王女と悪魔
それは一目で夢だと分かった。幼い自分が、楽しそうに笑みを浮かべているのを、俯瞰して見ているような光景。
大きなベットの上で、プラチナブロンドの髪をした美しい女性が、白いドレスのような寝間着姿の幼い少女に絵本を読んで聞かせていた。窓の外は既に暗くなっており、傍には明かりを灯すランプだけがある。
それは少女の大好きな時間だった。
『ーー悪魔族に攫われた姫を、命がけで守り、助け出したのです。国に帰った黒騎士様と小国の姫は、互いに想いを告白し、結ばれることになりました』
『むぅ~、黒騎士様はヘレンとじゃないの?」
幼い少女が口を尖らせいる。少女と同じ髪色の女性は読んでいた本を静かに閉じて、幼い少女の頭を撫でながら愛おしげな表情で見つめる。
『私の可愛いヘレンが、もう少し大きくなったらもしかしたらね』
少女は上目遣いでほんとに? と聞くと女性はしっかりと頷いた。少女は考え込むように俯き、遠慮がちに女性と眼を合わせる。女性が柔らかに微笑んで先を促せば、
『……お母様は、黒騎士様じゃなくて良かったの?』
その質問に、女性は一瞬目を丸くした後、すぐに可笑しそうに肩を震わせた。
『ふふ、そうね。でも、私にとってはあの人が黒騎士様に見えたのよ』
『えー、違うよ全然! いっつも私とお母様を放ってばかり……』
遊んでくれない父に不満を持つ少女は頬を膨らませた。女性は優し気に目を細める。
『あの人も、貴方の事をちゃんと愛しているわ。もちろん私もね。今は少し忙しいだけ。でも、きっと終わったら遊んでくれるわ』
やんわりと少女の父を庇う女性の表情には、確かな愛情があった。幸せそうな女性に、少女は小さく頷いた。
『……ヘレンにも、きてくれるかな……?』
曖昧な疑問に、女性は間髪入れずに優しく告げる。
『絶対来てくれるわ。貴方にも、素敵な英雄がね』
その答えに、少女は満面の笑みで返答した。
直後、幸せな空間が焼け落ちていく。気付けば周囲は炎に囲まれていた。
場面は移り変わって、少女が泣き叫んでいる。目の前に立つのは、酷薄な笑みを向けてくる悪魔。炎の槍を手にしながら、女性の身体を貫いていた。女性の身体から、血が噴き出す。小さく口元が動き、少女に何かを告げる。
その光景を目にしている少女の瞳から、大量の涙が出る。涙が床に落ちる瞬間、結晶化した涙が音を立てて落ちた。悪魔は槍を引き抜き、少女の結晶化した涙を手に取ろうと近付く。が、大勢の騎士達が来て、舌打ちをしつつ悪魔は窓から翼をはためかせて逃げる。
どんなに願っても、女性は助からない。英雄は……いつ現れてくれるのだろう。
王女ヘレンは今朝見た夢の内容を思い出して、顔をしかめた。その様子を目ざとく見つけたダスティヌスが、顔を寄せる。
「どうかしたのか、ヘレン?」
「……いえ、なんでもありませんわ」
そっけなく返答するヘレンと王であるダスティヌス、そして護衛として傍にいる仮面の女騎士、近衛騎士団長がいる貴賓席は、王族に相応しい造りだ。適度な調度品が飾られた室内は、王であるダスティヌスに合わせて落ち着いた雰囲気になっている。
また、正面はガラス張りになっており、そこから闘技場の舞台が見下ろす造りだ。
準決勝の戦いは、既に両者とも紋章術を使った激しい戦いになっている。ヘレンとしては今朝の夢が脳裏によぎって、集中できずにいた。
ヘレンの様子に首を傾げながらも、ダスティヌスは闘技場の舞台で激しくぶつかる両者に、感嘆するように口を開く。
「凄まじいな。あれほどの逸材、何とかして手元に欲しいが」
内心では同意する。傍にいてくれれば、もしかしたらちょっとは楽しくなるかもしれない、と思う。ただ、ヘレンはノアが王族に仕える姿を想像できなかった。
夢の事もあるのか、漠然とした不安が胸中に満ちる。楽しみにしていた準決勝の試合も、あまり見る気にはならない。
俯くヘレンの視界の隅で、それまで直立不動だった近衛騎士団長が背後を向いた。ダスティヌスとヘレンが疑問を口に出す前に、部屋にノックの音が響いた。
緊急の要件以外に、この場を尋ねる者はいない。ダスティヌスが許可を出そうとしたその瞬間、近衛騎士団長が固い声を発した。
「これは何の真似でしょうか、アスカテル公爵」
ダスティヌスの肩が揺れた。ヘレンの眼が見開かれる。貴賓席の扉を粉々に切り刻み、強引にアスカテル公爵は室内に足を踏み入れた。背後には、薄ら笑いを浮かべたエレム・ミラージュ侯爵を従えている。廊下には扉を守っていた近衛騎士二名が倒れており、身体から大量の血が流れていた。
「ダスティヌス王よ、これより、惨劇の幕開けが始まる。それを告げに来たのだ」
不敵に笑うオスカー・リル・アスカテルの姿に、ダスティヌスは立ち上がって、瞳を細めてオスカーを見つめた。
「正気か、貴様。王国を揺るがすことになる。この場には他国から来賓が来ている。敵国である聖王国からもだ。今ここで私と貴様がぶつかれば、周辺国家に不安を与え、聖王国は嬉々として攻めてくる。何もいいことなどない」
「あなたにとっては、ね。私はいいことしかない。私の目的を知らない貴方は、既にどうすることもできない」
険しい顔を崩さないダスティヌスは、オスカーが反乱を起こす可能性は少ないと思っていた。親族であるレインを近衛騎士団に入隊させたことは、人質の意味もあったからだ。
そして、あまり自国を優先せずに、ダスティヌスは亜人種国家との繋がりを太くすることを優先してきた。
知らず知らずに、大きな計画が実行に移されているとは知らずに。
オスカーが闘技場の舞台を指差した。
「あれが、私の計画の一端である」
その瞬間、ノアと戦っていたレインが懐から何かを取り出して口に入れた。すぐに身体の変化が始まり、特徴的なシルエットを形作る。
更に闘技場の観客席から悲鳴があがった。ヘレンは見たのだ。次々と貴族派閥に属する貴族達が、悪魔族に変身していくのを。
「……っこ、れは……」
「馬鹿なッ、悪魔族だと⁉ 貴様、まさかーー」
ダスティヌスの声を遮るように、オスカーは腰にある剣を抜き放った。背後にいるエレムが虚空に手を伸ばしながら、何事か呟く。すると手に紅い槍が現れた。その槍を見た時、ヘレンの心臓が大きく跳ねた。
「そ、れは……」
エレムがヘレンの様子を見つめて、裂けたような笑みを浮かべる。
近衛騎士団長が二人を庇うように歩み出る。剣を抜き、オスカーとエレム、二人と対峙した。目まぐるしく変わる状況に、ヘレンは絞り出すように舞台の上で戦っている少年に心中で呟く。
ーーたすけて。
* * * *
踏み出した一歩。地面が反動ではじけ飛ぶ。気付けば、ノアはレインの懐にいて、そのまま激突してしまう。
「グっ!」
「……っ」
図らずもノアはレインの胴体に頭突きをかましたかたちだ。兜をつけているためか、全く痛みがない。吹っ飛んでいくレインを見つめながら、ノアは距離を取ろうと後ろに下がった。それだけで、ノアは弾き飛ばされたように加速して闘技場の壁にめり込んでしまう。
ーーそれでも、全然痛くない。けど……。
ぶっつけ本番過ぎて身体能力が制御できない。かっこ悪いなと思うが、体裁を気にしている場合じゃない。
ーーこれが、竜の力か。
ずば抜けた身体能力の強化。それがレインの纏っていた鎧の能力だ。シンプルゆえに強い。
ノアの<魔力支配・黒装>は自分の魔力を支配して、武闘技である身体強化の強化効率を上げる紋章術だ。普段、十の魔力で五、強化できることを十の魔力で十、強化できる術である。
そして更にレインの魔力構成を支配したことで竜の鎧の強化効率を上げた。ノアが使っている漆黒の鎧<黒竜機装>はオリジナルであるレインのそれを超える。
ーーものにすれば、凄まじいな。
戦闘の中で、使いこなしていくしかない。まずは動かずに正確な動作をする。ノアはその場に立ち止まり、レインがくるのを待つ。
悪魔化したレインも、先程よりずっと早い。だが、ノアにはその動きが明確に見えていた。レインが赤黒く染まった長剣を振り下ろすのに合わせて、ノアは魔剣ルガーナを振るった。
それだけで稲妻のような鋭さ、破壊力を持ってレインの長剣を真っ二つにへし折り、レインの身体から血が噴き出した。
「へ……?」
ノアまでも愕然とした。ノアが腕の動きだけで振った斬撃は長剣をへし折るだけでなく、その背後のレインの身体を深く切り裂き、更に闘技場の壁に亀裂を走らせて、人々の悲鳴に拍車をかけた。
「いや、これ、嘘だろ……。というか、レイン、大丈夫か……?」
悪魔になったからか、傷は再生し始めているし、寸前で身体を斬撃から遠ざけたのだろう。傷は内臓にまで届いていない。一瞬で片付いた戦闘に、ノアは引きつった笑みを浮かべた。
「戦闘で身体に慣らそうと思ったけど……この状態じゃ、うかつに動けないぞ」
とりあえずノアはそーっとレインに触れて、異物である悪魔族の魔力を取り出した。”種”を空間魔術で異空間にしまって、ノアはヘレンがいる貴賓席に目を向けた。
「ーー次はあそこだな」




