
可哀想に、という言葉を戸坂さんはところどころで使用した。息子に対する言葉なのか、死んでしまった孫に対する言葉なのか、その両方なのかは分からなかった。
「女を殺した息子は我に返って、母親に相談してきたわ。警察に通報すべきだってあの子は泣いていたけれど、わたし思ったの。あの女は鬼だけど、その鬼のせいで息子が捕まるのはおかしいって。あの子はただ、天罰を下しただけなのに。世間から白い目で見られるなんて、あんまりだわ」
「…………」
「それでね、二人で死体を処理することにしたの。でも、あの子もわたしも車を持っていなかったから、死体を遠くへは運べそうになかった。バラバラにしたところで、あの小さな花壇に二人分の死体は埋められないでしょう? ――だからね」
食べたのよ。
私は目を見開いた。酸っぱいものがこみ上げてきて、けれど吐き出せない。
「孫は三歳だったとはいえ、二人分の肉はそれはもう多かった。けどね、人の肉って、冷凍したら案外もつの。首を切って血抜きして、内臓は綺麗に水洗いして。人を解体するのは初めてだったから、血抜きが甘くて臭みが出ちゃったりもしたけれど。焼肉のたれは味が濃いから、それで臭みをごまかしたりしてねえ。……息子と二人、毎日その肉を食べ続けたわ。食べきるのに一週間くらいかかったかしら」
行き場のない吐瀉物を飲み込むと、涙があふれた。同道さんが涙をすくって舐める。言う。
――君の頬肉は、下味なしでも大丈夫そうだなあ。
「さすがに骨は食べられないし――人間の骨って、煮込んでもあんまり味が出ないの。結局、二人の骨は花壇に埋めたわ。警察をうまくごまかして、事件は『失踪』というかたちで終わった。あの子は花壇が気になるからハイツに残ると言い出して……あの子の気が済むならと、私もここに残って花壇の世話をしていたのよ。なのに」
戸坂さんは鬼のような形相でこちらを見た。
「二〇二号室のうらぶれた男が、あれは失踪じゃなくて殺人だ、なんて言い始めたの」
――このハイツには人殺しがいる。
「あの男が、『その現場』を見たのかどうかは分からないわ。けれどずっと、『あれは殺人だ』と主張していた。――倒産目前の工場を背負って気がおかしくなっているのだろうって周囲は言っていたけれど、こっちは気が気でなかったわ。二〇二号室で物音がするたび、階下のあの子は怯えて。警察の目を恐れて日中でもカーテンをするようになったし、食事もろくに摂らなくなった。来る日も来る日もカップ麺ばかり。健康的な体型だったあの子は、みるみるうちに痩せていったわ」
戸坂さんは大袈裟な溜息をつき、かわいそうに、と何度目か分からない言葉を呟いた。
「それである日、耐えきれなくなったあの子は、二〇二号室の男を殺してしまった」
二度目の解体は比較的スムーズだったわ。
褒めてほしい子供のような口調で、戸坂さんは言う。
「今度は血液も使って、ブラッドソーセージを作ったりもした。デザートも。普段、ちゃんとしたものを食べない息子に食べてほしくてね。……そしたら、あの子ってばパクパク食べるの。ちゃんと覚えていたのね。『殺した人間の肉は食べて、骨は埋める』って」
でも、やっぱり量が多くてねえ。と戸坂さんは嘆いた。
「成人男性の可食部がどれだけの量か、アキラちゃんは想像できるかしら? 数日もすると流石に嫌気がさしてね。……だから『あげた』の。同道くんに」
思わず、同道さんを見る。彼は「あはは」とわざとらしい声を出した。
「すごくジューシーなミンチ肉で感動しましたよ。脂ののりもよくて。そういやあれって、どの部位だったんです?」
「ベースは脇腹ね。でも、あの男が痩せていたせいかあまりおいしくなかったから、それに腸を混ぜたの。あとはアキレス腱を少し」
「ああ。人間の腸は脂っぽいですからねえ」
同道さんは納得したかのように何度も頷き、私に向かって微笑んだ。
「あまりにもおいしい肉だったからね、どこに売ってるんですかって聞いたんだ。最初はてっきり、豚肉のミンチかと思ってたんだけど」
「本当のことを教えるかどうか悩んだわ。でも、今となっては教えてよかったと心の底から思っているの。まさかこんなに手助けしてくれるとは思ってなかったから」
「あんな美味い肉、一度食べたら病みつきですよ。――人間の肉はまずいって噂もありますけど、あんなのは同種殺しをさせないためのデマですよね。実際にまずいなら、カニバリズムって言葉自体ないんじゃないですか?」
私の表情を確認し、同道さんはわざとらしく明るい声を出す。
「そうだよ。人肉の味に感動した僕は、戸坂さんを手伝うことにしたんだ。その時初めて『母子の骨』のことも知って、花壇を掘り返した。それで、別の場所に移したんだ。車を持ってると、こういう時に便利だよ? 星井さんも免許を取るといい。――僕たちに食べられなければ、だけど」
泣きながらもにらみ返すと、同道さんは肩をすくめた。
「怖い顔もできるんだね。もしかして、親子や工場長の骨が見つかったら殺人の証拠になるとでも思っているのかな。だとしたら非常に残念だけれど、それは見つからない。食べられなかった骨は、跡形もなく消してしまったからね」
――嘘だ。そんなことできるはずがない。山奥かどこかに埋めているはずだ。
そう考えている私に、同道さんは囁いた。
「水酸化ナトリウムって知ってるかな。苛性ソーダと言った方が分かりよいかもしれないね。あれを死体にかけると、どうなると思う?」
私の耳に息を吹きかけるようにして、同道さんは笑う。
「骨は溶けるというより、脆くなると言った方が正しい。けれど、隠滅するには充分だよ。本当はフッ化水素酸があった方がいいんだろうけどね。……苛性ソーダの入手ルートは秘密。ヒントは『掃除』、とだけ言っておこうかな」
殺虫剤にも苛性ソーダを入れたらいいと思うんだけどね。同道さんの言葉に、戸坂さんが反応した。
「やっぱり、ゴキブリが増えたかしら」
「残念ながら。あいつら、血のにおいに反応するんですよね」
同道さんはあからさまに嫌そうな顔をした。
「星井さんにも忠告したよね、裏野ハイツはゴキブリが多いから気を付けてって。特に、二〇三号室は出やすいと思うよ。――隣の部屋、しょっちゅう血が飛ぶから」
……しょっちゅう?
私の顔色に気づいた同道さんは、気遣わしげな表情を作る。
「もしかしたらあまり知りたくないかもしれないけど。工場長が夜逃げしたあとも、このハイツは――この部屋は屠畜場になっているんだ。僕と津賀さんがこの部屋に『要らない人間』を連れ込み、政次くんがそれを処理する。戸坂さんがおいしく調理してくれて、あとは僕が骨を処分するだけ。簡単なシステムだろう?」
「……っ」
「どうしてそんなこと、かな。――政次くんは精神的なショックのせいで、二〇二号室に誰かがいる気配がすると、工場長がまだ生きていると錯覚してしまうんだ。そして、『殺人が露見する恐怖』から、この部屋にいる人間を殺してしまう。……僕は、人肉が食べたいだけ。戸坂さんは、痩せ細っていく政次に少しでも栄養のあるものを食べさせたいんだ。――我ながら、単純で分かりやすい説明ができたなあ」
「さっきも言ったけどね、アキラちゃん。あの子は『死体の処理』のためなら、『お肉』を食べてくれるのよ。いつもカップ麺だと、不健康だし不安でしょう? ……わたしはね。あの子が生きてくれるのなら、他人が死んでもいいの」
――隣の部屋を出入りする音。二〇二号室の前にいた津賀さん。深夜、二〇二号室から物音が聞こえた直後、大声をあげはじめたパーカーの男。その男に料理を渡す戸坂さん。車のキーを回しながら、駐車場へと向かう同道さん。
「――っ!」
「暴れちゃダメよアキラちゃん。うちの子はね、すぐに情緒不安定になっちゃうの。二〇二号室からの物音で『スイッチが入る』と、後先考えずに殺しちゃうのよ。長生きしたいなら音は出さないで」
深夜に奇声を発し、同道さんに押さえつけられていたパーカーの男。
どこかに向かおうとしている。あの時確かにそう思った。あれは。
あれは、この部屋に向かおうとしていた……?
「政次くん、やっぱり調子悪いですか」
同道さんの質問に、戸坂さんは頷く。
「なかなかよくならないわ。『食事のあとに残ったもの』を『骨』と勘違いして、なんでも花壇に埋めてしまうの。困ったわねえ」
――埋めなきゃ埋めなきゃ埋めなきゃ埋めなきゃ。
戸坂さんのタッパーを埋める後ろ姿。
彼が埋めていたのは、プラスチックの容器ではなかった。
かつて生きていたものの、自分が殺したものの、幻影だった。




