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86話 とても人間らしい力




 森。

 それは(かつ)て馬車で通ったことのあったところだが、そちらはある程度整地された道だった。一方で、こちらは獣道すらない純然とした手付かずの森だ。


 木々が空を覆い、草は生い茂りまともに歩くことも困難。

 りりはあっと言う間に道に迷ってしまった。森を舐めていた事に後悔するも、後の祭りだ。


「やばーい……ここどこだろ? ……アーシユル。さっきの人。助けてー」


 恐れから、声を小さくし助けを呼んでみる。

 しかし、アーシユルは当然としても、先ほどまで聞こえていたはずの声も聞こえない。

 聞こえるのは、風と葉が擦れるといった森の環境音程度。


「アハハ、嫌だな……もしかして釣られた感じ? やめてよね。怖い……だけじゃん。ね? ドッキリでしたってやるなら、この辺が美味しいはずですよね? ……ねえってー」


 夜の森。

 月光すら入らないそこは、まさに闇の世界だ。


 人は闇を恐れる。故に夜は怖いものだと言い伝えられ、故に不安を、恐怖をかき消すために光を灯す。

 そんな夜の闇……それは容赦なく、りりを涙目にする程度に精神を削っていった。


「バチが当たったんだ……アーシユルと一緒に居なかった私が悪かったんだ……怖いよ……ねえ! さっきの人居るんでしょう! ねえってば!」


 不安に苛まれながら少々声を張ってみるも……返事はない。

 ……が。




 ガサリ




 返事の代わりに音がした。茂みの方からだ。

 同時に緊張が走る。




 ガサリ




 音は近づいてくるが、そこにあるのは暗闇。生き物らしき姿は見えない。

 不安から後退(あとずさ)るも背後の木にぶつかる。

 ぶつかったのなら迂回すれば良い話だが、既視感を伴う焦燥感が正常な判断能力を奪い去っていた。


 不安がどんどんと肥大化してゆく。茂みからするのは人の気配ではないからだ。


 森の環境音に混じって聞こえてくるのは獣の呼吸。

 しかしそれだけではない。ただの獣ならばこれ程の焦燥感を……既視感を覚えたりはしない。

 脳裏に浮かぶ正体からひたすら目を逸らし、思考を「よくわからないけど怖い」で塗りつぶす。

 だが……。


 至近距離。

 僅かに差し込む月光にて獣の姿を目視できるようになった時……全てに納得がいった。


 それは幼い頃の恐怖のカタチ。

 子供の頃に相対したソレよりもはるかに巨大な……顔の高さが人と同じ程度という巨躯。

 それはりりのトラウマ。


「い、猪っ。お、大き……」


 それは荒い鼻息を吐き、上下にはみ出した鋭い牙を携え、鱗と見紛える程の剛毛を纏った、穏やかな目をした大猪だった。

 だがその目は間もなく見開かれ血走り、荒々しい息は口を開いての咆哮に変わる。

 月光にてりりが視認したのだ。猪の方も同時にりりを目にしていた。


 目と鼻の先。子供の頃とは比べ物にならない恐怖に、りりは言葉を紡げない。 

 大量の冷や汗に加え、呼吸も浅く早くなってきているのを自覚する。世界が歪んで見えてしまう程だ。


 子供の頃に一度撃退している。助かっている……そのはずだが、足がすくんで動かないという事実が、りりをより一層追い詰めた。

 そして、記憶にあるあの時よりも遥かに強い敵意を向けられ、背後の木を掴んでしまっていることに気づく。

 カースを始めとする魔法を使うどころか、もはや逃げるという発想すら浮かんでこない。


 その時、何かが空を割く音がする。


 猪はそれを受け、叫んで立ち上がった。

 正体は矢だ。

 精密なのか偶然か? それは猪の目に突き刺さったのだ。


 立ち上がった猪は見上げなければならないほどに大きく映った。3メートル近くもあるシャチなど比較にならないほどだ。


 矢は左上後方から飛んで来たように感じたが、目の前で今まさに暴れようとしだしている恐怖の象徴から目を離せない。


 ガサッガサッ


 と、草を揺らし、リリの居る木の後ろに何者かが回り込んだ音がした。

 ヒトか亜人か、はたまた別の何かか……その正体は掴めない。

 しかし、それは矢を射た者だと、もっと言えば不思議な声の持ち主なのでは? ……と、淡い希望を持つことにした。少なくともそれは獣の気配ではなかったというのもある。


 正体を確認したい気持ちはあるものの、今は目先の猪をどうにかせねば、そのまま暴れられて大怪我に繋がりかねない。

 猪がダメージを受けた事により、援軍と思しき人物が来たことにより、無傷である自身の方が有利なのだと、そんな考えから少しだけ余裕が生まれ……りりは右腕を前に突き出した。


 トラウマ。恐怖の塊。それ自体が忘れ去りたい過去。

 相対して睨まれたというだけ。それが、存在が怖かったというだけ。苦しんでいる姿を見てなお安心などできない……というただそれだけ。

 たかだかその程度でそれを害することに踏み切る自身を(さげす)みながら……。


 呪いを込める。

 直接の恨みはなかったが、どうしても怖かったのだ。


 死ね。心で唱える。

 死ね。声には出ない。

 死ね。昔は出来た。

 死ね。だから、その気になれば今でも出来る。


 博愛主義のようでどこまでも傲慢で……その矛盾を含めてとても人間らしい……りりはそんな人間だった。




 魔法。

 それは想いを形にするモノ。


「……死ねっ(カース)!」


 過呼吸になりながら、手を前に出し、震えた弱々しいか細い声で叫んだ。


 (てのひら)から魔力を前に放出する。ただし、ありったけの呪いが込められたものを。

 放出されるのは禍々しいと言うに相違のない、紫とも赤黒いとも呼べる鈍い魔力光。それを出力の弱い念力で誘導していった。




 ───────────────




 大猪は目に矢を受け、熱いとも形容される痛みを味わいながら、それをかき消すように咆哮し立ち上がる。


 おのれ人間。こんなことで。

 気を高ぶらせ、痛みに耐え、持ち上げていた上半身を地へと戻し、血走った目で人間の雌を見据えて突進しよう。

 この体格差であればただの一歩で命を奪える。蹴散らせばいいだけ。俺を怒らせたのだから問答無用だ。惨めに死ね。


 と、闘争本能そのままに足に力を込めて人間を見据えた時……眼の前に見たこともない禍々しい光が、いびつな淡い光に包まれて迫っていた。


 それは死だった。死の概念そのものが今自身に迫ってきている。

 大猪は直感でそう感じた。しかし、自身の足は既に突進を開始しようと踏み込もうとしている。




 死ぬ。




 それが、大猪が最後に出来たまともな思考だった。



 ───────────────




 カース。

 魔法と称された、呪いという名の人間の傲慢さの塊が……大猪の顔に触れた。


 踏み込まれるはずだった前足は、その一歩を踏み出した……と同時に前のめりに崩れ落ちた。続いて後ろ足が震え、崩れ……身体が横倒しになる。

 大猪はなんとか立ち上がろうと足をバタつかせて見せたものの、見る見るうちに衰弱してゆき、ほんの数回動かした後……死んだ。




 りりは、木に体を預けたまま、ずりずりと背中を擦り付けて座り込む。


「った……やった。やった……! ……怖かっ……怖……かった……」


 体を震わせ、浅く呼吸を繰り返す。

 足はガクガクと震えているし腰だって抜けている。

 安全になったが故に噴出している行動の中、頭は徐々に冷静になってゆく。


 猪には何の罪もなかった。自分の前に姿を現したというだけ。だけど仕方ないトラウマだったんだ。

 多分猪は縄張りに入った者を追い出そうとしただけ。自分が悪い。

 しかも、身体は即死するほどの呪いという病に侵されてしまっている。害にしかならない。完全なる無駄死に。


 ここまで考えた時、少し冷静になってきた頭は更に冷たくなった。


「ごめんなさい……私……そんな……」


 相手は獣。言葉は通じない。おまけに既に息絶えている。

 ショックで血の気が引いてゆく。

 りりは、自身でも知らなかった己の傲慢さと凶暴性にひどく戸惑ったのだった。




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