我儘王女の気持ち
リンヴァルム王国、王城リンスレッドの一室、部屋には王女ヘレンと傍仕えのメイドの二人だけがいる。
王女ヘレンは湯浴みを終え、鏡の前でメイドのミラに髪をとかしてもらっているところだ。ちなみに、ミラはノアの着替えを担当したメイドである。
ヘレンの手にはある一冊の本がある。彼女はそれを大切そうに目を細めて見つめる。その表情は普段の傲慢さが見えない優し気な表情だ。
ミラがその本を見て、苦笑した。
「『黒騎士伝説』、またですか……?」
「……何か悪いかしら?」
古代の英雄、『黒騎士』と呼ばれた男の英雄譚。亡き王妃、ヘレンにとっての母親がくれた、大切な宝物である。
黒い鎧を纏った英雄が、悪魔族から攫われたお姫様を奪還する。そんなシンプルなストーリーである。
ミラがニヤニヤした笑みを作った。
「そういえば、姫様が城から抜け出して知り合ったあの少年、ノア様でしたね。あの方も黒いオーラを身体に纏うのだとか……。黒髪だし、共通点があるのではないですか……?」
「なっ⁉ あり得ないわ、黒騎士様はもっと男らしくて紳士的よ! ノアは鬼畜なところがあって全然優しくないもの!」
猛烈に反論しながら、ヘレンは謁見の間でのノアの行動を思い出した。父親であるダスティヌスの対応は褒められたものではないが、それでも一国の王に対して、一度は剣を向けたノア。ヘレンは自分の父親に対して剣を向けたノアに対して、どうも思わない。なぜなら、ノアがダスティヌスを攻撃するつもりがなかったことが、ヘレンには視えていたからだ。
それに、近衛騎士団長が認める発言をしたところを、ヘレンは初めて聞いた。それだけで、ノアが英雄に足る人物だと分かった。
「王都の街を一緒に回ったんですよね? どうでしたか?」
ヘレンはその問いに、思い出すように視線を上に向ける。
「……まあ、平民街も悪いところではなかったわね。貴族たちが理由なく蔑むのは……なぜなのか、少し疑問に思ったわ……」
ヘレンのその変化に、ミラが目を見開いた。陛下は平民を差別しないが、ヘレンは違う。それには二つの影響がある。
一つはヘレンの教育係。
ヘレンが八歳の時、丁度、現王、ダスティヌスが即位したばかりで、溺愛するヘレンに構っている暇がないほど、ダスティヌスが忙しかった時期。ヘレンの教育係になったのは貴族派閥に属するミラージュ侯爵家の者。
二つ目は王妃が殺されたことだ。公には病死になっているが、下手人は炎の魔槍を持った悪魔族である。その場面をミラは今でも覚えている。
ミラはヘレンの成長を嬉しく思ったが、それと同時に苦言を言う。
「……ヘレン様、これで何事も経験だということが分かったかと思いますが、もう城を抜け出すのはおやめください。とても心配したんですから」
「……だって……もうすぐ……登城してくるのでしょう?」
そう言って、ヘレンは憂鬱そうに顔をしかめた。ヘレンが言う人物にミラは心当たりがあり、ヘレンを案じるように肩をそっと撫でた。
「あの方は、アスカテル当主の右腕ともいわれる方。縁談には陛下も珍しく前向きになっているようですね……」
前向きになっているというか、なるしかないのが現状である。アスカテル公爵家は王国の第二の王都ともいわれる街、マナスを治める英雄の一族。一族全てが英雄紋を持つアスカテル家を敵にすることは、四つの王国騎士団を保有するダスティヌス王といえど、厳しい相手だ。
現在は北に帝国と、東に聖王国と睨み合ったままの緊張状態だ。今、国を乱すわけにはいかないのだ。
「はあ、特に、闘技大会中に開かれる舞踏会が嫌だわ。あの人とは……踊りたくないもの」
その発言に、ミラは手をパンッと叩いて、ヘレンの注意を引いた。
「名案がありますよ、姫様。ノア殿を呼ぶのです! あの方は貴族にも注目されている新たな英雄です。きっと、平民でも歓迎されますよ」
そう言うと、狼狽したようにヘレンが渋った。
「……で、でも……。ノアは……優しくないし、頷いてくれるか分からないし……」
ミラはその様子に更に驚いた。以前だったら、わたくしに従いなさい! そう言って強制的に連れてくるか、またはあんな平民、わたくしには相応しくありませんわ! とかそう言ったのではないだろうか。
(これは……ひょっとしたら、脈ありなのでは⁉)
ミラは内心の動揺を抑えて、
「そうでしょうか。たしかにあの少年は、敵対する者にはどこまでも冷徹な人間になる気がします。ですが、一度懐に入ってしまえば、どこまでも甘く大切にする人だと思います。姫様はもうすでに、あの方に気に入られていると思いますよ」
ミラがそう言うと、ヘレンはじっとミラを見つめた。それから、視線を右往左往してから、ゆっくりと口を開いた。
* * * *
ーー王国第二の都市、マナスではーー
王城よりも贅を凝らした美術品の数々が並ぶ部屋に、ソファに座る一人の男性がいる。彼は上等なワインを飲みながら、美術品の数々を鑑賞していた。豊かな金髪と豪奢な服を着た三十代くらいの男である。顔立ちはハンサムで、野性味あふれる顔立ちだ。彼こそがアスカテル家当主、オスカー・リル・アスカテル。
英雄の一族を束ねる長であり、公爵の地位にある者だ。
彼は静かにワインを揺らしながら、ゆっくりと目を閉じた。しばらくしてから、ノックもなしにドアが開かれる。公爵家としてあり得ないことだが、彼は動じず、扉を開けた二人の人物に対してにこやかに接した。
「随分と遅かったのだな」
「……ああ、まあな。こいつが人族の街なんぞに興味を示すからだが」
「えーー、ギドさんも乗り気だったでしょう?」
「黙れ、エレム。それよりも、報告だ」
入って来た者達は、異形の姿をしている。蝙蝠の翼を背から生やし、頭には二本の角がある。
ギドと呼ばれた男は禿頭の大男の姿。軽薄な方の男がエレムで、茶髪の優男風な姿をしている。
彼らは長い時を生きる、歴戦の悪魔族である。人族との戦争を何度も体験し、生き残った強者だ。そんな彼らと、英雄の一族であるオスカーは親し気に口を利く。
「ああ、聞きたいな。噂の英雄とやらはどうだったのか」
「……まず、能力がおかしかった……」
「おかしい? それはどういうことだい?」
「……魔力の支配。それと……変異」
「そうそう、悪魔族化した人族が一撃でやられたね、あの槍はすごかったなあ」
ギドは深刻そうに言うが、隣で頷くエレムは呑気そうだ。オスカーは二人の様子を見ながら、顎に手を添えて考える。
「ふむ、聞いたことがない能力だ。英雄の中にそんな力を使う者がいたのか……」
「最も重要なのは、”種”を回収されたことだ……」
その言葉に、冷静に聞いていたオスカーは思わず腰を浮かせた。
「何⁉ バカな、どうやって……」
「分からん。能力の応用なのか……ともかく、あの男は危険だ。障害になるかもしれん」
「……うーむ。そうか、分かった。だが、心配は無用だろう。聖王国の助力がある。ともかく、私はこれから王都へ向かう。早速で悪いがエレム、君には一緒に来てもらう」
オスカーがそう言うと、エレムは裂けたような、歪んだ笑みを見せた。
「いや、全然苦じゃないさ。愛しの姫殿下に合えるんだから、ね」
そう言った瞬間、エレムの姿が段々、変わっていく。蝙蝠の翼と角が、周囲の景色に溶け込むように透明になっていき、残ったのは人族にしか見えないエレムの姿。
「頼むぞ、我が右腕、ミラージュ侯爵」
オスカーも瞳を細めて、笑みを浮かべた。




