黒騎士と王女
ーーあの、槍は……。
赤い装飾が付いた展示品のように綺麗な槍。それはヘレン・ミルス・リンヴァルムにとって、大好きだった人を奪った記憶の中に薄らと残るあの槍だ。
槍を持つのはエレム・ミラージュ侯爵。だが、その容姿はすでに人だった面影は欠片もない。いや、元々人ではないのだろう。蝙蝠の翼を背から生やし、白目の部分が黒く染まって瞳孔だけが赤い。
身体が震える。その姿を見ただけで、ヘレンは何もできない。
ーーこわい……。
ただ幼子のように震え、身体が縫い付けられたように動かない。何も聞こえない。周囲の喧騒も耳に届かない。恐怖の感情が身体を縛り、力なくへたり込むしかなかった。
*
ダスティヌスは震えて動けないヘレンを背に庇いながら、内心歯噛みした。戦況ははっきり言ってまずい。あの最強と思われた近衛騎士団長が押されている。
エレムとオスカーの二人がかりで、しかもエレムの方は執拗にヘレンに意識を向けているため、どうしたって近衛騎士団長はダスティヌスとヘレンを守りながら戦うしかない。
だが、奇妙な事にオスカーは斬り合っていた剣を一度引いた。エレムも同じように彼の隣に並び、肩で息をする近衛騎士団長を見つめた。
「流石は王の剣、だな。我ら二人を相手に傷一つついていない」
感心するようにいうオスカーだが、まだまだ余力を残していそうだ。隣に並んだエレムも不思議そうな顔をする。
「悪魔族の身体能力と全く変わらないどころか、むしろ上だ。だけどーー」
エレムが横目で微笑しながらオスカーを見つめた。オスカーはただその視線を心地よさそうに受け止め、不敵な笑みを浮かべる。
「私には及ばない。なぜなら私は次代の”魔王”だから……。英雄から与えられた紋章を持ちながら、悪魔族の身体能力と魔力を得た、最強の人類の敵となるのだッ! まずは王を殺し、一国を滅ばすとしよう。それでこそ新たに”魔王”を名乗る上で相応しい所業」
「それが貴方の望み、ですか。アスカテル公爵。哀れな人ですね、魔王という存在は悪魔族になったからといって名乗れるわけではありませんよ」
仮面の女騎士が冷静な口調で言う。ダスティヌスも、オスカーの瞳に宿る狂気をただ哀れに思った。
「……英雄の一族に生まれがら、貴様は”魔王”になりたいというのか……」
「オスカー、君が力を開放すれば近衛騎士団長を始末できるだろ。ギドさんも待機しているし、俺は俺の目的を優先するよ」
「構わんよ、後は王の剣を殺し、勇者を殺すだけだ。そして初めて私が魔王となれるッーー」
身体を震わせて、オスカーは目を見開いた。瞬間、爆発的な魔力がオスカーの身体から放たれ、天井を吹き飛ばしガラス扉をことごとく粉砕した。
オスカーの身体に変化が起きていく。悪魔族の赤黒い魔力が身を包み、同時にアスカテル一族全てに与えられる英雄紋の紋章術を行使する。竜人となった初代アスカテルの力が、悪魔族の身体に歪な変化を与える。
背から鱗がびっしりと付いた竜の翼、そして同時に悪魔の翼も生える。二対の翼が肩甲骨のあたりから飛び出て、腰から尻尾を生やし、瞳は金色の縦長の瞳孔になる。白目の部分が黒く染まる。
肌は要所に黒い鱗がついており、赤黒い魔力を纏ったその姿は”魔王”というよりもーー
ーー”竜魔人”。
そんな感想を抱いた。ゆっくりと俯いていた顔を上げる様は不気味でしかない。
「フゥ、”魔王オスカー”誕生の瞬間だ。ひれ伏せーー」
歪んだ笑みと同時に、手に持つ長剣で近衛騎士団長に斬撃を放つ。だが、想像以上の膂力にさしもの近衛騎士団長も踏ん張れず、吹き飛ばされてしまう。
刀を盾にしてしっかりとガードしたが、真横に物凄い勢いで壁を突き破って吹き飛んでいく。ダスティヌスは吹き飛ぶ彼女を呆然とした表情で見た。オスカーはそんな表情を浮かべるダスティヌスを歯牙にもかけず、好戦的な表情で近衛騎士団長を追いかけて部屋から飛び出していく。
残ったのはエレム・ミラージュ。彼はオスカーを見送った後、ゆっくりとした足取りで近付いてくる。まるで恐怖を助長するように。
「陛下、特に恨みとかありませんが死んでもらいます。それと、姫をこちらに渡してほしい」
唯一の守り手を失った王は唇を噛みしめた。背後にいるヘレンは呆然自失とした様子で、立ち上がる事さえできない。今はただ、自分の”天運”に任せるしかない。
「くっ、舐めるなよ……我が娘だけは貴様などに渡すものかッ!」
少しでも時間稼ぎをするために。ダスティヌスは腰から剣を抜き、エレムに斬りかかる。だが、その斬撃はエレムが何気ない顔で親指と人差し指で挟み、軽く受け止めた。
「グっ! クソッ……」
力を入れてもピクリともしない。エレムは剣を指つまんだまま、つまらなそうに赤い槍をダスティヌスに向ける。瞬間、槍が炎を纏い一気に部屋の温度を上げた。そしてその時、今まで呆然としたヘレンが初めて声をあげる。それはトラウマを刺激したかのように、悲痛な響きを含んだ叫びだった。
「ダメ、ダメ……そんなの、ダメッ‼」
ヘレンの目の前にあるのは母が貫かれた光景と酷似していた。父の心臓の真上で固定された槍。炎を纏った槍は、火の粉をまき散らしながら今にも振り下ろされてしまいそうだ。
ヘレンの叫びにも、悪魔は……エレムはただ嬉しそうに笑っている。母を殺した悪魔。心の中は憎しみが渦巻いているのに、身体が震えてしかたない。
自分では、何もできない。物語に出てくるヒロインのように、ただ助けを待つしかヘレンにはできない。でも、肝心な英雄はこの世にはいない……いや、ヘレンの元には来てくれないのかもしれない。
現実はそんなに甘くない。英雄は救いを求める万人の元に現れるほど、都合がいい存在じゃない。だから、
「……っ」
瞳に涙がたまる。それが後少しで零れ落ちそうな時。
槍が振り下ろされる光景に、ヘレンは目をつぶった。
ーーお母さま……英雄は……。私の元にはーー
直後、爆風が起こる。
「ぐっあッ⁉」
次に余裕のないエレムの声が聞こえて。そして次に感じたのは誰かに抱き寄せられた事だった。腰に手を回され、強引に抱きしめられる。冷たくて硬い何かに、自分の身体が押し付けられるほど強く抱きしめられた。
既に部屋を支配していた熱気はなかった。ヘレンはゆっくりと眼を開ける。そこにいたのは王を貫こうとした槍を片手で掴み、もう片方の手で自分を抱きしめる漆黒の騎士だった。
兜に覆い隠された素顔は確認できず、ヘレンは現実感がなく、呆けたように心に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「くろきしさま……?」
* * * *
ノアはそっと力を入れずにジャンプした。それだけで観客席の遥か上方に造られた貴賓席まで一瞬だった。超絶ピンチだった王に向けられる槍を掴み、泣きそうな表情をしたヘレンを無意識に抱きしめていた。
なぜだかそんな彼女の表情を見ると、胸が締め付けられるほどに心が発熱した。
ジャンプ一つで何となく自分の身体能力の加減方法が分かった。そして目の前にいる目を見開いた表情の悪魔の腹に、全く力を入れずに蹴りを入れた。両手が塞がっている今、攻撃方法はそれしかなかったのだ。
「ぐっあッ⁉」
全く力を入れていない、そんな感覚で放った蹴りが悪魔族の腹にめり込むように突き刺さっていた。眼を大きく見開き、苦悶の表情の悪魔を認識した後、ノアは少しだけ力を入れて蹴り飛ばす。
壁をぶち抜いて吹っ飛んでいく悪魔を他所に、腕の中にいたヘレンが眼を開けた。こんな場でなければ見惚れそうなほど綺麗な瞳だ。だがその感情を無視して、ノアは努めて明るく軽口でも叩こうと思ったがーー
「くろきしさま……?」
きょとんとした表情で尋ねるヘレンを見て、ノアは一瞬疑問が浮かぶが、すぐに納得した。
ーー俺がレインの魔力を吸収して変身した事に気付いていないのか……。
レインとの戦いをヘレンは見ていないのだろう。正確にはノアが変身するところをだ。そこまで考えた時に、ヘレンが兜に優しく触れた。
「ほんとうに……きてくれた。お母様の言った通り、わたくしが大きくなったら、もしかしたらって……」
頬を赤らめて涙を瞳に貯めるヘレンが幸せそうに笑った。その表情は、ノアには酷く美しく見えた。だから、ここで兜を取って顔を見せるほどノアは空気が読めないわけではない。
今だけは英雄”黒騎士”になることにしよう。
「お怪我はないでしょうか、ヘレン姫」
幸い、兜の影響で声が少しくぐもって聞こえる。誰か分からないだろう。
「は、はいですわ。そ、その、助けてくださって、ありがとう……ほんとうに、くろきしさま……なの?」
幼子のような頼りない口調で話すヘレンに、ノアは兜の下で静かな笑みを浮かべる。それから呆気にとられる王を他所に、ノアはヘレンをお姫様抱っこする。
「へ……?」
「ーーでは、このまま敵を倒しましょう。その方が、私も守りやすい」
そしてそのままの体制で殺気立つ気配の元へ、駆け出す。お姫様抱っこしたのは、この場に残しておくのが不安だったからだ。彼女は悪魔族に執着されている。
神速でいて、でもヘレンに負担をかけないように。ヘレンは驚いたような顔をするが、すぐに安心した笑みを浮かべてノアーー黒騎士の首に手を回してきた。
その温かさを感じながら、ノアは視線を鋭くした。ヘレンの恐怖に歪んだ表情が、脳裏によぎる。
ーー絶対に許さない。
心中で呟かれた言葉をそのまま、ノアは悪魔の討滅へ向けて動き出した。




