戦場へ
ちょっと少なめです。
『黒狼』。この名前は当たり前だが、本名ではない。『黒狼』は幼少期に、聖王国に捕えられた。王国の辺境にある小さな村出身である『黒狼』は獣人族である狼人の一家に生まれた。王国は獣人を含む亜人守護の国。だが、それは全ての人が認めているわけではない。どんな所にも悪人はいるのだ。
いつも通りの朝、しかし、『黒狼』は異変を感じていた。狼人である『黒狼』は、嗅覚が鋭い。鉄の匂いが充満しているのを感じて、自分の部屋から出た。そこには自分の両親、妹。自身が大切に思っていたものが、あっさりと死んでいた。
紫紺の髪を無造作に伸ばした男。毒薬のような瞳がこちらを捉えた瞬間、『黒狼』は震えが止まらなくなった。今すぐ逃げ出したいはずなのに、身体が言うことを聞かない。
『ふーむ。この英雄紋、どうやら君ではないようだ。だが、戦力にはなるだろう』
そう言って、男ーーヴァレールは『黒狼』を聖王国に連れて行った。家族を殺されたのに、憎しみの感情も何もぶつけることができなかった。幼いながらも理解していたのかもしれない。男は自分のことなど人として扱っていない。見ていない。モルモットを観察するような無機質な瞳には何を言っても無駄なのだと。
亜人差別国である聖王国に連れられて、『黒狼』は自分の主となる枢機卿エストビオにあった。星影を育成する場で、黒狼は目の前の敵をひたすら殺していった。そして、『星影』の一員になったとき。
命令を出される場には自分に嘲笑を送る教会の神官たちとエストビオ。『黒狼』は自身の手で狼人の誇りと言ってもいい耳と尻尾を斬り取った。嘲笑を纏った笑みを一転、驚愕に変えさせた。『黒狼』は、驚いたままの間抜け面を晒していた教会の神官たちを殺害。エストビオも殺そうとしたが、ヴァレールに止められて隷属の首輪をつけられた。
それ以来、暗殺組織『星影』の一員として様々な暗殺をしてきた。ヴァレールには失望された英雄紋。だが、『黒狼』にとっては自分に力を与えてくれる頼もしい力だ。獣人の英雄【黒狼のコクソ】が与えた英雄紋。
『黒狼』に残っているのは力だけだ。獣人の誇りである耳と尻尾がなくなった自分には、古代の英雄が与えたこの力しかない。
『黒狼』は閉じていた目を開いた。過去を回想するのは終わりだ。ヴァレールが殺されたことを知って、『黒狼』は安堵した。しかし、あの時、恐怖でぶつけられなかった憎しみをずっと持て余してきた。ヴァレールが求めていたノアという少年。この少年のせいで、ヴァレールは自分の家族を殺したのだ。ノアという少年さえいなければ、平穏に暮らせたのだ。
破壊された形跡がある森の中。『黒狼』は懐から水瓶を取り出した。これこそ、エストビオから渡された魔道具、【誘惑の魔香】。魔物の思考を誘導する魔道具である。水瓶にある液体が空気に触れると、蒸発して周囲に拡散して魔物達に影響を与えるのだ。暗い笑みを浮かべて、『黒狼』は蓋を取り払った。
「……ノアも、裏切者も、俺を守ってくれなかった王国も、全て滅べばいいのだ」
周囲に桃色の液体が蒸発して、森に拡散した。そして、森に轟くような雄たけびが響き渡った。悪意の獣が牙を剥き出しにして嗤った。
* * *
ノアは現在、赤竜の牙の面々とラーム平野を歩いていた。なぜかバッカスもいるが。他の冒険者達も続々と街を出て、戦場になる場に向かっている。騎士団のように列をなした行軍ではない。皆、好き勝手に歩いている。しかし、その足取りは重そうだ。顔色も悪い。ノアは横目で見ながら、そう思った。
「ちッ。辛気臭い面しやがって。敵は自分達がこれまで戦っていた魔物なんだぞ。群れたくらいでビビりやがって」
バッカスの馬鹿にするような声も、今の冒険者達には届かなかった。
「……群れたくらいって。あんたは強いからそんなことが言えるんだよ」
ロイドがバッカスを睨みながら言った。それを聞いたバッカスも頬を歪めた。
「馬鹿かてめえは。ビビってたら、力が発揮できないで終わるっつう意味だ。こんな調子じゃ、全滅だぞ」
口論になりそうだったので、ノアは間に入った。ちなみに、レナが足を動かすのが面倒だと言ったので、肩車している。とても戦場にいく出で立ちではない格好だ。
「まあまあ。バッカスが頑張って他の冒険者の分まで頑張るから大丈夫だよ」
「てめえも先陣きって戦わなくちゃないんだよアホが。他人事みたいな顔してんじゃねえ」
「それはお前のせいなんだけどなあ。お前にそれを言われると腹が立つからやめてくれないか」
「この非常事態に、戦力を遊ばせておくわけねえだろうが」
「俺はこの街に来たばっかりなんだけど。街に愛着とかないし」
口論を止めるために、間に入ったはずのノアがバッカスと口論になっているのを、ソフィやレミーナが苦笑して見つめている。ノア達の所だけ、異様なほどに話し声が聞こえていた。
冒険者達がラーム平野に集結している。メルギスの南門から、行軍して一時間。メルギスに所属するCランク以上の冒険者約六十名。騎士団との連携など冒険者には無理である。冒険者は横一列に並ぶ基本的な陣形。しかし真ん中が少しだけ突出している。そこには、Aランク冒険者である弓術師マールとバッカス、推薦されたノアとレナ。そしてギルドマスターであるアイク。領主であるガレスもいる。戦力を集中させて、一気に敵を潰す戦略だ。冒険者達の背後にはガレスの私兵であるへルミナス騎士団が控えている。これは、騎士団は日常的に魔物と戦うわけではないからだ。冒険者が対魔物のエキスパートなら、騎士は対人のエキスパートである。背後の騎士たちが万が一にも突破された時は、街壁を活かして、籠城する作戦だ。
ノアは緊張感に満ち溢れた冒険者達を見渡した。自分一人で戦う方がノアは楽だ。もちろん、精神的にだが。もしかしたら、ノアを狙った『『黒狼』』が引き起こした事態なのかもしれない。それでも、ノアは罪悪感など感じない。最後に頼るのは、結局は自分自身。この戦いで多くの死傷者が出ても、それは自分が弱かっただけだ。しかし、
「……ノア」
レナが手をギュッと握ってくる。小さな手だが、身体からあふれ出る魔力はそこらの魔術師の十倍以上である。この子とエルマだけは別だ。ソフィ達も助けたい気持ちはあるが、無理する程ではない。
「エルマ、『黒狼』という男を見つけて、俺に教えてくれ。戦わなくていいからね」
はい、と小さな声で聞こえてきた。ノアは魔剣ルガーナを腰に差したまま、空間収納から愛用の魔術剣を取り出して持つ。
「レナ、不安かい……?」
優しげな声で、ノアは言った。しかしレナは首を傾げて、
「……不安? なんのこと……?」
今から戦場になるというのに、一切の気負いがない。英雄紋を持つ者としての余裕なのか、それとも……。英雄紋を持っていたとしても、化け物になる訳じゃない。人間なのだ。いくら力が強くても、使いこなせなければ意味がない。レナは冒険者でもないのに不自然に落ち着いているし、英雄紋の力を使いこなしている。ノアはレナの過去が気になったが、それは今聞くべきではない。
レナは今も眠そうな目で戦場になるラーム平野を見渡している。ノアは苦笑して同じように前を見据えた。
ノアは視力を魔力で強化して、前方を視た。すると豪魔の森から、異様な軍団が現れる。肌が震えるほどの雄たけびが分厚い雲に覆われた空に響き渡った。魔物で編成された軍団。【魔獣種】、【巨人種】、【幻獣種】、様々な種の混成軍である。魔物は通常、群れない。同じ種族でもない限りーー
「古代の時代、世界を恐怖に震え上がらせた魔王軍とは、あのような軍団なのだろうな」
先頭に立つ領主のつぶやきが、ノアの耳に届いた。銀に輝く鎧にマントをつけたガレスが、振り返って、声を張り上げる。
「敵は強大だが、私達は引けない! 守るべきものがあるからだ。お前達がメルギスの街を守るのだ! 他の誰でもない、代わりはいない。自分の大切なものを自分の手で守るのだ‼ 行くぞ‼」
「「「「おう‼」」」」
「「「はッ‼」」」
冒険者達と騎士団の声が唱和する。その言葉で、冒険者達の目に火が付いた。ノアはレナの手を離した。そして、自然と顔に好戦的な笑みを浮かべて前に出る。そして、誰よりも速く魔物の集団に斬りかかった。魔物と人。戦場の火ぶたが切られた。




